第35話 まだですよ
運転席から引っ張り出すと、カルロスの日焼けした浅黒い肌は、なんだか青白くなっていた。酔い止めが見えた時点で嫌な予感はしていたのだが、まさかさっきの運転中ずっと我慢していたのだろうか。
「ま、まずいよ班長……」
スマホを両手で握りしめ、ロコが泣きそうな声をあげた。
「秋葉原のお店、在庫あるのが残り1店舗になってる……」
「で、電話で取り置きとか頼めないのか……?」
「ダメって言われた……」
残り1個。すぐに売り切れるものでもないと思うのだが、途端に余裕のなくなった感じがする。
「カルロス、大丈夫か?」
「ダイジョーブ……、全然ダイジョーブ……!」
顔中に脂汗をびっしり貼り付けて、カルロスは笑った。だが、すぐに深刻な顔になり、両膝を手で押さえるように立ちながら、ポルトガル語で何やら呟く。
「Já não estou bem……」
麗がさっとスマホを突き出し、翻訳アプリがカルロスの言葉を変換した。
『私はもうダメです』
「ダメなんじゃねーか!!」
「ダイジョーブよ。全然ダイジョーブよ」
このとき莉央は、拳を鳴らしながら浜辺に歩いていこうとしており、暁人は慌ててそれを止めた。
「飛鳥馬、ステイ! 一応聞くが何をするつもりだ?」
「いや、その辺にいるやつに言うこと聞かせてヒッチハイクを……」
「ダメです!!!!」
ときおり、人語を話す猛獣を相手にしている気分になる。
とは言え、新しいタクシーが捕まらず、立ち往生しているのも事実だった。アプリで配車を頼もうにも、ここまで来てもらうのに時間がかかる。あと、ニコニコ交通のタクシーを使おうとすればさすがに怪しまれるだろう。先生に捕まったらアウトだ。
すっかりグロッキーになったカルロスを抱え、暁人たちの東京行きは早速頓挫してしまう。こうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎていくのだ。というか、勢い縁たちには何も話さず駐車場まで走ってきた手前、後から彼女達に声をかけられるのも気まずいんだよな。
その時、急にタクシーのヘッドライトが明滅した。
「えっ」
思わず、カルロスを放してしまう。駐車場のアスファルトに身体を打ちつけ、カルロスがうめいた。
「乗ってください」
運転席から、静乃が顔を出している。
「私が運転します」
「えぇっ!?」
「急ぐんですよね? これが一番早いです」
静乃はどこかそっけない物言いながら、緊張した面持ちでハンドルを握っている。
まず真っ先にリアクションを見せたのは、ロコだった。
「いやいやいやいや!」
莉央・ロコ・麗の3人は、静乃が実はアラサーであることを知らない。当然と言えば当然の反応だ。
「ダメだって一ノ瀬さん! 免許も持ってないのに運転なんか!」
「あります」
「えっ」
「普通二種免許もあります」
そう言って、財布から運転免許証を取り出す静乃。
ロコと比べて、莉央も麗もそこまで驚いてはいない様子だった。莉央は初めて知ったようだが「へー」というリアクションにとどまり、麗はなんとなく得心がいったという表情をしている。
「うっす! おまえらリアクションうっす!!」
そういう意味では、ロコの反応はきわめてまっとうだった。
「ノセさん……」
暁人は助手席のドアを開けて、静乃を見る。静乃は、暁人のほうを振り返らなかったが、ひとことだけぽつりと、こう言った。
「隠し事してるの、疲れちゃいました」
「そっか」
静乃がそう決めたなら、暁人が言うことは何もない。
すると、アスファルトで寝そべっていたカルロスがゆっくりと上体を起こした。
「あ、いや、カルロス。これは……」
「これを持って行ってくだサーイ……」
カルロスが懐から取り出したもの。それは、ETCカードだった。
「いま入ってるやつは、会社のなので高速乗るとバレマース……。こっちは私のなのでダイジョーブ……」
「か、カルロス……!!」
「
その言葉を残し、カルロスは再び気を失った。
暁人は、カルロスをそっと日陰によこたえ、それから買ってきたジュースをしこたまクーラーボックスに詰め込んで彼の横に置くと、タクシーに戻って助手席に滑り込んだ。
すでに莉央・ロコ・麗が後部座席に座っており、静乃の免許証を3人で覗き込んでいた。莉央が顔をあげ、さすがに険しい顔をして言う。
「一ノ瀬、おまえ干支が……」
「さあ、出発しますよ!」
静乃がやや強引にアクセルを踏んで、タクシーは御浜海水浴場を飛び出していく。
「……ところでボク達水着のままだけど、どこかで着替えさせてくれるんだよな?」
ロコの疑問に答えられるものは、車内にはいなかった。
『青春をやり直したくて高校に再入学をしたのですね』
「にしたって思いきりが良すぎないか」
「良いじゃねーか。やりたいことをやった方がいいぜ。エルナも言ってたし、アタシもそーした」
「あははははははは」
おおよそ二週間前、暁人が静乃の実年齢を知った時と同じようなリアクションが、後部座席から返ってきている。静乃は笑うしかないようだった。
御浜海水浴場を経ってしばらく、県道と国道を縫って東へと向かう。これから3時間、ずっと車の中だ。自然と話は、これまで隠していた静乃のプライベートへと波及していく。他人にはさほど興味を示さない莉央も、この時ばかりは前のめりに話に混ざってきた。
「高校来る前はどんな仕事してたんだ?」
「最初は高速バスの運転手ですねぇ……。旅行が好きで、いろんなところ行きたかったので。まぁ、ブラックすぎてすぐ辞めちゃいましたけど」
「旅行好きなの? あー、だから予定立てるの上手いんだ」
「ずっと一人旅でしたねぇ」
暁人も知らなかった静乃の話が、バンバン飛び出してくる。聞かれたことに答えるたび、静乃はなんだか照れくさそうに笑っていた。
『今回の旅行は、どうですか?』
麗の質問。静乃は一瞬だけ、少し寂しそうな顔をしてから、また笑顔になる。
「楽しいです。これは本当。でもね、ちょっと失敗しちゃいました」
「失敗?」
暁人はその言葉が気になって、思わず聞き返してしまう。
「隠し事はダメですね。自分の中でどんどん膨らんで、自分が嫌になっちゃう」
「それなら……」
今みんなに言ったじゃないか。暁人がそう言おうとすると、静乃は正面を見据えたまま、被せるように言った。
「まだですよ」
その言葉に、どきりとする。
まだ。何がまだなのか。理解できない暁人ではない。静乃はまだ何か、秘密を持っている。
だが、いや、でも、そんなことはあるはずない。だって静乃は違うと最初に――
「(……ノセさんが違うって確証、あったっけ?)」
莉央は違う。彼女には“ライオネル紳士”のアカウントと活動実績がある。
麗は違う。彼女には“かなりあ”のアカウントと活動実績がある。
ロコも違う。やはり、零細個人Vtuberとしてのアカウントと活動実績がある。
じゃあ、静乃は?
瞬間、不意に暁人の脳裏に蘇るのは、暁人が静乃の秘密を初めて知ったときのことだ。あの時、確かに暁人は聞いた。他に隠し事はないのか、と。
そして静乃はそれに対して――
――へ? なんのことですか……?
あれ、よく考えたらはぐらかしてただけじゃないのか。
連鎖的に思い浮かぶのは、麗がエルナではないと発覚したとき。あのとき、静乃は気まずそうに何かを言おうとしていた。容疑者が縁に移ったあと、『プレゼント受付再開のお知らせ』を教えてくれたが、それを言うだけならあんなに気まずそうにする必要はないのではないか。そもそも、なんで羽友の4人よりあの情報を早くゲットできた?
そして極め付けは、芦ノ湖からスカイウォークへ移動するバスの中。
暁人が「聞いたら答えてくれるんだろうか」という疑問を口にしたときの、静乃のやけにはっきりとした、力強い、確信に満ちた声。
「の、ノセさん。あの……」
急に、真実に触れるのが怖くなる。暁人がパンドラの箱に手をかけるかどうか迷っていたそのとき、
「あ、あああああああーーーーーっ!!」
後部座席で、ロコが悲鳴をあげた。
「加納、急にでけぇ声出すな!」
莉央に怒鳴られるが、この時ロコは「加納って言うな」という訂正すら忘れて、スマホの画面を凝視していた。
「ろ、ロコ。まさか……」
泣きそうな顔で、ロコはその画面をこちらに向ける。
「う、売り切れちゃった……。最後の1個……」
暁人たちが秋葉原に買いに行こうとしていた、海外製のドローン。
ロコが見ていた店舗の在庫は、0と表示されていた。
伊豆中央道の有料区間に入る手前、暁人たちを乗せたタクシーは、のろのろと路肩へと駐車した。
静乃はハンドルに頭をのせて何か考え込み、暁人は腕を組んで天井を睨む。麗はラップトップを引っ張り出して、何か必死に調べ物をしていた。莉央は妙案が思い浮かばず苛立っており、ロコは泣き出しそうな顔でスマホを操作している。
誰ひとりとして、「やっぱり無茶だったね。帰ろう」とは、言い出さなかった。
多分、そうするべきなのだ。本来なら。
そもそも、友人のドローンが壊れたという理由で、代わりのものを買いに行く方がどうかしている。縁だって迷惑かもしれない。まして、あてにしていたものが途切れたのだから、さっさと切り替えて伊豆観光に戻るのが賢い選択というものだ。
賢い選択。そんなもの、糞食らえだ。
暁人はその「賢い選択」とやらで、スイカ割りの一番楽しい瞬間を楽しめなかったのだ。スイカ割りの本質は暴力である。静乃があの瞬間、スイカを気持ちよく粉砕したように、心地の良い解決策はきっとあるはずだ。たとえそれが、一般に愚行と呼ばれるものであったとしても。
「……みんなは」
ハンドルに頭を乗せていた静乃が、口を開いた。
「みんなは、なんで東京に行きたいんですか?」
「なんでって……」
ロコがスマホをいじる手を止める。
「……えるーなが悲しむのは嫌だし、それとは別に橘さんが悲しむのは嫌だし……それから、班長がひとりで行くのも嫌だったから……かな」
すると、莉央も頭を掻いて続いた。
「アタシは、んー。よくわかんねぇや。別にどこでも良いけど、ひとりで世界一の金見たって退屈だろ」
ちら、と2人の視線が麗に向く。麗も、ラップトップのキーボードを叩く指を止めた。
『レク係として最善を尽くします。それに、私たちの修学旅行はどこに行くかが重要ではありません。誰と行くかが重要です』
そして、全員の視線が暁人に向く。暁人の答えは最初から決まっている、
「その方が『楽しい』と思って。ノセさんは?」
すると、静乃はハンドルから上半身を起こして、ふっと笑った。
「みんなほど立派な理由じゃないですよ」
この会話に、どのような意味があったかはわからない。だが、今の会話は間違いなく、静乃の背中を押したようだった。彼女はどこか吹っ切れた表情になり、暁人に穏やかな笑みを向ける。
「浅倉くん、私のバッグ、とってもらえますか?」
「ん? あ、ああ……」
暁人が、膝の上に乗せていた静乃のバッグを手渡すと、彼女は中からスマホを取り出した。
どこかに通話をかけるが、しばらく経っても、相手はなかなか出ない。
「……寝てるな」
静乃はぼそっと呟くと、スマホをスピーカーホンにしてホルダーに固定し、そして再び、車を動かし始めた。
「の、ノセさん……?」
タクシーはゆっくりと料金所を通過し、伊豆長岡インターチェンジから国道136号バイパスへと入る。東京方面へと向かうルートだ。
一体何を、と尋ねようとしたところで、電話口の向こうから女性の声が聞こえてくる。
『おはよぉ〜……。え、なぁにぃ……?』
なんだか、どこかで聞いたことのあるような声だった。
「くーちゃん、もう10時過ぎだよ。いいかげん、昼夜逆転なおしな?」
「「「「くーちゃん……?」」」」
静乃の穏やかでフランクながら、どこか嗜めるような声音。それを聞いた電話の主は、しばらく口篭ったあとに、『あれ?』と言った。
『えっちゃん、いま修学旅行じゃなかったっけ……? 電話かけていいの……?』
「「「「えっちゃん……!?」」」」
「くーちゃん、こないだの配信で言ってたドローン、もう使ってないでしょ。ちょうだい」
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