第3話 プレッツェルの君

『プレッツェルをひとつ』


 あの頃、彼は三日に一度あたしの店に来る常連客だった。

 少年から青年への過渡期に入りつつあった彼は、いつもぼそりと無愛想にプレッツェルを注文した。


 あら、甘いお菓子は嫌いなのかしら。残念ね。


 彼はパンとプレッツェル以外のお菓子は決して買わなかった。変わった客だと、最初はただ気になって見ていた。

 そのうち見つめてしまうようになった。

 彼の美しい横顔は教会の天使の石像のよう。

 すらりとした体躯と広い肩幅が素敵で。

 いかにも賢そうな茶色の目は綺麗だった。

 あんな人があたしの旦那様だったら良いな。

 まだ少女だったあたしは、素直に彼に憧れて胸を高鳴らせた。


 プレッツェルを渡すたびに、あたしは彼と目が合わないかと胸をドキドキさせて期待した。

 それでも彼は決してあたしの顔を見ようとはしなかった。

 いつも斜め下を見て、視線を合わさないままプレッツェルを受け取る。


 嫌われてるのかしら。


 そう、しょげたこともあった。

 彼に見て欲しくて凝った髪型にしたり、ベリーの汁を唇に塗ったりしたこともあった。

 それでも彼は決してあたしを見てくれない。

 彼とはひとつも会話らしい会話をしたこともなく。彼の名前も知らなかった。

 そのうち、彼は店に来なくなって。

 しばらくして『プレッツェル坊主は修道院に入ったんだとさ』と、とうちゃんが話してるのを聞いた。


 賢そうな人だったもの。

 そうなるのは当然だと思いながらも、あたしは夜中に一人ベッドで泣いた。

 少女らしい妄想で、あたしは将来あの人と一緒になれたら、なんて心の中で願っていたのだ。

 神の道に彼が入ってしまったのなら、何があろうとも彼とは一緒になれない。

 彼は女と一緒になることはない。


 あたしの苦い苦い初恋の君、それがプレッツェルの君。



 * * *



 そしてあたしは今、こうやって手首を拘束され、冷たい板の上に乗せられている。

 まさにまな板の上のサーモンよ。

 あのプレッツェルの君が与えるゴーモンを待つだけの存在。


 プレッツェルの君はあたしのこと覚えていたのかしら。いえ、覚えてないに決まってるわね。少しでも顔見知りなら、ゴーモンに自分から立候補するなんてことないわよね。

 あたしのこと、本当に眼中にも無かったんだわ。


『覚悟しろ、魔女』


 あたしの顔を真正面から見下ろして冷たく言い放ったプレッツェルの君を思い出した。


 昔はあたしの顔なんて見なかったくせに。時は人を変えるのね。


 あたしは少し悲しくなって。

 あたしのあの時の幼い恋心が可哀想になって。

 沈んだ。


 その時、いきなり部屋の扉が開いて。

 あたしはあわててそっちを見た。

 深緑色のローブ姿のプレッツェルの君が毛布を持って怖い顔をして立っていた。美しい顔だから普通の人よりすごく凄味があって、私は身震いした。

 彼は扉を閉めて鍵をかけると、あたしに足早に近づいた。


 やだ、怖い。


 思わずあたしはぎゅっと目を閉じて身体を縮こませた。


「目を開けなさい」


 毛布で身体が覆われるのと同時に静かな声がすぐそばに落ちてきた。

 おそるおそるあたしは、言われたとおりに目を開けた。

 目の前には陶器の水差しが差し出されていた。


「飲みなさい。喉が渇いたろう」


 怯えたあたしの頭によぎった考えを読んだのか、プレッツェルの君は続けて言った。


「安心しなさい、ただの水だから」


 次の瞬間には、あたしは水差しの口に吸い付いた。丸々一日、何も口にしていなかったんだもの。焦ったあまり、飲み込むどころかゲホゲホとむせてしまった。


「ゆっくり飲みなさい」


 たしなめるように言い、あたしの口もとを布で拭きながらプレッツェルの君は次にはパンを出した。


「お腹が空いたろう。大丈夫だからゆっくり食べて」


 あたしは拍子抜けした。

 どういうこと?

 もしかしてゴーモンにも手順があって、食事の時間や休憩時間があるのかしら。今はその時間、てことかしら。


 パンをちぎってあたしの口に運ぶプレッツェルの君の端正な顔を見上げながら、あたしはおしよせる空腹感に勝てずパンをひたすら飲み込んだ。

 プレッツェルの君はチーズとハムもローブの下から出してあたしの口に入れてくれた。すごい、ローブってなんでも入るのね。


「まだ発酵途中のワインだが、甘くて疲れが取れると思う。飲みなさい」


 ついでに最後、皮袋の水筒を出したと思ったら、この時期に楽しむ葡萄のジュースまで水差しで飲ませてくれた。甘くて身に染みるようで美味しかった。(皮臭かったけど)

 修道院でワインを作ってると聞いてたけど、それをくれたのかしら。

 それにしても一体どこまで何が入ってるんだろう、このローブの下に。


 ひとまずお腹が満たされて一息ついたあたしを見て、プレッツェルの君が言いにくそうに口を開いた。


「……小用は」


 あたしはすぐに理解してカッ、と顔を赤くした。

 地下室に閉じ込められているときは、桶があったからあたしはそこで勝手に用を足したけど。(ええ、かまうもんか)

 ここに拘束されてからはあたしは用を足していない。シュミーズ一枚で身体が冷えていたし、下腹が少し張っていた。水を飲まなくてもおしっこはしたくなるんだと思った。


「腰を上げて。腰の下に置くから」


 部屋の隅に置いてあったおまるを持ってきたプレッツェルの君はあたしの脚の近くにそれを置き、毛布をめくった。

 あたしはおずおずと少し脚を開いてお尻を持ち上げた。唯一身につけているシュミーズがずり上がって太ももが見えそうになったのを、プレッツェルの君が押さえた。器用にあたしのお尻とシュミーズの間におまるを置くとプレッツェルの君は立ち上がった。


「終わったら教えて」


 部屋の隅にと去るプレッツェルの君の背中を見ながらあたしは唇を噛んだ。

 屈辱だった。

 子供でもないのに。

 それでも排泄欲に勝てなくて、あたしは少し泣きながら排尿した。罪人は垂れ流しだって聞いていたから、あたしはこれを幸運だと心の中で自分に言い聞かせたけど、それでもたまらなかった。

 あたしが言わずとも排尿の音が止まると同時に彼はやってきて、おまるをとった。


「気にしなくていい。当たり前のことだから」


 もうひとつ、ローブから布を出して彼はあたしの頰に当てた。

 彼の手の温もりが伝わってあたしは張り詰めていた心が解けるのを感じた。


「君を傷つけはしない、フラン。安心していい。だから私がここに来た」


 どういうこと?


「寒かったろう、少し眠るといい」


 彼は毛布であたしの身体を包むと目を細めた。


「私の名はマテウス。君は私のことを覚えていないかもしれないが。私は君のことを昔から知っている」


 マテウスさま。

 それが、プレッツェルの君のお名前。


 昨夜はショックで一睡も出来なかった。

 食欲も排泄欲も満たされたあたしは。

 次には暖かな毛布に包まれて睡眠欲へと突入してしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る