第4話 再びの魔術

 眠りから覚めると、マテウス様がウロウロと部屋の中を歩き回っていた。


 どれくらいあたしは寝てたんだろ。今は朝なのかな、夕方かな。窓からは微かな光が差し込んでいたけど、どっちの光なのか私には分からなかった。硬い板の上に寝転んでるものだから、背中や腰が痛くてあたしはもぞもぞと身体を動かした。


 マテウスさま、さっきからずっと何してんのかしら。

 一心不乱に難しい顔をして歩き回るマテウス様をあたしは眺めた。

 あの時よりもっと背が伸びて、更に男前になったみたい。

 深緑色の修道服が硬質で気高い雰囲気を作り出していて、私は王子様みたい、なんてお馬鹿な女の子みたいなことを考えた。


 見つめていたあたしにやっと気がつき、マテウス様が足を止めた。


「ああ。君は私の気持ちが分かるだろうか」


 眉をひそめて苦しそうな表情でマテウス様は私を見下ろした。


「私は今、君を救う方法を考えるのに必死だ。だがすまない、その方法が思いもつかないのだ」


 マテウス様はその場に腰を下ろして手で顔を覆った。


「思わず君の尋問役を買って出た。私は耐えられなかった。彼らが君の身体を視線で汚していることに。彼らの欲望が見えた。彼らは君の身体を淫らな行いで貪るはずだったのだろう。この先も彼らの欲望を抑えられる保証は無い」


 ということは。

 マテウスさま、あたしをゴーモンしたいんじゃなくて、反対にあいつらから助けてくれたってことだったの?


「『魔女に与える鉄槌』なぞなんの根拠もない馬鹿げた代物だと私は思う。また、悪魔の誘惑により良識ある人々が罪のない女性たちを死に至らしめたという説もあるが、それにも同意出来ない。個人の悪徳心やひそむ欲望が彼女たちを餌食にしたのだ。白魔術を行う女性たちは善意ある賢い人々だ。彼女たちの古来の尊い知識を受け入れず、いや、賢女を許容出来ないという狭量さが問題なのだ。また、教会が民衆を野放しにし過ぎる。裁判もなしに極刑に処すとは野蛮にも程がある。他国では鞭打ちで済ませるのがせいぜいだというのに、プロイセンはだから無知で無骨者だと他国から卑下にされ……」


 ……えーと、何語?

 ちんぷんかんぷんの言葉の羅列にあたしは戸惑った。

 プロイセン、って私が今住んでるところの名前だったかしら。それとも隣の国だっけ。

 すみません、マテウスさま。私、無学で教養の無い田舎娘だから、貴方のおっしゃってることが全然分かりません。

 ぼんやり聞き流していたら。


「君はどう思う」


 いきなりふられて、私は仰天した。

 覆っていた手を離してマテウス様は美しい御顔をこっちに向けた。


「魔女なぞ存在しない。君は魔女では無い」


 ぱくぱく、と私は口を開け閉めするしかなかった。

 ああ、もう。まったく。言葉が出ないなんて。


「どうしたんだ。喉でも痛いのか」


 私の様子に不思議そうに聞いたあと、心配そうにマテウス様の目が返ってくる。


 違うんです。言葉が出ないんです。


 訝るようにあたしを見るマテウス様にあたしは首を振った。


「どうしたんだ。まるで話せない人間のように。君はではなかったはずだ」


 そうです。そうなんですけど。

 あたしはこくこく頷いた。

 息を詰めてマテウス様が何かを考えてることが分かった。

 数十秒後、マテウス様はあたしを哀れむような目をした。


「……あまりにも厳しい状況下に置かれた人はたまに声を失うことがあると。一晩中多くの男に犯された士師記のレビ人の側女と同じ目に遭った女性がそのようになったと聞いたことがあるが……可哀想に。君もそうなのか。君は耐えられない恐怖を味わったんだな」


 痛々しい、といった表情であたしを見るマテウス様。


 えーと。

 ちがいます。

 でもまあ、そういうことにしておいてください。

 あたしは小さく頷いた。


「分かった。ならばこれから、私に伝えたいことは身ぶりで伝えなさい。水を飲みたければ舌を出しなさい。食事したければ歯を噛み合わせて。小用はまばたきを何回もするといい」


 うわあ。

 次にはあっさりと対処法を私に指示したマテウス様に私はあっけにとられた。


 やっぱりマテウス様って賢い人なんだわ。

 わたしはゆっくり頷き返す。


「私は少年の頃、君の店に幾度もパンとプレッツェルを買いに行ったんだ。君のことを知っている。君は快活で優しい笑顔を振りまく無垢な少女だった。君が魔女であるはずがない」


 恐ろしいほど男前な真剣な目でマテウス様が私に言った。


 やだ、嬉しい。ろくにあたしの顔も見てくれなかったけれど、でもあたしのこと覚えててくれたんだ、マテウス様。


「なんとかして君の潔白を証明し、君を家に帰すことを私は約束する。だから安心しなさい」


 マテウス様。なんてお優しくて良い人なのかしら。そして、なんて男前。

 じいん、とマテウス様の人格と麗しき美貌に感動していた私の前に。


 ぼうんっ!


 突然、紫の煙が上がり、あの猫悪魔が再び現れた。


『あー、まどろっこしいったらありゃしない。あちきの一番嫌いなタイプの男ですよ、こいつは』


 あーっ、こいつ!


『稀にこういう男がいるんでね、あたしゃこんな男、虫酸が走ります。首が痒くなりまさあ。早くさっさと突っ込めってんだ、この童貞貞潔男が』


 後ろ足で痒そうに首の後ろを掻きながら、宙に浮いた猫悪魔は忌々しそうに言ってのけた。


 お願い、悪魔!

 昨日の契約は無かったことにして!

 反故、ほご!

 あたしはやっぱり魔女にならずにマテウス様にお家に返してもらうから!


 心の中で懸命に叫んだあたしにきろりと丸い目を向けて、猫悪魔は眉を寄せて目を細めた。


『あーら、いけませんよ。一度した契約を破棄にするなんて認めませんから。これ、契約の基本。常識。商売のルール。貴女にはさっさと魔女になってもらわねば』


 そんな。うそ。ダメダメ!


「どうかしたのか、フラン?」


 動揺したあたしの様子にマテウス様が聞いた。


『おっと、あちきの姿が見えるのは貴女だけ。男はほっといて気にしないことです、フラン。さあ、困りましたな。近くにいる男がこいつでは、処女喪失への道は遠かりき、ですよ。……ふーん、仕方ない、ここはあたしが一肌ぬぎますか』


 猫悪魔はマテウス様の頭の上でぷかりぷかり浮きながらいっちょまえに顔に手を当てて考えるふりをした。


『貴女にもうひとつ、魔術をかけましょうかね。えーと、代わりに今回の代償はどうしやしょうかね……声の次は、そうだ、貴女の体毛を貰いましょう。ね、そーだそーだ。こういう男は少女趣味がありそうですから。無毛の方が好きかもしれませんしね。あ、髪の毛じゃなくてのことですよ。誤解しないで』


 なになに、ちょっと、ちょっと。待って、話を勝手にすすめないで!


『貴女にこの男を誘わせましょう。貴女の本能を解放して差し上げましょう。発情期を起こさせますね。猫とか犬のアレですよ、アレ。貴女の淫の気が強めなのはあちきには分かってますから。さぞかし水気たっぷりのイヤラシイおなごに変身するでしょう。特に貴女は可愛らしい顔とお身体をお持ちですし。そうなれば堅物のこんな男でもさすがに見過ごせませんでしょうな。ふむふむ。では、早速』


 猫悪魔は頷きながら私の近くに降りてきた。


 ちょっと、あたしに何する気……!?


 猫悪魔が私の胸の間にまた柔らかな肉球で触れた途端。

 私の身体は雷に打たれたかのような衝撃に震えた。






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