第1章 この中にひとり、推しがいる

第1話 歯車の狂った日

暁人あきと、さすがにまずいって!」

「消防車を待とうよ、浅倉あさくらくん!」


 クラスメイトのそんな声を振り切って、浅倉暁人は増水した川へと飛び込んだ。危険は承知の上だが、自棄になったわけでもない。身体に巻いたロープの端をアーチ型の車留めにくくりつけて流されないよう安全を図った。それに、暁人本人も運動には自信がある。


 とにかく重要なのは、川に落ちた子供が、橋の欄干に必死にしがみついている子供が、今にも激流に負けそうになっているということだ。


 茶色く濁った川の水を掻き分け掻き分け、暁人は少年の元までたどり着く。河岸のギャラリーから、「おぉっ」という声があがった。


「少年、助けに来たぞ!」


 怯えの中に、わずかに安堵の混じった視線が、暁人に返ってくる。

 暁人はあえて長めに余らせておいたロープで、少年の身体を自分へと巻きつけた。ここで誤算に気づく。


「……どうやってこの子を抱えたまま泳げばいいんだ?」

「お、お兄ちゃん……?」

「いや、大丈夫だ大丈夫! なんとかなるって!」


 少年の顔が水に浸からないようにしながら、ロープを両手で掴み、手繰り寄せるように少しずつ移動を始める。思ったよりも重労働だった。河岸に集まった人々が、はらはらした面持ちでこちらを見守っている。そんなに危なそうに見えるのか?


「いや、俺は死なないぞ。修学旅行もあるし、推しの配信だってある!」


 暁人が自らに気合を入れた時、けたたましいサイレンの音と共に、赤色灯を輝かせた巨大な車が、遠くから走ってくる。


「少年、消防隊だ!」


 河岸でわっと歓声があがり、そして暁人はそれに負けないくらいの大きな声で、腕に抱いた少年に声をかけた。先ほどとは比べ物にならないくらい、少年の顔には安堵が浮かんだ。それを見た暁人は、へらっと笑う。


「やっぱプロには勝てねぇか〜」


 痺れる腕で、少しずつ川を渡っていく暁人。オレンジの服を着た水難救助隊が、先ほどの暁人とは比べ物にならない速度で川を泳ぎ、暁人と少年のふたりを抱えて河岸へと戻っていく。少年の母親が駆け寄ってたので、暁人は彼の背中を押してやる。

 水難救助隊のおじさんは、暁人の蛮勇に多少は顔をしかめながらも、少年が流されずに済んだのは暁人のおかげだと最終的には褒めてくれた。


「暁人ーっ!」

「浅倉くん!」


 クラスメイトたちも駆け寄ってきたので、暁人は笑みを浮かべて親指を立ててやった。


「心配かけたな」

「てめぇこの! ハラハラさせやがって!」

「ほんとに無事でよかった!」

「いやいや、死ぬわけないって。来月には修学旅行あるんだし」

「そればっかじゃねーか!」


 笑顔でこづいてくる友人たちと戯れ合う暁人。まぁまぁ悪くない気分だった。


 浅倉暁人、17歳。容姿端麗。コミュ力抜群。五稜館高校2年1組では中心人物のひとりだ。分け隔てなく誰とでも接する暁人は、クラスの中でも人気者だった。彼の好青年っぷりが張子の虎でないことは、見ての通りである。最近もっぱらの楽しみは、推しの配信と来月に迫った修学旅行。


「浅倉くん、身体冷やさない方がいいんじゃない?」

「あー、そうだな。明日班決めだもんな。休むわけにはいかねーや」


 クラスメイトであるたちばなゆかりの言葉に、暁人は笑顔で頷く。


 しかし翌日、彼はこの日の無理がたたって風邪を引いた。




 体温計を見ると37℃。見事に風邪を引いたようだ。班決めには参加したかったが、無理に登校して誰かに伝染しでもしたらそれこそ申し訳ない。クラスのLINEグループに病欠の旨を伝えると、すぐに何人かのクラスメイトから体調を気遣うメッセージやスタンプが届いた。


『大丈夫?』


 そんな中、個別にメッセージを飛ばしてきたのは、昨日の河岸にも一緒にいた橘縁だ。


 少し大人びた清楚な佇まいが印象的な女子生徒で、知的で落ち着いた雰囲気がある。わかりやすいギャルなどではないが、彼女もまた暁人のクラスの中心的人物だった。

 暁人は返信するか少し悩んだあとに、クマのマスコットが涙を流しながら「つらい」と発言しているスタンプを返す。するとすぐに、縁からパンダがクマを「よしよし」と慰めているスタンプが返ってきた。


『みんな残念がってるよ。浅倉くんと班組みたかったから』

『どこに入るかは楽しみにしてるよ』


 修学旅行の班決めといえば、余り物だのなんだのというあるあるネタが存在するが、少なくとも2年1組には無縁だった。2年1組は、先生方から「奇跡」と称されるほどに治安の良いクラスである。特定の誰かを除け者にしようなどという生徒は存在しない。マジで。

 そして暁人はどのクラスメイトと班を組んでも修学旅行を楽しむ自信があった。普段つるんでいるグループに限ったことではない。あまり絡みのないグループとでも、趣味の話で盛り上がったりできるのだ。できれば班決めの場には自分もいたかったが、こうなった以上、結果を楽しむことにした。


『うちの班に呼べたら呼ぶね』


 縁のメッセージはそれが最後だった。朝のホームルームが始まったのだろう。

 暁人は布団を被り直し、ゆっくりと身体を休めようと思った。が、どうにも眠くならないし、起きているには退屈だ。


 何度かもぞもぞと身体を動かし、寝返りを打ったあと、暁人の手は自然と枕元のスマホに伸びていた。YouTubeのアプリアイコンをタップし、気が付けばつらつらとスクロールしてしまっている。おすすめに表示されているのは、大半がVtuberの切り抜き動画だ。暁人はその中のひとつを押した。


『天界からこんにちは。白羽エルナで〜す。今日もみんなの心に光を届けに来たよ〜』


 耳心地の良いたおやかなボイスがスマホから流れる。暁人の口元が思わずにやけた。


 画面の中では、白い衣装に身を包んだ亜麻色の髪の少女――の絵が、にこにこと笑いながら手を振っている。動画のタイトルは、『白羽エルナ天こんまとめ』となっている。


『天界からこんにちはぁ。白羽エルナです。今日もみんなの〜……あ、ごめん! み、みんなの心に光を届けにきたよ〜』

『         』(配信機材のトラブルで音がのらず、満面の笑顔で挨拶している様子)

『天界からこんにちはぁ。天使見習い兼天界女子高生のエルナでーす。ほんとでーす。疑う人の心には光届けませーん』

『天こん。天使見習い兼天界女子高生のエルナでーす。18歳でーす』

『天こーん』

『天こん』

『天こん天使見習い兼天界JKエルナでーす』

『天むすー』

『天こん』


 シークバーが進むにつれて雑になっていく少女の挨拶。なんのヤマもオチもない動画であるが、暁人にはたいへん満足であった。


 この少女こそが、暁人の推し。天界女子高生Vtuber白羽エルナである。もともと個人勢だったが、しばらく前に大手Vtuber事務所に拾われて絶賛大躍進中。登録者数は60万、配信をすれば同接2万を叩き出す、じゅうぶん人気者と言って良いVtuberだ。暁人は、彼女が個人勢だった頃から応援している古参ファンである。ちなみにデビュー当初は「天界中学生」だったが、暁人が高校に入学するのと同じタイミングで「天界女子高生」になっている。

 耳心地の良い声質と雑談配信におけるトーク力。そして、ゲーム配信時のリアクションなどで人気を稼ぐ、言ってしまえば『よくいる』Vtuberなのだが、暁人にとっても他のファンにとっても、彼女の存在は唯一無二である。


 暁人がエルナの切り抜き配信を開いたのには、理由があった。


 聞けば落ち着く彼女のトークは、睡眠導入に最適なのだ。たぶん、声からアルファ波とかが出てる。


 暁人はBluetoothのイヤホンを接続すると、エルナの雑談配信アーカイブを開いた。エルナは毎週金曜にチル系の夜配信をしており、これが特に落ち着いて眠たくなるのだ。同説数の半分近くは寝落ちしているという噂も存在する。さすがにそれは眉唾だろうが、疲れたおじさん達がSNSで癒された旨を次々に発信しており、現代社会の病理にはしこたま効くのだろうと思われた。


『天こ〜ん。天使見習い兼天界JKエルナでーす。週末の夜チル配信やるよぉ〜』


 う〜ん。チルい。


 暁人はゆっくりと目を閉じ、天使のささやき声を耳にしながら、眠りへと落ちていった。




 翌日待ち受けている衝撃など、彼は当然、まだ知るよしもなかった。

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