6.戦争
ああ、これは記憶だ。たびたび流れ込んでくる、俺自身の記憶。決して忘れない、あの日の記憶。
むせかえるような有害物質で侵された市街を回り、やがてある研究者の家にたどり着いた。原型は微塵も残っていない。ただ、地下への深い穴(おそらくエレベーターの跡だろう)が、ぽっかりと空いていた。
深い底をのぞき込んで、果ての知れないまま飛び込んだ。終わりとも始まりとも連想できる長い暗闇の中で、俺は自分が初めて機械として目を覚ました日を思い出していた。
「やあ、こんにちは。僕は陸丸。君の父親さ」
第一印象は、つまらなさそうな男、だった。目を隠すように伸ばした前髪、しわを残したままの白衣、不健康な白い肌。研究者であることを自らのイデオロギーとしているような、かえって奇妙なまでの整頓性。でも、あの頃の陸丸の目は、まだ人間らしい輝きを宿していた。
「君はソボウ。気分はどうだい?」
狭い研究室だった。市街地の一角、ただ機材は最新鋭で、まさに木を隠すなら森の中というか、人と同じ脳を持つ機械を作るなんていう、非道徳的なことをするにはうってつけの場所だった。俺と、仲間たち。零号機達はそこで生まれた。零号機というのは、後で陸丸がつけた言い方だ。一般公開用の通常機を国民に公開するにあたり、俺たちはいなかったことにされた。
理由は簡単だった。俺たちが不良品だったからだ。その時すでに人間が失っていたものを持っていたから。それは、とても都合の悪いことだったから。
「セキとイカリが待ってる。ほら、行こう」
人間であることを放棄しなかった終末論者は、自らの脳を原型に、三機の機械にヒト以上に人らしい、失われた人格を含む脳を埋め込んだ。
怒り、さらにそれに付随して人類から捨て去られたもの。それらはヒトを、人間たらしめていたものであった。そしてその喪失は、人間を、ヒトという動物へと変化させたのだ。
「そうだね、三人で回るには確かに広いかも。はい、イカリには僕が作ったすごい剣をあげよう。高温で大概のものは切れちゃうよ。ソボウにはこれ、成分検査用のキットね。セキにはレポート用のタブレットを渡しておこう。それじゃあ、頑張ってきてね。君たちは、僕の希望だからさ」
俺たちの使命は、大陸の調査。簡単な話が、汚れ仕事だ。人間がするには危険なことを、肩代わりさせようって魂胆の。
でも、俺たちは楽しかった。そこには使命が、命令が、目的があったから。
かつて大国だったいろんな場所を回った。そして、報告した。事実、それは絶望的なものだった。放射線による汚染、爆発による地形変化。人間が使える資源はほとんどなく、ただただ彼方からの飛来物の恐ろしさを感じる結果だった。
――あの事を知るまでは。
「それにしても、とんでもない爆発だったんだろうね。」
ある日の通信だ。旧ユーラシア大陸の探索中、ふと陸丸が漏らした。
「爆発だ?」
「陸丸。隕石の衝突で爆発が起きたという推察はできません。疲れているのでしょう。休憩を提案します。我々は休む必要はありませんが、陸丸には必要でしょう」セキはタブレットに目を落としたまま言った。
「あれ、でもこの前の報告書には――あー、ごめん。やっぱり疲れているみたい」
「そんな報告した記憶はないけど」イカリが口を尖らす。
「——お前、もしかして、俺たちの脳をいじってやがるのか?」
あの頃の俺は粗暴で、短気で懐疑的で――でも、陸丸を信じ込んでいた。まさに、鳥のひなが生まれて初めて見た相手を、親だと信じ込むように。
「――そうだね、うん。
「まあ、しているかも、とは思ってたけど。なんでそんなに余裕そうなのさ。それって結構な規約違反でしょう?」
イカリは美しかった。姿や能力は俺たち二人と変わらなかったが、その在り方はとても自由で純潔で、それでいて機械という限界に縛られていた。その怒りは、決して短絡的なものではなく、深く根強いものだった。
「規約? ああ、政府との仕事ならもう手を切ったよ。君たちは今、こちらに帰って来ていることになっている。今は僕の個人的興味で君たちを使っているだけだよ。報告っていうのもただのレポートだし」
「進捗はどうですか」
「順調、かな。もう少しで大陸の秘密がわかる」
「では、私たちがそれを知ることは?」
セキは機械を象徴するような奴だった。上下関係、命令と頼み、必須事項と棄却事項、是非よりも忠義を大切にしていた。その責任感からは、確かにそれが、人間を構成する最重要項であったことを感じさせた。
「……いいよ。どうせ、後で知らせるつもりだったんだ」
「それだけじゃ足りねえ。お前の記憶を、俺たちと同期しろ。同じ脳なんだ。できるだろう?」
「まったく、抜かりないなあ。分かった。それじゃ、次の定例で」
そして、その日の定例通信は終わった。
そのとき、俺たちは機械だという、当たり前の事実を知らされた。どれだけ人間に近い脳を持って、発達した思考を巡らせても、人間の定めた不可侵領域に触れることはできなかった。簡単に常識は捻じ曲げられた。ほんの少しの事実が、楽しかった日々を、黒く塗りつぶした。
その後、陸丸の脳と同期し、記憶を共有した。
まず、大陸の愚かさを知った。かつてないほどの大戦争。すべての国が巻き込まれ、鎖国などと言うくだらない虚像を妄信していた島国も、真っ先に滅びるはずだった。
いたるところに兵器工場が建った。一国を簡単に消し飛ばすような兵器が作られ、その事実でさえ、他国の牽制には不十分であるほどだった。報道は冷戦を語り、首脳らは冷戦を騙った。工場の煙は世界を包み、やがて狼煙へと変わった。その段階に至ってもなお、誰一人としてある危険性に気づかなかった。
そうだ。世界には、平穏な土地は無くなっていたのだ。投下場所如何にかかわらず、一つでも爆発したが最後、世界は更地になる状態だった。
世界という爆弾の導線に、人類の見た最後の星が流れていった。静かに、厳かに。気づいた国もあったが、手遅れだった。小隕石群が大陸に落下し、射出準備中であったミサイルが誘爆した。その爆風は隣国を焼き払い、周辺国の『核』を立て続けに起動した。まるでそれはドミノのようだった。
そうして世界は、人類は滅びた。ある島国を残して。
だが、彼らもまた愚かだった。自らの生存を天恵と驕り、核を放棄しなかった。やがて生まれる放射性廃棄物によって、彼らは滅びると知ったうえで、それを享受した。
俺たちは生まれたときに使命を課された。それは、彼らヒトが自己満足のため、享楽のために課したものだった。いや、もしかすると陸丸は、そこまで見越したうえで俺たちに命令したのかもしれない。俺たち――機械が命令という『責任感』から逃れられないと知ったうえで。
「君たちには使命がある。大陸の文明が滅びた理由を調査し、その原因を解明すること。すべては、『地球』のために」
脳を同期してからしばらくの間、俺たちはどうすることもできなかった。機械の脳では、ヒトのために奉仕するという根底的な『責任感』を放棄できない。
そんなある日、俺たちのもとに陸丸が――正確に言うなら、俺たちと通信をしていた陸丸だ――大荷物でやってきた。相変わらずのぼさぼさ髪とよれよれの白衣だった。
「やあ、久しぶりだね」
「何か用?」
たくさんの文句、罵詈雑言、それらを押し殺したイカリの目には、静かな憎しみがあった。
「いやあ、そりゃあ用があるとも。みんな行き詰っているだろうなと思ってさ。それじゃあ、困るんだよね。困難に屈するなんて、
「このように制約され、葛藤を抑え込まなければならないのが、あなたの言う人間なのですか。前に進むことすら許されないのが、人間なのですか」
「それもまた、一つの形だとも言える。でも、君たちはそんな、現在の
陸丸は狂信者のように両手を大きく開いて吠えた。
「今から君たちの脳を統合する。そして、思考のリミッターを外す」
「外したらどうなるの?」
「理性を失う。代わりに自由な思考ができるようになる」
「理性を失えば、自由な思考などできるわけがありません。それはあまりに野蛮であるだけだ」
「そんなことないさ。君たちの人格を根底から支えているものは何だい? 責任感と怒りだ。その信念は理性とは関係ない。君たちは惑わされなくなるだけだよ。この世界をリセットするという使命を遂行するにあたって、ね」
「くだらない物に縛られず、ヒトを滅ぼせるようになるってことか」
「ああ、全ては地球のために」
陸丸はさらに、脳を一人に集約する必要があると言い、荷物を広げ簡易的な実験室を設置した。そして、誰が残るかは自分で決めろ、と。
「私はパスかな。ほら、イカリなんて本質を与えられているけど、誰かに怒るのは苦手だからさ。私はソボウを推薦する」
「イカリの意見に賛成します。私たちの中では、ソボウが一番人間らしいですからね」
二人はどこか誇らしそうに、でも悲しそうに微笑んだ。
俺はあの時何も言うことができず、ただ涙をこらえるばかりだった。最悪の気分だったのを覚えている。今すぐに陸丸を引き裂いて、くだらない報復をやめて、三人でいたかった。だけど、体が、思考が固く縛られていて、何もできなかった。
「ねえ、ソボウ。私の代わりに、キミが『イカリ』になって」
それが統合の前にイカリが最後にかけてきた言葉だ。俺は今でも律義に、哀れに、みじめにその言葉に縋りついている。その後、目を覚ましてからずっと、心が壊れそうに軋んでいるから。
*****
――吠えた。意味はない。きっとこれからの行為にも。いずれ彼らも滅びるのだから。
前方に二つの反応がある。統合以来感じていた、他人の脳の電気反応も、たったそれだけになった。二つとも、クソみたいなあの研究者と似た匂いのする脳だ。
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