第26話 容疑者 加納浩子

 暁人のその言葉を受けて、ロコは目を大きく見開いた。


 彼女はどんな質問でも受け止めるつもりでいたのだろうが、さすがにこれは想定外だったのだろう。視線をさまよわせ、顔中に脂汗が浮き出る。暁人の真剣な眼差しを受け、何か言葉を返さなければと思いつつも、言葉が出てこない。そんな感じだ。しばらくしてから、「こひゅっ」という空気の漏れる音を何回か繰り返したのち、ロコはカッスカスの声でこう言った。


「……なんでわかったの?」


 あたりか。暁人の口からふっと息が溢れた。


「スマホに入ってるアプリが見えてさ」

「うえ……めっちゃ詳しいじゃん……。オタクか?」

「まぁ……そこそこね」


 不思議と、動揺はなかった。ここにいるのが、エルナであってエルナではない。そういう感覚だ。おそらく、ロコが演じている理想像としての彼女は、ロコとは厳密には違う存在なのだろう。暁人も、ロコも、白羽エルナに憧れを抱いているという意味では変わらないのではないか。自然に、そう受け取ることができた。


 ロコは、少し照れくさそうに笑っている。


 「自分だけ何にもない」なんてことはないじゃないか。エルナがロコにとっての理想像であって、たとえ現実のロコから遠くかけ離れた存在であったとしても、彼女のアクションが生み出した幻想は間違いなく暁人を勇気づけた。それに、莉央が修学旅行に来るきっかけだって作ったのだ。


「班長、知ってるかな。白羽エルナって」

「ああ」


 知っている。彼女が駆け出しの頃からのファンだ。

 もちろん、ロコには及ばないかもしれないが、彼女のことを知ってから、ずいぶん長い。


「ボク、彼女に憧れてVtuber始めたんだけどさ」

「ああ……あ?」

「登録者数も5人くらいで、ぜんぜん伸びなくってねぇ。しかもその1人はセクハラコメントばっかしてきてさぁ。最悪なんだよねぇ」

「え?」

「えっ?」


 暁人とロコは顔を見合わせた。


「おまえがえるーなじゃないの?」

「班長何言ってんの?」


 しばらくの間、沈黙が2人の間に重く横たわった。


 暁人は、ロコの発言の意味をじっくり噛み締めたあと、飛び跳ねるように叫ぶ。


「違うの!?」

「違うが!?」

「え、昨日なんで部屋抜け出したの?」

「いや、えるーなが凸するかもって思ったから……。こっそりクロハの配信見ようと思って……」


 完全に同じ理由かい!


「じゃあ、午前中マグカップに描いてたのは!?」

「見てたのかよ恥ずかしいな! いや、あれボクのVの立ち絵だよ。ほら」


 そう言うと、ロコは自分のスマホを開いてLive2Dの立ち絵を見せてくれた。


 白い翼を広げた清楚な美少女のデザイン。頭には天使の輪っかを模した幾何学的な何かが浮かんでおり、ブレザー服に身を包んでいる。絵柄自体はだいぶ下手く……いや、個性的だ。

 ちなみに、このブレザーをセーラー服に変えると、完全に白羽エルナになる。


「……パクリか?」

「パクリじゃない! インスピレーションを受け、リスペクトした!!」


 ここまで断言できると、いっそ清々しい。


「じゃあ、あれは? ほら、準備するときにさ、言ってただろ。『学校のイベントは、全力で楽しまなきゃ損だ』って」

「ああ……」


 あの莉央をも修学旅行に引っ張り出したエルナの名言である。おそらく、ロコもまたあの発言に触発されて修学旅行に来るつもりになったのは間違いないだろう。エルナが、たまたまコメント欄に流れてきたネガティブな発言を拾ったことがきっかけで、なんと2人も修学旅行に来ることになった。

 ロコは頭を掻きながら言った。


「いや、あのとき『修学旅行はサボる予定』って言ったのボクなんだよね」

「あのクソコメおまえかい!!」

「えるーな本人に行かないと損って言われたら行くしかないだろ……」


 その心がけは立派だが。


 暁人はどっと疲れが出てきて、そのまま座り込んだ。まぁ、決定的な証拠に欠けていたと言えばそのとおりだ。ロコが別のVtuberだという可能性も、確かにあった。だが、あの2択まで絞られた状態でVtuberしか使わないアプリが出てきたら、さすがに誰だってロコがエルナだと思うだろう。


「最初は、腐してやろうと思ってたんだ。陰キャだとか自称してるくせに、あんなにチヤホヤされてさ。どうせ頭の軽い女がキモオタどもに媚びてるだけだろって。はいはい楽な商売ですねって」

「お前は喋るたびにボロが出るな」

「でも、なんか、フェスで歌ったり踊ったりしてるえるーな見たら、涙が出てきてさ……なんか、夢もらっちゃったんだよな……」


 そこまで歪んだ心根を浄化するとは、さすがエルナである。ロコが修学旅行に来たのも、ひいてはここで本音を吐露できたのもエルナのおかげと考えると、彼女は軽く1人の人間を救っていることになるだろう。もしかしたら本当に天使なのかもしれない。


 いや待て。


 暁人は、能天気に話を〆ようとした自分に待ったをかける。


 ロコは白羽エルナではなかった。


 と、言うことはだ。エルナの魂の正体というのは……。


「でもさぁ、班長も羽友だったんだな。も、もうちょっとえるーなの配信について語り合いた……班長?」


 暁人の顔を覗き込んでくるロコ。そう、彼女にはまだ話していないが、まだ終わってはいないのだ。むしろ、本番はここからである。


 険しい顔をしている暁人のもとに、電話の着信があった。スマホの画面を見ると、そこには「飛鳥馬莉央」の文字がある。暁人は、かぶりを振って雑念を払い、通話をオンにした。


「もしもし、飛鳥馬か?」


 だが、聞こえてきたのは、莉央の声ではない。


『わだじゃ、はんちょう』

「……藤崎?」


 暁人は訝しげに眉をあげる。電話口に出たのは、平坦な東北訛りのイントネーション。藤崎麗だった。


『ほんとにめやぐってまったんずね。ほんずなめぐせごどだびょん』


 いつもに比べるとゆっくりしゃべっているような気がするが、言葉の意味はわからない。


 なぜ、莉央の電話で麗がかけてきているのだろうか。彼女のスマホは水没している以上、連絡を取ろうと思ったら、誰かから携帯を借りるしかないだろう。この電話に彼女が出るのは、不自然だがあり得ないことではない。気になるのは、なぜ莉央自身ではなく彼女が電話をかけているのかだ。莉央は、今電話を取れない状態にあるのか?

 通話が漏れ聞こえてきたのか、ロコも何やら不安げな表情を浮かべていた。


「……藤崎、そこに飛鳥馬はいるのか?」

『ね』


 短い否定の言葉。これはわかる。


「えぇと、飛鳥馬の代わりにかけてるのか?」

『ね』


 これも否定。暁人は少し考えこむ。


「えぇと、藤崎。たぶん大事なことで電話をかけてきたんだと思う。もう一度、要件を言ってくれるか?」

「………」


 電話口の向こうで、息を呑むような声が聞こえた。わずかな間、沈黙が流れる。


 今の言葉で麗を傷つけてしまったのではないかと心配になる。麗は、自分の素の言葉が通じないことにわずかながらコンプレックスがあるようだった。この修学旅行中は、それでも結構な頻度で言葉を発してくれるようになっていた。再び、喋るのが嫌になったりしないだろうか。


 暁人が何かフォローを入れようと口を開いたその時、電話口の向こうからこう聞こえてきた。


『……迷子に、なったの。班長』

「え……」

『そんなに、深刻じゃないの。でもね、集合時間に遅れると、みんな困るでしょ?』


 やや辿々しい標準語。少し声が震えていた。


 三島スカイウォークは、吊り橋を渡った先のエリアにさまざまなアスレチックが存在する。多くが箱根の豊かな自然を生かしたもので、ルートを外れると山の中に迷い込んでしまう。もちろん安全管理は徹底されているはずだったが。


『スマホは莉央のを借りてる。あの、も、森の写真とか、撮りたくて借りたんだよ』


 それで、撮影に夢中になっていたら、どこかでルートを間違えてしまったらしいということだった。スマホを気前よく貸してやるのは莉央らしい。

 ただ、連絡不精である莉央のスマホには連絡先が入っておらず、着信履歴を辿ったところ、記憶にある暁人の番号と一致したものがあったので、かけてみたということだった。


「わ、わかった。えぇと、とりあえずノセさん達にはこっちから連絡する。スタッフの人に探してもらおう」

『ん』

「1人で大丈夫か? このまま通話してようか?」

『なんもけね……大丈夫だよ、ふふっ』


 普段の麗からは想像できないような、柔らかな笑い声。耳心地の良い甘い声を残して、彼女との通話は終わった。


 どうやらちょっとしたトラブルが起こっていたようだ。すぐに静乃と連絡を取らねばと思う暁人だったが、同時に、心が別の方へと引っ張られるような感じもあった。


「……班長。今の、藤崎さんだよな?」


 少し困惑した様子で、ロコが言う。


「なんか、普段と違うっていうか……標準語でしゃべるとあんな感じなのかな」

「………」


 東北訛りは抑揚が平坦になりがちだ。標準語に切り替えると、言葉に少し大げさな抑揚がついて印象がまるっきり変わってしまうということも、ないわけではない。


 ただ、それにしてはなんというか。麗のしゃべり方は、まるで……。


「っていうか、すっごいえるーなっぽい喋り方じゃなかった?」

「だよな!?」


 心の隅っこにあったモヤモヤを的確に突くロコに、暁人は全力で同意した。


 あの弾むようなイントネーション。例えば、『それじゃあまたね~』と言うときの“またね~”が一段高い声で跳ね上がる感じ。今の麗の喋り方も、それに近い。

 そして何より、最後の控えめな含み笑い。あれもめちゃくちゃエルナっぽかった。


「で、でもそんなわけないよな? たまたま似てるだけっていうか……」

「ロコ」


 暁人は腕を組んだまま、神妙な顔をして言った。

 班員のほぼ全員が知っていることなのだ。ロコも羽友であり、状況がこうなったのなら、もう伝えてしまった方が良い。


「実は、俺たちあまりもの班の中に、えるーなの中の人がいるんだ……」

「え゛ッ……!」

「そして、その容疑者はもうひとりしか残っていない……」

「え゛ぇ゛ッ……!」


 状況から、おおよその流れを察したのだろう。ロコは立ち止まると、その場に膝をつき、口元とお腹を押さえながらうずくまった。


「吐きそう」

「気持ちはわかる」

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