三章 婦人と指輪と薄幸と


 ミットランは港町だ。といっても大型船が入るほどの広さはなく、湾に向かう中継として使われることが多い。入り江では貝や魚の養殖が盛んであり、同時に中継港として人の出入りも多くそれらの人をもてなす為食事処や宿泊施設が増加し、今では観光地としての知名度も高い。

 穏やかな潮風に旨い魚。

 なるほど、観光地である。

 と思いながら、クルーガーは目の前に出された皿をちらりと見た。

 大きな皿の上には、入り江でとれた新鮮な魚が、二枚貝や香草と共に煮込まれ美味そうな香りを放っている。その横では新鮮な白身魚が、柑橘類と共に行儀よく皿の上に並んでいた。手前の大皿には、薄い衣を纏って湯気をたてているプリプリした小エビがこれでもかと盛られており、一番手前にはよく太った殻付き牡蠣がレモンとソースと一緒になって鎮座していた。どの料理も、今、この瞬間にかぶりついたら最高であることに間違いはなさそうだ。

 その意見に直接同意したわけではないが、隣で同じように皿を見つめる相棒の腹がグーッとなった。ちらりと横目で顔を盗み見る。リロイの美しい顔は険しいままだ。でもその険しい顔の時はたいてい美味いものを前にして我慢していることが多い。

 そう、今クオリテッド班の二人は「ザ・美味いもの」を目の前にしてお預け状態を食らっているのである。

 結局ミットラン行きの列車の中で眠れたのは二時間ほど、その後は途中から乗り込んできた人々に席を譲らねばならず、現地到着までの合計三時間(乗り換えも含む)は立ちっぱなしだったのである。このカソックさえ無ければ! と二人とも、己の身に着けている法服を脱いでやりたいところだったが、教会に従事する以上内勤外勤問わず、男性は「神父」として勤務すべしといわれているためみだりに着替えることもできない。一目で教会関係者とわかられる以上、公共の場でもそうでない場所だとしても聖職者としての奉公(お年寄りや体の不自由な方には座席を譲りましょう)が常に義務付けられているわけだ。

 ちくしょう、今日は寝ていたかったのに……。

「どうぞ、遠慮なく召し上がってくださいな」

 優し気な女性の声に、クルーガーは我に返った。

 数々の皿を載せたテーブルの向こうに、声と同じくらい優し気な表情をうかべた女性が座って、こちらに微笑みかけている。今回、ミットランまで出向く理由となった「魔導具をくれたおばあちゃん」である。目元や口元には相応の皺があるものの、結婚するほどの大きな孫がいる年齢には見えない。白黒まじりの髪は品よくまとめられ、着ているものの、流行に関係なくシンプルなつくりだが、材質が良いものだと見て取れた。古いくて良いものを、長く手をかけて愛用できるタイプなのだろう。この人から渡されたら、確かに「嫁を守ってくれる由緒ある結婚指輪」を身につけねばと思ってしまう。

 昼前、約束の時間より早くに待ち合わせ場所に到着した二人だったが、この夫人はそれよりも先に到着していたらしい。出会うなりに

「今日は私や孫夫婦のために遠いところからよくお越しくださいました」

と丁寧に頭を下げられて、クオリテッド班の二人は逆に恐縮してしまったほどである。魔導具をプレゼントして不具合があった場合、たいてい聞き取りに向かった先の相手は戸惑い、怯え、時には怒りを露にする。

「だって知らなかったんだもの! 業者が大丈夫って言ったから!」

「こっちは相手を思って贈ったのに! それがこんな形になるなんて!」

 ごもっともである。

 ごもっともであるからして、聞き取り役である側は相手をそれ以上興奮させないよう、丁寧に、歩み寄って聞かねばならない。たとえそれがどんな理不尽な言い草であろうとも。長年この仕事をしてきたリロイはそうした扱いが正直言って、うまい。先の若夫婦に関しても丁寧に、そつなく、言葉を選んで話しかけていた。普段の彼を知っているクルーガーとしては「胡散臭い」ことこの上ないのだが、それでも相棒のそうした態度のおかげでこれまで物事がうまく進んでいるのは事実である。

 しかし今回のこの「おばあちゃん」、だ。

 出会って早々にクオリテッド班の労をねぎらい、

「お昼時ですから、ご一緒に昼食でも。ついでにそこでお話しますね」

と海辺のレストランに連れて行ってくれた。一般人からの飲食の提供は受けないことになっているのだが、時間も時間だし、二人とも腹ペコだし、地元住民が教えてくれる美味しい店が知りたいところでもあったので(主にリロイが)その誘いを受けたのである。

自分達の分は自分達で支払えばいいし!

ここ数週間頑張った自分へのご褒美だと思えばいいし!(くどいようだが、リロイ談)

そうして入ったレストランで今のお預け状態になっている。

 そう、このレストランは美味そうな料理しか出さなかった。

 そしてその値段は、二人の薄給で支払うのはかなり難しい価格帯となっていたのだ。オープンカフェもついていたから、きっとお手頃価格なのだろうと思ってついていったのが甘かった。甘い値段はカフェのみで、中のレストランは辛い値段設定だったのだ。

 それなのに「おばあちゃん」は、メニューの価格を見て固まった二人をよそに、どんどん料理を注文した。テーブルの上に並べられた料理だけで、ざっと計算しても行きと帰りの電車賃を合わせて、二倍したところか。今日中に帰る予定だった二人の財布の中には、これを支払えるだけの金はない。もし支払ったとしたら、イースティンまで歩いて帰らねばならなくなる。

 それは、嫌だ。

 だが、支払えなくて、肩書「聖職者」なのに、無銭飲食で捕まるのも困る。

「遠慮なさらず召し上がって」

 目の前の「おばあちゃん」が、これまた優しい声で言ってくる。優しい声なだけにたちが悪い。うっかり食べてしまいそうになる。だが、ここで食べると無銭飲食か、徒歩での帰路か、もしくは戒律違反か……。

「カーロン教は、慈悲の宗教でしょう?」

 固まっている若い二人に、婦人はそっと声かける。

「人より多く持っているものが、そうでないものに分け与えるのが信条でしょう? 私は今日、このテーブルの中では一番多くもっているのよ。町や名物料理の知識、そしてそれをご馳走できるだけの蓄えとかをね」

 淡い茶色の目がこちらを見上げてくる。その目にはうそ偽りは映っていない。

「今、私の目の前には、疲れてお腹を空かせた若者が二人。その二人はわざわざ遠方から私達家族のために駆けつけてくれたのよ。教会関係者だろうが警察関係者だろうがただのすれ違った人でも、そうした若い人におなかいっぱいになってほしいというのは、言わば母親になったことがある人みんなが持ち得る心なのではないかしら?」

 そんなものなのだろうか?

 母になったことはないクルーガーとしては理解できなかったが、横でリロイがヘヘッと笑った。

「俺の母ちゃんも、よく同じこと言ってます」

 美青年の口から「母ちゃん」という単語が出てくるとは思わなかったのだろう、婦人は少し驚いた顔をしたが、それでもすぐに優し気な笑いを浮かべた。

 と、そこに給仕係が新たな大皿を運んできた。

 蒸されてホコホコ湯気を立てた、りっぱな蟹がのっていた。

 うまそうである。

「さあ、もう一度言いますよ」

 婦人はさっきよりは少し意地悪そうな笑顔を浮かべてささやいた。

「めしあがれ」

「……っくぅっ! いただきます!」

「……いただきます」

 そこからは早かった。

 腹ペコというのは最高の調味料だとよく聞くが、それ以上に料理の味はどれもべらぼうに美味かった。煮込みに舌鼓を打ち、魚の旨味と柑橘のハーモニーに心の中で拍手し、エビの旨さに小さく声をあげ、生牡蠣の濃厚さに唸って、蟹を食べるのに無言になった。

 二人の様子に婦人はニコニコしたままだ。 

 料理には全く手を付けず、お茶の入ったカップばかりを傾けている。

 その様子は、確かに「美味しいものを夢中で食べる子供たちを見つめる母」の眼差しだ。はるか遠い昔、己の母も確かにそんな顔をしていたな、とクルーガーは蟹の脚にかじりついたままぼんやりと思い出していた。

 テーブルの皿がほぼ空になり、婦人が「まだまだどうぞ頼んでちょうだいね」と優しく笑いかけた時だった。口の中の蟹の身をごっくり飲み込んだところで、リロイは婦人に話しかけた。

「こんなごちそうして貰って今更なんスけど、なんてお呼びしたらいいんスかね?」

 いつもの「聖職者スマイル」とは違う、普段のリロイの物言いだ。その様子にクルーガーはエビを噛みしめながら意外だと感じた。ご馳走されて心を許したということだろうか。なんにせよ、その質問に婦人は穏やかに答える。

「アラサ・コダマですよ。コダマさんでも、アラサさんでも」

「……お孫さんとは苗字が違うんですね」

 父方の姓を名乗ることが多いイースティンにおいて、祖母と孫の苗字が違うということは。

「ええ。あの子の母が、私の娘なのよ」

 コダマ婦人が笑う。

「それじゃ、アラサさん」

 名前で呼ぶんかいっ?! と思ったが、美味い蟹を食すのをやめたリロイに、クルーガーは無言で二人の様子を見る。美味いものに目がない相棒が、その手をとめてまで話す内容に、自然とこちらも食べるのをやめる。

 リロイはいつもの彼らしい軽い口調で聞いた。

「あの指輪、アラサさんが昔から持っていたものじゃないッスよね?」

「あら、どうして?」

 リロイの問いかけにこれまた穏やかに答えたコダマ婦人の表情は変わらない。悪びれた様子も動揺したそぶりもない。重ねた年齢がそうさせているというよりも、これはこの人の度胸の問題なのだろう。

だが、そうした受け答えになることはある程度予想していたらしく、リロイも臆することなく更に続ける。

「今、指輪は分析班に渡していてこの場にはないけども。あれ、腕と石座の部分が最近作られたものなんスよね。魔石自体は昔からあるにしても、代々伝わってきたにしては構造が新しくて、古くても30年は経ってない」

「……そうなのか?」

 分析班からそうした情報はまだ受けていないはずだ。思わず問いかけたクルーガーに、リロイはうなずいた。

「俺の先生の中に凄腕の魔導具作成者がいてさ。ちっせぇ頃から鑑定方法を教え込まれましてね。魔石の取り扱いは簡単だからこそ事故が起きやすいからって、とりわけ詳しく。大戦前はどの国も魔石作るのに必死だったからよく見ておけよってね。だから分析班ほど詳しくなくても、ある程度は触れたらいつくらいのものかわかるんスよ」

「すごいわね」

 コダマ婦人は心底驚いた口調で言う。だが、表情は変わらない。その様子にリロイはまっすぐに相手を見つめたまま、聞いた。

「誰から買ったんスか、あの指輪」

 口調こそ変わらないのに、背筋にスッと冷たいものが走るようだった。魔力を持つものの特権なのか、リロイの持つ本質がそうさせるのかわからないが、クルーガーは思わず体を強張らせる。本能が臨戦態勢に入ろうとしているのが分かったが、それを理性で抑え込み、相棒の言葉の続きを聞くことにする。

「指輪の腕の部分でつけてる人の感情を読み取って、石座の裏にある文様が火を噴かせるスイッチになる。あとは魔石が実際に火を噴かせるんスけど、この魔石は大戦後には危ないから全品回収の上廃棄処分されたものなんスよね。その魔石がいまだ使われていて、ついでに火が噴くなんてあぶねぇ仕掛けでしょ? 普通の魔導具メーカーじゃ、まず販売してないものなんスよ」

「それじゃあ、正しいお店で買っていないのがバレるわね」

 穏やかな口調のまま、コダマ婦人は呟いた。つまり、代々伝わるものではなく、わざわざ購入したものだと認めたのだ。いったい何が、この穏やかそうなご婦人にそうさせたのか。だが、固唾をのんで動向を見ていたクルーガーが思わず拍子抜けするほど、とても大きなため息を吐いてから、コダマ婦人はハハハッと大声で笑いだした。

「え、な、なに?」

 質問していたリロイでさえもドギマギするくらいの、コダマ婦人の明朗な笑い声が店内に響きわたり、周囲の客もチラチラとこちらのテーブルを盗み見た。婦人はある程度おかしそうに笑ってから、次第にその声の調子を抑え、うつむく。その様子が先ほどの穏やかさと明らかに違うことに、顔を見なくても若者二人は気が付いていた。料理の減った皿だけが、この場が同じところだと教えているようだ。

「あなた方が、カーロン教の神父だからこそ、お話したいことがあります」

 そう言って顔を上げたコダマ婦人は、これまでの柔和な表情から打って変わり、唇を横に引き結んだ強張った表情をしていた。だが何かに臆した様子ではない。重大な決意を秘めたまなざしに、リロイとクルーガーは、姿勢を正す。

「この指輪を私に買ってほしいと言ってきたのは、私の孫と同じくらいの年齢をした女性です。今から一か月前、丁度孫が籍を入れたと報告に来る予定の、三日ほど前のことでした」



 コダマ婦人はその日のことをよく覚えていた。

 学生時代からお付き合いしているという女性と、孫が結婚するらしいというのは、娘婿から聞いていた話である。だが、結婚式の前に籍をいれたので、まずその挨拶に来たいと言い出したのが、今からちょうどひと月まえだった。

いつも急に約束をいれてくる孫である。祝い金だけでなく、何かしらお祝いも用意しないと。新婚夫婦が新居へ持って帰るのに面倒ではないような品物を探しに、コダマ婦人は町に出たのだ。

 よく晴れた日だった。風も気持ちよく、プレゼントを探すには良い日だな、と思ったものの、実際若い二人に何がふさわしいのか分からない。

 食器がいいかしら? だめだめ、持って帰るのが大変だわ。

 それならばお揃いのキーケースとか? でも若い人の好みがあるだろうし……。

 色々と見て回りすっかり疲れ果てた婦人は、少し休憩しようとオープンカフェに立ち寄った。給仕係にお茶をお願いし、出されていた水に口をつけたところで、唐突に「彼女」に話しかけられたのだという。

「……あの、突然で驚かれると思うのですが、この指輪を買っていただけませんか?」

 まわりの席の客達が会話に夢中になっているのを見てから、その人はおずおずとコダマ婦人の席に寄ってきたそうだ。恰好からして、カフェがある一帯の通りの清掃を任された掃除人だったらしい。顔の作りは綺麗だったが化粧はしておらず、長い髪は無造作に後ろでくくっているだけだった。孫と同じ年ごろにも見えたが、纏っている雰囲気から随分と年上にも思える。それもこれも、彼女がその容姿には不釣り合いなほどに疲弊した様子であり、それなのに強い決意を秘めた眼差しをしていたからだ。そうでなければ、見ず知らずの婦人に対して唐突に「指輪を買ってくれ」なんて言うわけもないだろう。

 普段ならば「そういうのは間に合っているから」とやんわり断る婦人だったが、彼女の気迫に押されて何も言わずその話に耳を傾けた。

 彼女は、真っすぐというよりは、やや俯いた様子で懸命に話す。

「この指輪、お守りの魔法がかかっているんです。何か嫌なことから直接持ち主を守ってくれる、そんな魔法なんです。防犯として、とても効果があるものなんです」

 カフェの店員にとがめられないかと周囲を気にしながら、彼女は矢継ぎ早に手の中にある指輪の説明をした。

 なるほど。彼女の荒れた手のひらの上には、透明な石をのせた指輪が一つ輝いている。魔法かどうかはまったく分からないが、ただの指輪とは明らかに違う、何か特別な存在には見えた。魔導具の装飾品なんてものを見たのは初めてだったが、確かに信じるに値するだけの力を感じさせる。だが、無言でみつめる婦人の様子に、彼女は疑われたと思ったらしい。先ほどよりも更に力をこめ、だけど不安そうな声でつづけた。

「怪しいものではないんです。持ち主を不幸にするとか、そういうものではありません。効果も確かだけど、嫌なことをする相手をせいぜい驚かす程度で、怪我するほどの力もありません。それでも、防犯にはなると思います」

 早口に言う彼女は、そう言って指輪を更に突き出してくる。

「五万…いえ、三万でいいんです」

 具体的な金額を口にした瞬間に、彼女の声は次第にかすれて、小さくなった。

「……お願いします……買っていただけないですか……?」

 たずねる、というよりは懇願するような口調で彼女は頭を下げてくる。

 もう後がないのだ、と感じさせる口調と様子に、コダマ婦人は絶句した。だが、カフェには不似合いな様子に、それまで会話に夢中になっていた他の客の視線を感じ始め、婦人は彼女の手を取り自分の横の椅子に座らせたのだ。

 驚いた様子で顔を上げた彼女に、婦人は小さな声で囁く。

「……何か、困ったことがあるの?」

 その言葉に、彼女は己の唇を反射的にかみしめた。

 目を見開き、色の薄い唇に歯が食い込む様子は何も言わずしても肯定していることが分かった。同時にその様子は、何か話したいような、だがそれを必死にこらえているようでもある。

「話してみてくれないかしら? もしかしたら何か力になれるかもしれない」

 婦人としてはうそ偽りない本心だった。

 こんな若い女性が、幸せとは真逆の、何か混沌としたものに追い詰められている。

それを放っておくことはできない。

 だが、彼女は少し悩んだ末に首を横に振った。

「……お話できません。ごめんなさい」

 そう言って、彼女は席を立とうとする。

 購入してくれないのならば、すぐにでも逃げ出したいのだろう。

 なにから?

 今ここにある、すべてから。

 その腕を反射的につかんでしまった。驚いて振り返る彼女もそうだが、それ以上に婦人自身も、己の行動に仰天した。それでも口は勝手に言葉を紡ぐ。

「十万で買わせてもらうわ。危なくないものなのよね? 持ち主にも、相手に対しても」

「……え」

 言葉の意味がすぐ理解できず、彼女は呆けた様子で婦人の方を見返した。

「孫の結婚祝いに何がいいか悩んでいたところなの。お嫁さんに対して防犯として渡すにはちょうど良いものだもの。お祝いとしてそれくらいの額を検討していたのよ」

「……え、でも」

「あなたが嘘をついていないのは、目を見たらわかります」

 本心だった。そして、それはちゃんと言葉にして相手に伝えないと駄目だと、婦人は直感的に思ったそうだ。魔法をかけられたかのように固まった彼女の手を引いて、再び椅子に座らせた婦人は、ハンドバッグの中から自分の財布を取り出す。中に入っていた、購入費用をそのまま取り出して、他の客から見えないようにして彼女の手に握らせた。

「もしかしたら、今のあなたに一番必要なのはお金ではないかもしれないけれど、でも今の私にできる精いっぱいのことはこれなのよ。指輪、買わせて頂戴。そしてプレゼントとして購入するから孫夫婦には一度は渡すけれども、もしあなたが再び必要となったらいつでも言ってちょうだい。私は毎週、ここに同じ時間にやってくるから」

「……どうして、そんな」

 困惑する名も知らぬ彼女に婦人は少し考えた末、微笑んだ。

「あなた、私の娘によく似ているから」


 そうして、指輪を購入した婦人は、宣言した通りに嫁にお守りの意味を込めて指輪をプレゼントした。

結婚指輪ならば僕の分はないの? 

と聞いてきた孫を軽くいなして、二人の門出を祝福した。そうはいっても、一年後に結婚式を計画しているらしいので、その時が近づいたらまた連絡するという孫夫婦を駅まで見送り、婦人は思案する。

 もし指輪を売ってきた彼女がやはり返してほしいと言ってきたら、その時は「思い出の品だからやっぱり返して」と孫夫婦に話して指輪を返してもらおう。なんて勝手なババアだと思われるのは辛いが、まぁ式まで一年もあるわけだし、その間に自分たちで気に入った結婚指輪を購入することもあるかもしれない。その時は新しい結婚指輪の購入費用を渡してやったら問題はなかろう。

 彼女から購入した指輪も、孫に渡す前、大手の鑑定屋にもっていって鑑定してもらったが、呪詛のようなものはかかっておらず、効果もおおむね彼女が話している通りだろうと言われた。リロイが鑑定するほどの知識が、その時の鑑定士に無かったのが幸か不幸かはいいきれないところだが、有言実行できたことが婦人としては安心した。それは自分の誇りがどうこうというよりも、必死の様子でそれを売りに来た彼女にうそをつかなかったことが多分にある。

 だが、指輪の話ではない。問題は、彼女の方だ。

 婦人はその後、三度、彼女に話した通り毎週、同じ時間にそのカフェを訪れた。

 彼女の姿は見えない。

 それでも、通りを掃除する仕事をしていることは身に着けていた制服から分かったので、きっと再びここを通る日があるだろうと思うことにした。

 指輪どうこうではない。純粋に心配だったのだ。

 何か大きな荷物を無理に背負ったような様子に。

 苦し気なのに、決意をした、あの眼差しが。

 そうこうしていたら、孫から連絡がきた。

 プレゼントした指輪が火を噴いて孫の眉毛を焦がし、それについてカーロン教の神父が話を聞きに行きたいと言っているそうだ。やはり来たか、と婦人は思った。新婚早々で嫁に嫌なことをする相手。それは間違いなく孫となるだろうと、婦人は予想がついていた。いっそ他人を傷つけなかっただけよかったというものである。話を聞かれたら、程よくとぼけてやろうと考えていた。代々伝わるものだといったけど、本当は、今は亡き夫が若いときに私にくれたものなのよ、とか何とか言えばよいだろう。代々伝わるものだと言っていたのに、主人ったら安物をどっかから買ってきたのね、と。そう言ったら、罪に問われるかどうかは分からないが、とりあえず指輪を売ってきた彼女のことは誤魔化せる。

 そう思って、四度目の約束の日、婦人はまたあのカフェに向かった。

 そこで、彼女に出会った。

 婦人は驚いた。

 彼女がカフェのそばで婦人を待っていたことにではない。ひと月前に出会った彼女の様子と明らかに違い、その姿にまるで生気を感じられなかったからだ。

 疲労が蓄積されているというレベルではなかった。そこに立っているのに、まるで幽霊のような様子に婦人は息をのんで、思わず駆け寄った。

 婦人の顔を見て、女性は心底驚いた顔をしたそうだ。その瞬間だけ、彼女がまだ生きている人間なのだと感じることが出来て、おかしな話だが婦人はホッとした。

「ほんとうに……ほんとうに来てくださったのですか……?」

 前回会った時と違って、着古したワンピースを身に着けた彼女は、やはり孫と同じ年ごろに見えた。今日は結んでいない黒髪はパサついていたが、ちゃんと櫛通されている。話す言葉やそうした仕草に、彼女が決して悪い家の出ではないことがうかがい知れた。

それが余計に悲しい。なぜそんな人が、こんな、幽霊みたいな様子で立っているのか。

「何があったの? 私にできることは?」

 単刀直入な物言いだと自分でも感じながら、婦人はもう、そう発言するしかなかった。どうにかしたい、この女性の境遇をどうにかしてやりたい、そう思うだけだった。

 コダマ婦人の言葉に、女性はやはり驚いた顔をしたが

「ありがとうございます……」

と呟いて、涙を浮かべた。

 時間がないのだと、彼女は言った。

「四歳の、娘がいます」

 その子は今、家で寝ているらしい。昼寝している隙にここまで出てきたそうだ。だが「時間がない」のは子供が目覚めるという意味ではなく、彼女自身の時間がないのだと、言わなくても理解が出来た。

 夫が娘に暴力を振るうようになった。これまで己への暴力には我慢してきたが、母としてそれは許容できなかった。何も持たないまま娘と家を飛び出し、これまで幾つもの仕事を掛け持ちしながらどうにか二人で生きてきた。だが、ひと月前娘がひどい風邪をひいた。仕事に行くのをやめて慌てて病院につれていったが、そこで通常の風邪ではないと言われた。そもそも体力のないお子さんだから、薬を投与しても効果が表れる前に手遅れになるだろう。

絶望の淵に立たされた彼女に、その町医者はまわりに聞こえぬよう注意してから、囁きかけた。

「お子さんの為に己を犠牲にする心はありますか?」

 当たり前だ。

 彼女は即答した。

 この身すべてをささげてもいい。

 それで娘が助かるならば。

 そう答えることを医師はきっと分かっていたのだろう。

「ここからは口外せぬよう」

 先に口止めされてから、高額の医療費を提示された。

 この費用はとある魔導具を使用するために必要な金額です。その魔導具は、己の生命力を相手に受け渡すことが出来るもので、生命力を受け取った分だけ相手は回復します。ただ、大戦後に廃止されたものなので、表立っては使用できません。本当に必要とされる方だけに提供しています。

 お母さんの生命力を、娘さんに分け与えるのです。

 そうすることで娘さんを救うことが出来る。

 言われて、即座に彼女は了承した。躊躇いは微塵もなかった。

 だが、魔導具を起動させるための金が足りない。大量の魔力を使用するために、事前に

魔力炉を補充しなければならないが、そのための費用が足りないのだという。家にある金をぜんぶ集めても、まだ足りない。だから彼女は、唯一持っていた指輪を売ることにしたのだ。

「あの指輪、結婚すると決まった時に、唯一母が持たせてくれたものなのです」

 彼女の生家は魔導具の製造会社だったらしい。だが大戦後に様々な魔導具が廃止されたあおりを受けて、彼女の家も没落。起死回生の策として実父が思いついたのが、取引先の次男坊と、娘との政略結婚だった。横暴な男だと噂されていたが、彼女にそれを拒む権利はなかった。嫁ぐ日の朝、これまで娘に対して淡白な態度しか見せてこなかった実母が握らせたのが、あの指輪だったそうだ。

「嫌なことから守ってくれる。完全には守ってくれないだろうけれど」

 大戦前に魔導具製造を手掛けていた母が唯一、魔石から装丁まで一人で受けおった作品なのだという。

「あなたに、素直に大好きと伝えてこられなかった。ごめんなさい」

 母の言葉に彼女もまた涙した。指輪をはめ、嫁ぎ先へ向かう。涙はもう流さない。母のお守りがあるのだから。ただ、初夜の寝床で指輪は発動し、夫となった人の前髪を焦がした。そして怒った夫は彼女をひどく殴った。それから指輪は外して、今日までお守り袋に入れていたそうだ。

指輪を買ってくれそうな人を探そう。自分の唯一の財産はこれしかない。でも母の作品をひどい人に買われたくもない。そうして町を駆け回った最後に、出会ったのがコダマ婦人だった。ちゃんとした身なりに、物腰。なにより優しそうな雰囲気に、この人ならば指輪を任せられるし、買ってくれそうだと思ったのだそうだ。

結果、指輪を言い値よりも高い金額で婦人が購入してくれたので、彼女はあわてて娘の待つ病院へと戻った。

そして医師のもつ魔導具によって、己の生命力を娘へと移したのだ。

結果、娘はみるみるうちに元気になった。

あれほどひどかった咳も収まり、頬も薔薇色に戻った。生命力を分けたという証拠のように、彼女自身はそれから立ちあがることもままならなかったのだが、それでも回復した娘を抱き上げて歓喜し、涙した。


だが、話はそこで終わらなかった。


「……実は、起動するための費用が足りていなかったのです」

 健康になった娘を、鉛のように重い身体に鞭打ってどうにか病院につれて予後を見せに行った際に、医師が申し訳なさそうに言ってきた。

「魔力炉に補充する分はいただきましたが、起動させるための魔力が足りず……」

 その分を支払ってもらえないだろうか、という。

 そんなの知らない! もうお金はないのだ!

 そう主張したかったが、それを言ってしまうと次、娘に何かあった時に助けてもらえなくなる。だが、本当に金はない。

実家に頼るか? 

それとも、逃げ出した先の夫に頼るか?

 だがそんなことをしたら、問答無用で娘を取り上げられる。それはなんとしても避けねばならない。

 困り果てて黙り込んだ彼女に、医師はこう提案した。

 週に一度、この魔導具を必要とする患者がやってくる。その人に、あなたの生命力を分けてあげてください。合計四回分で結構です。そうしたら、費用はいただきません。

 なるほど、と思った。

 金がなければ現物で支払うしかない。 

 相手がどんな患者なのかは分からないが、自分の生命力を分け与えさえすれば、今まで通り娘と過ごすことが出来るのだ。


 そこまで聞いていて、コダマ婦人は憤慨した。

 違法もいいところである。

 すぐさまその医者を警察に突き出せばよいではないか。

 だが彼女は首を横に振った、

「一度それを使用した私です。罪に問われます」

 罪状がつくかどうかは分からないが、審議のために行政機関に拘留されることとなるだろう。そうしたら、その間娘は誰が見てくれるのか。行政か? それとも元夫か? どちらにせよ残された道は母子の破滅でしかない。

「ならば私がその費用を支払うわ」

 いくらか聞いていないが、コダマ婦人は本気でそう彼女に提案した。これが老人をだます新手の詐欺だとしたらいっそよく出来ているが、そうした様子は彼女から微塵も感じられない。嘘をつくにしても、実際に彼女の生気は消えかけているではないか。

 だが、婦人の提案にまた彼女は首を横に振った。

「今日が最後の提供日なんです。それが終わったら解放されるんです。ただ、ただ……今回ばかりは私はすぐに娘のところに戻れそうにない気がするんです」

 気弱な言葉だったが、事実だろう。誰かに生命力を分け与えている場合ではない。彼女自身の命が消えかけているのだから。

「私が戻ってくるまで、娘のことを預かっていただけないでしょうか……本当に、本当に勝手なお願いで申し訳ないのですが、お昼寝から覚めて数時間だけ」

 そう言って顔を上げた彼女の目は、幽霊のような体とは不釣り合いなまでに強い意志の炎をともしていた。

「死んだりしません。絶対に。必ず戻ってきます。でも、いつもは這ってでも戻っていたのですが、今回ばかりは時間がかかりそうなのです。夜までには必ず戻りますから、それまで娘のことを見ていてください。お願いします」

 そう言って深々と頭を下げる彼女に、コダマ婦人はもう何も言い返すことが出来なかった。だから、彼女の言う通りに、彼女の娘が眠る古いアパートの一室を訪れて、そこで小さな女の子と対面したのだった。眠りから覚めたばかりの女の子は、コダマ婦人を見て最初はとても驚き怖がったらしい。だが、お母さんから夜まで一緒にいるようにとお願いされたこと、お母さんは必ず帰ってくるからそれまで楽しく待っていようねということを優しく話したら、その子は次第に信頼したらしくコックリ頷いたのだという。

 それから小さな女の子と一緒にお絵かきしたり、折り紙したり、婦人が買ってきた材料でシチューを作ったりして待っていた。

すっかり夜が深まり、お母さんが帰るまで待っているとぐずっていた女の子もすぅすぅと寝息をたてたころ合いに、ドアのカギを開ける思い音が部屋に響いた。

 幽霊が入ってきたのかと婦人が思うほど、女性は憔悴しきって戻ってきたのだそうだ。

 文字通り這うようにして、体を引きずりながら、それでも約束通りに戻ってきてくれた。玄関に倒れかけた彼女を慌てて抱き留めて、コダマ婦人はその生還を涙ながらに喜んだ。そして彼女自身も、弱弱しい笑顔を浮かべながら涙をながしたのだという。

 

 母子二人して眠る狭い部屋を改めて見返し、コダマ婦人は決意した。

 こんなことが、あってはならない。

 弱い人が、誰かを守るために、更に重荷を背負うようなことがあってはならない。

 だが、ただの老女でしかない自分にどこまで出来ることがあるのだろうか。

 行政に話したところで、彼女自身が罪に問われかねない。

 無論、もし彼女が拘留される時間があったとしたら、その娘の面倒は婦人が見る心持でいたのだが、その間に暴力をふるう元夫が、娘を取り返しにやってくるかもしれない。そうなれば、法的には赤の他人である自分が娘を守り切るのは不可能だ。

 ならば、行政ではなくどこに頼めばいい?

 夜明けまでさんざん悩みぬいて、朝の光が暗い室内に入り込んだときに、コダマ婦人はひらめいた。

 明日の昼、カーロン教の神父がやってくる。

 しかも魔導具を処理する専門家だ。

 その人達に現状を話そう。医者の使用する魔導具が明らかに違法なのだとわかれば、彼らも手出しせざるを得ないだろう。

 担当地域が違うと言っても聞いてやるものか。

 それでも断ってきたら、慈善をモットーにするカーロン教の精神に訴えかけよう。

 それでも断ってきたら?

ならば、更に考えればいい。彼らが断れないような、何かを。


 そこまで一度に話しを聞き終えて、リロイとクルーガーは冷や汗を流していた。

 予想もしていない話に、明らかに巻き込まれている。

 しかも、断れない何かというのは……それって、つまり。

「ところで」

 コダマ婦人は改めて二人の方を見つめた。優し気な表情をしている。だが、その手には長方形の紙が握られていた。

「この時期のミットランの蟹は最高においしいのよね。ただ、一匹いっぴき、素潜りで捕るために捕獲量はすごく少ないのよ」

 スッと差し出された紙には、これまでの料理の名前と、その値段が記入されていた。

 蟹の横に書かれた数字に、二人は息をのむ。

 予想よりも、ゼロの数が一つ多い。

「カーロン教は慈善事業。薄給だというのはよく知られているところだけれども」

 テーブルに頬杖をついて、コダマ婦人は優しく二人に微笑みかけた。

「私のお願いを聞くのと、食べた分を支払うの、どちらがいいかしら?」

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