馬と鹿と虎と馬

「おい、ありゃ一体なんだ。」

『見当もつかないな。』

 二人が乗る車の前方を、電車が遮っていた。3m×4m×20mの車両が、端が見えないほど連なり、砂漠を分断していた。電車は動く様子もなく、車内は薄暗い。


 牛頭馬頭たちを振り切るため、出せる限りのスピードで走り続けた。地獄の景色は変わらない。平坦なガラスの砂漠に立ち上る火柱。地を揺らす悲鳴と鬼たちの怒号。空に浮かぶ宮殿と閻魔大王。

ガソリンが尽きかけた頃、前方に違和感を覚えた。最初はただの地平線だと思っていたが、すぐに違うと気づいた。

途方もなく続く電車だと気づいたのはすでに引き返すタイミングを失った後だった。

風は穏やかに凪いでおり、タイヤの跡はくっきりと残っている。ガソリンは残り少ない。いずれ牛頭馬頭たちに追いつかれるだろう。


「おい、どうするよ。歩いて逃げてもどうせ捕まるぞ。」

『電車の下を潜り抜けられないか?奴らにはこの隙間は通れない。』

「俺たちにも無理そうだわ。感電するぞ。」

『なぜわかる。』

「動力用のレールにカバーがされてない。これに触れずに潜り抜けんのは無理だ。」

『博識な奴だな。ならどうする。』

「よじ登れないか?」

『ハシゴがない。』

「電車沿いに歩くと何かあるかも。」

『遠目に見た限りだが、電車以外何もなかった。』

「少しは自分で考えろってんだよ。」

『すまない、全く思いつかない。ここが地獄の果てか。』

「詰みかもな。」


いくら考えても考えが浮かんでくることはなく、諦めがだんだん近づいてきて、二人の肩に手をかけた瞬間、気の抜けるような音と共に電車のドアが開いた。車内からは粉っぽい風が吹き、二人の頬を撫でた。その風は嫌な匂いがしたが、どこで嗅いだかは思い出せなかった。

『ん、おい、ドアが開いたぞ。』

「ありがてえ。まるで神の…」

『思し召しだ。貴様の汚い口からそんな言葉を吐き出すな。』

「待てよ。電車の中に入ったらそれこそ牛頭馬頭どもに捕まるんじゃないか?」

『見たところ電車はとんでもない長さだ。途中で隠れるスペースでもあるだろう。』

「そこで奴らをやり過ごすってわけか。いいぜ、乗った。」

 そうして二人は意気揚々と電車に乗り込んだ。

電光掲示板は数回の点滅の後、二度と点くことはなかった。


 「おい、牛頭馬頭の奴らいまどこら辺にいる。」

 『私達の車のスピードと奴らの走るスピードと合わせて考えると…』

 「大体20kmくらいは離れてるな。」

 『計算が早いな。』

 「職業柄な。ほら、俺って売人してたじゃん?前回の貸しが何円に今回のお会計が何円。差し引き何gっていうふうに、計算には慣れてんのよ。」

 『神はどのような人間にも長所を与えるものだな。』

 「地獄の沙汰も金次第っていうよな。喧嘩ばっかり売ってここから抜け出す気か?」


 二人は軽口を叩き合いながら車両を移動し始めた。レールは一つしかないため、どちらに進むかわからない。だがそれでよかった。電車の小さいドアには牛頭馬頭は入れない。後はゆっくり進みながら適当な場所で窓を割って進めばいい。

 そんな軽い考えのまま、彼らは端の車掌室を目指して歩を進めた。


 『おい、この電車、何かおかしくないか?』

 「当たり前だろ。地獄に走ってる電車だぜ。おかしくないわけがないだろ?」

 『それもそうだが…まず乗客がいないだろう?そして発車する様子もない。車掌室までどれだけ歩いていいか分からないときた。』

 その時、微かな振動と共に電車はゆっくりと動き出した。ドアはいつの間にか閉まっていた。

 「お、動いたぞ。はは、見てみろよ。牛頭馬頭の奴ら後ちょっとだったのにな。」

 『まあどうせあの図体じゃ電車には乗れないだろう。』

 「な。後は適当なタイミングで降りてぶらぶらしようや。」

 『ああ、それにしてもこの電車はどこに向かうのだろう。』

 「地獄より下はねえからな、ひょっとすると天国まで登るかもしれないぞ。」

 『そうなったら私はぼんやりとした聖者たちと何を話せばいい。神の目の前で奇跡の話でもするのか。』

 「そういうことになるな。全くめでたい限りだぜ。待った、こういうのはどうだ。俺がヤクを売る時こう言うんだ。天国に登る気持ちです。効果は体験済みってな。」

 『誰に売るんだ。』

 「クタクタに疲れた鬼と亡者両方だな。地獄を生き延びるために必要なのは金じゃねえ、ヤクだ。」

 『それは現世の人たちにも需要がありそうだな。』


 電車はゆっくりと進み続ける。まっすぐ進んでいるためか、不自然なほどに揺れが少ない。車掌室には未だにつかない。もう何両移動したかも忘れた。単調な揺れに変わり映えのない景色は、地獄に落ちてきてから忘れていた眠気を思い出させた。

 「おい、ちょっと眠くなってきたわ。少しだけ寝ようぜ。」

 『そうだな、仮眠くらいなら良いだろう。』

 「自慢じゃねえがな。ガサ入れは早朝が多いんだ。だからちょっとした異変があればすぐ目覚めて一目散よ。」

 『つくづく役にたつ悪党だな。』

 「生きる知恵ってやつさ。んじゃ、おやすみ。」

 『ああ、おやすみ。』

 二人は座席に座るとすぐにまどろみ始めた。西陽が二人の頬を優しく照らす。

 地獄の長い長い昼が終わり、夜になろうとしていた。


「おい、起きろ。」

『ん、どうした?何かあったか?』

「窓の外見ろ。いつの間にか夜になってる。」

『地獄にも夜があったんだな。昼が長すぎて気づかなかった。』

「あとさ。空見てみろよ。すげえぞ。」


綺麗な星空を表すときに、こぼれ落ちそうな星空という言葉が使われるが、地獄の星は文字通りこぼれ落ちていた。

群青色の夜空に白色の塗料をぶちまけたような無数の星々。その中の一つがブルブルと身悶えすると、地上へと真っ逆様に落ちてきた。落ちてきた星は小さな火柱となり、ガラスの粒を巻き上げた。目を閉じ青白く光る閻魔大王の光を乱反射して、ガラスの砂はゆっくりと降り注ぐ。そのような光景が地獄のあちらこちらで絶え間なく見られる。

閻魔大王が眠りについた今、獄卒たちも殺戮をやめ、穏やかな光景が広がっている。

地獄に似つかわしくない言葉ではあるが、それらは確かに美しかった。


『美しいな。』

「ああ、生きてきた中で一番綺麗な景色だ。」

『もう死んでるだろう。』

「地獄ジョークだ。ところでさ、俺寝てる時、夢を見たんだ。夢の中でもこの電車に乗っててさ。」

『ああ、私もだ。』

「だよな、隣にお前もいてさ。電車が進むたびに窓の外にいろんな風景が出てくるんだわ。」

『…』

「それボケーっと眺めてたらさ、気づいたんだ。これ俺の走馬灯だわ、ってな。」

『ああ、私も見た。』

「ああ、お前の側の窓にはお前の走馬灯、俺の側の窓には俺の走馬灯って具合に、だんだん過去に向かって走ってたよな。お前も見てただろう。夢の中でしゃべったもんな。」

『ああ。二人で同じ夢を見た。』

「んでさ、電車が止まったのよ。窓の外の景色は同じ。」

『ああ。』

ジャンキーは深く座席にもたれかかり、つぶやくように問いかけた。


「お前さ…俺のお袋殺した?」


電車は相変わらずゆっくりと走り続ける。単調な音に混ざって、花火が弾けるような音が聞こえてくる。おそらく車体に星が当たって弾けた音だろう。

車内の照明は薄暗く、外と変わらないぐらいだ。時折上がる火柱が、二人の表情に深く、濃く、陰影をつけた。


『私は…』

「いやいや、勘違いしないで欲しいんだけどな。別に怒ってないのよ。殺してくれって頼んだのは俺だしな。」

『そうか。君は間違っていない。』

「ただな。俺がジャンキーになったのは、自分を無くして眠ることがいちばんの快楽だったからなんだが、その感覚と似たものが一つあるんだ。なんだと思う?」

『見当もつかないな。』

「こないだお前に殺された時に思い出した。お袋の腕の中で眠る感覚と一緒だったんだ。地獄に落ちるまで思い出せないなんて滑稽だけどな。」

『今まで何人にも救いを与えてきたが、子供の前で母親を手にかけたのは君の母親が最初で最後だ。その子供と二人で電車に揺られているなんて皮肉なものだ。』

「まあそういじけんなよ。長々としゃべったんだが俺が言いたいのはだな。俺たち二人もっと仲良くなる必要があるんじゃないかということだ。きっとお袋が繋いでくれた縁なんだ。」

『そうだな、神は実在する、そしてとんでもなく皮肉屋だ。』

「間違いないな。ところでさ、名前聞いてなかったよな。」

『ああ、バタバタして聞きそびれた。私はマルコ。君は?』

「俺はジャックだ。改めてよろしく頼むわ。」

二人は席から立ち上がり、車掌室に向かって歩き始めた。相変わらず軽口を叩き合っていたが、以前のような棘はない。夢の中で走馬灯を共有した二人は、まるで旧知の中のような息の合い方だった。


「おいマルコ、俺たちだいぶ歩いたよな?」

『ああ、距離にしたら10キロ以上歩いたな。』

「いくら長い電車だとしてもさ、そろそろ車掌室についてもよくないか。」

『確かに、嫌な予感がする。窓を割って外に出よう。』

マルコは窓に近づくと、前傾姿勢になりガラスへ肘打ちをした。しかし想像していた感触と違い、ガラスは柔らかく撓み、優しく肘を跳ね返した。

『なんだこのガラスは。ヒビ一つ入らない。』

「どれ、ちょっとどいてみな。」

ジャックは吊り革を掴み、懸垂の要領で身体を持ち上げた。そのまま何度か弾みをつけると、思いっきりドアに蹴りを放った。

ジャックの全体重をかけた蹴りに、ドアは外れる事はなく、ぐにゃりと奇妙に歪むとゆっくりと元に戻った。

ジャックはかぶりを振りながら吊り革から手を離し、ポツリとつぶやいた。

「俺ら、閉じ込められたな。」


暗い車内を二人はトボトボと歩く。不安感からか口数は多い。歩き疲れては座席に座り仮眠をとる。その度に走馬灯を見た。

それを何度か繰り返した後、マルコが口を開いた。


『なあ、無限地獄って聞いた事はあるか?』

「ないな。学がないもんで。」

『地獄の最下層にあるらしくてな。そこでは絶え間ない責苦が永遠に続くらしい。』

「なんでどこまで続くかわからない電車を歩いているときにそういう事を言うのかねえ。」

『いや、もしもこの電車が無限地獄だとするとだな。私達はそれに値するほどの罪人だということだ。』

「どうやら司祭様は自分のことをまだ聖人だと思っているらしい。」

『よく考えろ。電車の中には私たちの姿しかない。だがもっと酷い悪人なんてゴロゴロいるだろう。』

「だとすると、誰が判断してるかわからねえが、俺ら以上の悪人がいたら電車は止まってドアも開くかもしれねえな。」

『そういうことだ。気長に歩き続けよう。』

「余裕ぶってるけど、顔白いぞ。」

『白色人種だからな。』


夜明けは唐突だった。空に浮かぶ閻魔大王が赤ん坊のような叫び声をあげた。先程まで地べたに座り込んでいた獄卒たちはのっそりと起き出し、どこからか取り出したラッパを吹き始めた。ラッパのないものたちは金棒に頭を叩きつけ、甲高い音でリズムをとっている。

どこからともなく、鎖を巻くような音が聞こえてくる。その音に合わせて空がどんどん明るくなり、音が止む頃には見慣れた光景になってしまった。追われる亡者たちに叫ぶ獄卒。青空に閻魔大王。見慣れた地獄が広がっていた。


電車の中で二人は、初めての夜明けをぽかんと眺めていた。

「なあ、夜明けってこんな賑やかなもんだったっけ。」

『まったく騒がしいな。死者も目を覚ますな。』

「待て、なんかおかしいぞ。」

ジャックがそう言い終えるや否や、電車が耳障りな音を立ててスピードを落とした。ほんの少しの火花が散る。ゆっくり走っていたため、衝撃は無かったが、それでも二人はやや体制を崩してしまった。

前傾姿勢の目線の先に、何か小さいかけらが転がっていた。茶色くて、カサカサしていて、どこかで見たことがある。まるで人間の骨のような…

そこまで思い至ると二人は猛然と走り出した。自分たちの行く末を見てしまった今、何がなんでもこの電車からは脱出しなければならない。

「おい、この電車、入った時やけに粉っぽかったよな。」

『ああ、クソみたいに淀んだ空気だった。』

「ここで死んだ人間が骨になって、粉になって、それが充満してたせいなんじゃねえか。」

『わかっているならさっさと走れ。私たちには時間がない。』

「この電車がスピードを落としたってことは、どっかに俺ら以上の罪人がいるってことだ。二手に別れた方が効率良くないか?」

『どっちかが罪人を見つけた場合どうする。片方は骨になるまで電車の中を彷徨い続けるのか?』

「それは…」

『私にとっては生きている間が地獄だった。皮肉なものだが…地獄に落ちてきてからの方が楽しい。それは君がいたからだ。』

「それもそうだな。くたばるなら二人で一緒にくたばろうぜ。」

『ああ、前か後ろか、二分の一だ。君はどっちにかける?』

「過去を振り返るのは趣味じゃねえんだ。前に進むしかねえよ。」

『ああ、君ならそう言うと思った。』

そう言って走り出したマルコの背中を、ジャックはじっと見ていた。何度も走馬灯を共有した今、ジャックはどうしてもマルコのことを罪人だとは思えなかった。自分たち以上の罪人なんて一体どんな極悪人なのだろうか。二人で脱出するためだったら極悪人の2、3人くらいなら容易く殺せる自信があった。


僕たちはついている。そりゃ、彼女とのサイクリング中トラックに巻き込まれた時は理不尽だと思ったよ。だけどそのおかげで死後の世界で怪物から逃げられたんだ。徒歩だったら捕まっていたよまったく。

僕たちはお互いを愛し合って生きてきた。愛は全てを救う。28年生きてきて辛いこともあったさ。けど最後には愛が解決してくれた。

ここがどんな世界かはわからない。けど最愛の彼女がそばにいてくれたらどんな問題もどんとこいさ。

おや、遠くに電車が走っている。しかも中には二人の人間までいるじゃないか。彼らも僕たちに気づいて手を振っている。電車は速度を落としてドアが開いた。このままだと乗るのが難しそうだが、中の二人が差し伸べてくれている。中に入れてくれそうだ。どうやらいい人たちみたいだ。やっぱり愛が勝つんだね。


「アホだったな。」

『気の抜けたバカだったな。』

「お前ちょっと俺の口調移ってるだろ。」

『地獄にいて口が悪くなっただけだ。』

「いや絶対俺の影響だって。」

『しつこいぞ。自転車なんて久しぶりだから、息が切れてきた。』

「運動足りねえんだよ。それにしても風が気持ちいいな。」


二人は地獄を走り続ける。牛頭馬頭は電車を追いかけ続けるだろう。ここには未来なんてないが、ひとまずはそれでよかった。いつか終わる旅でも、今日じゃない。

轍は途切れることなく、砂丘の向こう側へ消えていった。

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ドライブ @rakuten-Eichmann

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