第10話 一年二組その3 オリ合宿後編


 一年二組には、天使がいる。



 天使とは、愛ヶ崎天使まながさき てんしという女子生徒である。



 天使に触れると、運気が上昇する。



 天使の言葉を聞くと不調が直る。



 天使の毛髪は、金運上昇。




 天使の宿泊している部屋は、二〇六号室である。






 台典商業高校一年生八クラスは、合同でオリエンテーション合宿と呼ばれる学内行事のため、県外施設へとやってきていた。二泊三日の間に、勉強はもちろん、運動や文化学習と言ったさぞ教育に良さそうなカリキュラムを詰め込まれる。旅館とホテルの中間のような宿で、生徒たちは五人一組の班となり、それぞれの部屋に分かれることになる。


 そんな楽しい楽しい合宿の施設内においても、ひそひそと噂話は広がっている。八クラスとはいえ、狭い宿泊施設の環境に加え、全員合同のカリキュラムでは、必然的に天使と呼ばれるその生徒を、他のクラス・学科の生徒も見ることになる。まして、クラス委員長ともなれば露出の機会も多い。


「本日より三日間、お世話になります。よろしくお願いします」


 天使は丁寧に頭を下げ、施設の経営を担当している淑女と握手をする。昼過ぎの快晴の空は、鬱陶しくない程度の熱で、生徒たちを照らしている。手を離して司会の後ろに下がった天使に、盛大な拍手が送られる。天使はやや恥ずかしそうに、広い駐車場に体育座りで整列させられている生徒たちの方へと戻っていった。


 施設長だという老爺から宿泊上の注意事項が語られ、学年主任がその一々を掘り返すような長ったらしい高説を垂れる。まばらな拍手と共に学年主任が下がると、それぞれの学年の列の前に担任が付き、それぞれ解散になる。


 施設に入っていく前に、生徒たちは親睦を深めるためといった様子で、経営担当の淑女と握手をしていった。その長い列を、馬鹿らしそうに眺めながら、一年二組の生徒たちはだらだらと部屋に分かれていく。


 天使は、目の前を通っていく生徒に無視されて呆然とした表情の施設長が可愛そうだったので、せっかくだからと握手をしてその場を去っていった。その後のことは、部屋に向かった天使の知るところではない。



 ぞろぞろと一年二組の生徒たちは部屋の廊下を進み、それぞれの部屋に分かれていく。外観はホテルに近かったが、中に入ってみると、どちらかと言えば旅館のような古風な趣がある。天使は外泊の浮き立った感覚を抑えつつ、落ち着いた木の香りを体中で吸い込む。満足げに笑みを浮かべて、天使は自室へと入った。天使は扉に書かれた、二〇四という文字を見て、忘れないように覚えておこうと思った。


 五人部屋と言われれば納得できるくらいの、それなりに大きな和室を見て、天使はやはりわくわくとした気分になり、急いで靴を脱いで飛び入った。ひとしきり和室の真ん中でごろごろと転がってから、先に入室していたクラスメイト達に倣って荷物を部屋の隅に置く。騒々しい天使の動きに眉根一つ動かさず、同室のクラスメイト達はしおりと筆記用具を持って部屋の入り口に戻っていった。


「天使ちゃん、あたしら隣の部屋にいるから、先行っといていいよ。あ、それと遅れないようにお風呂の用意先にしときなよ~」


 天使はうんと空返事を返し、入浴用に小分けにしていた着替えの入った袋をリュックの外に分かりやすく置くと、しおりと筆記用具を抱えて部屋を飛び出した。


 部屋を出る直前、扉の向こうからこちらを見ているようにぶら下がる、リュックサックに着いたラバーキーホルダーに手を振る。軽いスキップをしながら、天使は廊下を進み、目的の大広間へと向かった。






 -------------ある一年二組女子生徒による観測


 宿に着いてすぐ、生徒たちはそれぞれの部屋に荷物を置いて、大広間に集められる。そこで始まるのは、退屈で仕方がない勉強の時間だ。もちろんそれぞれのクラスの進度に違いがあるため、授業という形ではなく、中学の復習が主の冊子が配られ、定刻になれば隣の生徒と交換して採点をする。国語、数学、英語の三教科分のテキストで、それぞれ四五分の時間制限だ。


 最後の問題の添削を見終えて、私は空席になっている隣をちらりと見る。その席の少女は、八クラス全生徒の視線を集めながら、広間の舞台に置かれた無骨なホワイトボードに、数学の問題の解答をしている。


 それぞれの教科の最後の問題は、思考力と応用力を問うオリジナル問題とのことで、配布された答えの用紙においても空欄となっている。全員が回答を終えた後で、こうして発表し合うことで主体性や協調性をはぐくむ目的、だそうだ。正直、勘弁してほしい。


「わ、答え一緒だね。じゃあ絶対正解だ!」


 隣席の少女は、最後の採点の番にそう笑いかけてきた。そうだね、と苦笑した私に、数学得意なんだねと屈託のない笑みを向ける。他の二教科を適当に回答し、その時間を数学にすべて回していた私は、そうでもないよと言いながら後ろ暗い気持ちになる。すごいやと笑う少女は、小細工をせずにまっとうに問題と向き合い、私の見た限りでは、すべて正しく回答していた。私がおよそ三〇分悩んで出した回答を、より丁寧で迷いのない筆致で導き出している。後ろめたい気持ちで周りを見回すと、多くのペアがそれぞれの回答を示し合わせて、答えのない問題の回答をそろえようとしていた。


 長めに瞬きをして、数刻前の嫌な気持ちは忘れてしまうことにする。気づけば隣席の少女は、数学の問題を解き終わり、焦ったような様子の意地悪教師に国語の回答も答えさせられていた。


 国語の応用問題は漢文。引用された五言絶句の漢詩が穴抜けとなっており、そこに自分なら何の漢字を入れるか、というポエミーな問題だ。私だったら絶対に当たりたくない、と思いながら、無難な漢字をとりあえずは埋めていた。どうせ回答の時に生徒を笑いものにするために入れたんだろうと、ゲス顔で問題を作成する学年主任の顔を思い浮かべる。


 隣席の少女、愛ヶ崎天使は自信満々にホワイトボードに回答を写す。後ろの席からは見えないだろう、とあろうことか読み上げを命じた教師に、躊躇なく天使は吟じる。


 その流暢さに、一瞬大広間が水を打ったように静かになる。そして、採点をしたときの私がそうだったように、天使が詠み終えると、教師は悔し気に舌を巻き、商業科の生徒から騒々しい歓声が飛ぶ。追い打ちをかけるように、恥ずかしげもなく解説をする天使に、運動部らしき生徒たちがいいぞーと合の手を入れる。普段はやかましいばかりだが、こういうところで楽しめる精神性は素直に羨ましい。


 意気消沈した教師が戻りなさいと弱弱しく指示し、天使はニコニコと隣席に帰ってきた。


「いやぁ、英語は自信なかったから当たんなくて良かったぁ」なんて笑う彼女に、「たぶん合ってたから大丈夫でしょ」とも「それ嫌味?」とも言えずに、視線を逸らす。


――才能。そう一言で言ってしまいたいのに、きっとそれだけではないと思わされてしまう求心力のある少女。


 横目でちらちらと見ていると、不意に目が合い、彼女は小さく笑う。


 自分の魅力に自覚的で、けれどそれが他人から見てどう映っているのかには無頓着な、自由と称するしかない少女。


 隣席に反応しないように、前で解説をする教師に意識を向けていると、不意に肩をたたかれる。何気なく振り向くと、隣席の少女がせっかくのきれいな顔を歪ませて変顔をしている。思わず声を出して笑ってしまう。解説をしていた教師が、うるさいぞと注意してくる。


「うざ」と口角が上がったまま、天使に吐き捨てる。天使は悪戯好きの子どものように純真な瞳で笑った。


 -------------



 勉強会が終わり、天使は部屋に戻る。さっさと部屋に戻って大浴場へ向かう準備をしたかったが、天使が席を立つ前に、クラスメイト達が勉強会の答えを聞きに集まってきたため、結局大広間を出たのは、他のクラスが誰もいなくなってからになってしまった。そんなに解説がいるほどの問題だっただろうかと思いながら、大げさなほど感謝してくれるクラスメイトに、天使はまんざらでもない気持ちになる。


 大広間を出る前に掛け時計を見ると、気づけば入浴の割り当てられた時間の五分前になろうとしていた。大浴場は五階にあり、大広間のある四階から、部屋のある二階に降りて、再び上るのは面倒だなと思っていると、階下から見覚えのある袋を抱えたクラスメイトが上がってくる。


「あれ、それって……」


「お、タイミングぴったじゃん。これ、お風呂用でしょ?」


 同室のクラスメイトが、天使の入浴用準備一式を投げよこす。ありがとう、と言いながら胸で受け止める。そのまま他のクラスメイトと別れ、天使は大浴場へと向かった。階下から何か言い争うような音が聞こえたが、同室のクラスメイトに手を引かれ、天使は仕方なく五階に進んだ。


 大浴場の脱衣室は思っていたよりも広く、これなら三班ずつ入らなくても一斉にでもいけそうだと、無謀な考えが浮かぶ。


 入浴時間は、それぞれの班が三〇分ずつ、十分ごとの時差を設けて最大三班が同時に入浴することになる。しおりには、班の代わりに部屋番号が時間に割り当てられている。天使の班は、一年二組で最も入浴の開始時間が早い。しばらくすれば、他のクラスメイト達もやってくることだろう。


 天使は、あまり長風呂をする方ではない。一人暮らしを始めた月は、毎日湯船につかっていたが、翌月送られてきたガス代の領収書の金額に愕然とし、それ以来家ではシャワーで済ませ、時折、徒歩数分の大衆浴場を利用することで出費を抑えていた。

 脱衣室のかごが、思ったよりも埋まっており、一組の生徒がまだそれなりに残っていることが分かる。三〇分という入浴時間は、彼女たちには短いのだろう。


 天使はようやく空いているかごに荷物を入れ、ネクタイを緩める。ブレザータイプの制服は、社会に出るときに役に立つと学年団の教師は言っていたが、就職するにしたって女子生徒はネクタイをしないだろうと聞き流していた。役に立たないくせに、息ばかり詰まる。生徒の大半は適度に緩めており、厳しい生徒会担当の教師に指摘されてはその場でだけ締めなおしていた。天使はそうでなくても頻繁に注意を受けるため、ネクタイはきつく結ばざるを得なかった。


 すっかり服を脱いでしまって、遅れて天使はタオルを探す。一瞬の不安の後、同室のクラスメイトがフェイスタオルとバスタオルの両方を入れてくれていることを確認する。


 台典市の銭湯はめったに混まないため、天使は浴場でのマナーについてあまり詳しくなかった。学生同士でも、やはり前は隠しておいた方が良いのだろうか。


 がらがらと音を立てて扉が開き、浴場の方から一組と思われる生徒が出てくる。高校一年生とは思えない体つきの少女を一瞥し、目をそらし、ちらりと見て、見なかったことにする。思わず天使は、自分の胸にフェイスタオルをあてた。


 天使は、少女が扉を閉める前に、そそくさと浴場に入っていった。


 浴場内はそれなりに広く、けれど三班分の人数で収容人数限界と言った様子だった。一つだけ空いていた椅子に腰かけ、体を洗う。


 ガラガラと扉の空く音に入り口を見やると、次の班がやってきていた。もう十分もたったのかと少し焦る。


 のんびりと湯船につかっていると、さらに次の班も入ってきた。全身の血行が良くなっていく感覚と共に、そろそろ上がらないとという思考が頭の中でぐるぐると回る。


 指の先までじんわりと赤く、温まったところで体の水分を落とし、軽く全身を拭いてから脱衣室に戻る。扉を抜けると涼しさが全身を包み、筋肉がわずかに硬直するような感覚を覚える。


 天使がのんびりと髪を乾かしていると、同室の生徒が後ろから髪を撫でた。


「天使ちゃんって、髪綺麗だよね」


 そうかなと言って、特別なことは何もしていないはずと普段の手入れを思い返す。そうこうしているうちに、いつの間にか上がっていたクラスメイト達が順番に、触ってみたいと集まり始める。なんかさっきもこんなことあったぞと思いつつ、火照ったからだが冷めるまではなされるがままになる。


 いつのまにか、一年二組の女子生徒が勢ぞろいしており、そろって脱衣室を後にする。階段を下りていると、二階と一階の間の踊り場に、数人の男子生徒がたむろし、こちらを見上げているのが見えた。


 何してるの、と天使が声をかけると、男子生徒たちは蜘蛛の子を散らすように階段を駆け下りていってしまった。天使が不思議そうにクラスメイト達に意見を求めると、誰ともなく、馬鹿ねぇと笑った。


 他のクラスが入浴している間、他の生徒たちは自由時間となる。自由、と言っても、実質的にその日の感想をしおりに記入したり、明日の準備をしたりする時間となっており、騒いでいると監視の教師が怒鳴り込んでくる。天使も粛々と感想を記入してしまう。


 やがて、最後のクラスが入浴を終えたころ、生徒たちは食堂に集まり、夕食を取る。天使は普段、入浴の前に夕食をとるので、不思議な気分になった。クラスメイトが、明日は逆らしいよというので、もっと不思議な気分になった。嫌な交互浴だ。


 夕食は、まさにホテルの食事といったバイキング形式だった。個々の食材は安価だが、揃えば不思議と宝石箱のように思えてくる。天使がサラダとプチトマトを大量に皿に乗せ席に戻ると、周囲の生徒が奇異の目線で見つめてくる。一人が総意を代表するようにつぶやく。


「意外。天使ちゃんって、バイキングで揚げ物とかカレーとか取りまくるタイプだと思ってた」賛同するように何人かのクラスメイトが笑う。


「そ、そんな子供みたいな取り方しないよ! って、カレーどこにあった?」


 否定しつつも、カレーには食いついてしまう天使に、クラスメイトはまた笑う。天使は少しいじけて、いただきますと一人手を合わせて食べ始めた。はいはい、いただきます。そう微笑みながらクラスメイト達も黙々と夕食を取り始めた。


 夕食を終え、少しの休憩の後、一日目のレクリエーションの時間になる。


 合宿では各クラス委員が集まり、実行委員として準備をしていた。レクリエーションの担当は商業科のクラス委員であったため、二組の委員長である天使も詳細は知らない。


 机の片づけられた大広間に、体操着姿の生徒たちが集まると、商業科の委員長が司会を始める。天使は名前を思い出そうと首をひねるも、一向に思い出せそうになかったが、彼は違ったらしく司会をしつつも天使に微笑みを向ける。


 レクリエーションの内容は、簡易な多種目リレーであった。スプーンやコップの裏、人差し指に足の甲といった様々なものの上にピンポン玉を乗せたまま、落とさないように大広間を往復してピンポン玉を運ぶ。落とすかどうかのハラハラや、思わないところで不器用が出るクラスメイトに声にならない悲鳴を上げるなど、白熱した戦いとなった。


 天使は、この時のレクリエーションのことをあまり覚えていない。なんだかんだ二組は勝利した気もするが、実際どうだったかは覚えていない。次の日の朝には忘れていた気もするから、きっとあまり面白くなかったのだろうと勝手に納得して、余計に記憶から薄れていってしまった。



 生徒たちはそれぞれ部屋に戻り、消灯時間になる。座敷に布団を広げ、それぞれ横になった。天使はこういうときに恋愛話が始まったりするのだろうかとドキドキし始めたが、すっかり自分のことは傍観者だと思い込んでいた。


 隣の布団に潜り込んでいたクラスメイトが、頭を寄せて来て天使に囁く。


「天使ちゃんって、好きな人とかいるの? というかもしかして、もう付き合ってたりさ」


 何気なく顔を寄せていた天使は驚いて自分の布団の反対端まで飛び下がる。


「い、いいいいいないよっ!」


 天使のささやき声は、時に普通の発声よりもボリュームが大きい。くすくすと他の同室クラスメイトの笑い声が聞こえる。



「本当に、よく分からないんだ。名前も覚えられないし、誰かを好きになるとか、よく分からないや」



 明るく言おうと努める天使の態度が、むしろ重たく部屋の中に満ちていく。自然と呼吸が止まり、爆弾が破裂するかのような緊張に包まれる。


「逆に、みんなはどうなのさ」


 天使はそんなことを気にしていないように、枕を胸に抱いてうつ伏せになり、五つの布団の中心を向いてそう聞く。のそりと同室の四人も同じように顔を突き合わせる。


「聞きたいんだ?」


 一人が挑発的に笑う。

 その時、廊下の方から見回りの教師が怒鳴るような声が遠く聞こえた。その瞬間、天使の隣の布団の少女が、天使の額にデコピンして悪戯っぽく笑うと布団に隠れた。


「寝~なさいっ」


 1抜け~、と笑って丸まった少女に倣って、他のクラスメイト達も続々と闇に紛れていく。天使は、ずるぅと言ってむすっとした表情のまま、釈然としない気持ちで眠りについた。翌朝起きた天使が、そんなことをきれいさっぱり忘れていたことは言うまでもない。

 一方で、デコピンの少女は、不意に目の前に見えてしまった、天使という少女の揺らぎに、言いようのない不安を抱えたままだった。





 -------------二組副委員長の独白


 特に問題のない朝が来ることが、やけに心を落ち着かせてくれる。けれどむしろ、何も問題が起きないということが、後に起きる問題に向けて、青天井に危険度バロメータが上がり続けているだけなのではと空恐ろしくなる。ともあれ、一日目は上手く対処できたということだろう。多少のイレギュラーもあったが、即興の立ち回りにしては十分な成果だったと言える。いや、慢心はいけない。結果が出るのは今日の夜なのだから。


 問題が起きないようにと思いながら、結局問題が起きるのと同じくらい脳の容量を天使に使っているような気がしている。ちらりと、早朝だというのに元気にラジオ体操を行っている天使を見やる。


 二日目のレクリエーションは、宿のハイキングコースを巡り、自然と触れ合う、だそうだ。レクリエーションとは、と言いたいところだが、定義を持ち出せば間違ってはいないのだから困る。


 加えて、この早朝のラジオ体操だ。生徒全員が宿の駐車場でラジオ体操を行う。一番朝が弱そうな顔をしている学年主任を見て、止めたらいいのにと内心思う。とはいえ、クラス委員の建前、生徒の前でけだるげな姿も見せられない。最低限メリハリのある動きを意識する。体育の授業の中でラジオ体操は好きな方だ。なにしろ全力を出したり、必死になったりする必要がない。ただ粛々と正しい行為をするのは、性分に合っていた。



 とはいえ、私は運動が苦手だ。このレクリエーションで一層その感覚は強くなった。


 クラス委員は生徒たちを先導する役割で、颯爽と山道を行く。私はというと、その軽快な足取りに早くも脱落し、列の中段辺りまで後退していた。ぎりぎり見えるところにいる天使の元気そうな様子が、羨ましくも憎らしい。


 クラスメイトの集団に合流して、痛み始めた脚をなんとか上げながら進んでいると、後列の方から少し騒がしい話し声が聞こえてきた。クラス委員は先導の役割を、と言いつつ後ろは他クラス入り混じった混沌状態で、とても導くと言った様子ではない。先頭の天使が、自然を眺めながら独走しているのだから、やむなしと言ったところだが。


 それにしても、やはりどこにいってもくだらない人間というのはいるものだ。


 -------------





 -------------ある一年二組男子生徒の足跡


 最初は、一日目の海のとき。


「なぁ、お前のクラスに天使がいるってマジ?」


 何とはなしに集まった部活動のグループで、そう肩を組まれた。


「え、ああ……いるけど」


 天使。この学校で最も有名で言われ飽きた噂。自分と同じクラスの少女、愛ヶ崎天使に関する根も葉も倫理観もない噂。別に、噂が嫌いというわけじゃない。例えば、何かのコンテンツのファンが迷惑行為をしたことで、コンテンツ自体を忌避してしまうようなものだ。同じクラスの自分にとって、その質問は言われ飽きた迷惑なもので、天使という少女に非がなくとも、少しばかり嫌いになっても文句は言われまい。


「おいまじかよ!じゃ、じゃあさ、ほら、このページ、これだよ。なにって、部屋だよ部屋、ハンド部の奴らも行くっつってたしよ、俺らも行こうってわけ。な、部屋分かんだろ?同じクラスなんだし」


 少しばかり嫌いになってしまったら、別にこのくらいのこと教えたっていいよな、なんて思考に侵されてしまうのだった。

 とはいえ、どの部屋に誰が泊まっているかなんていちいち覚えていなかった。しおりには自分の班と部屋の番号をメモしている程度で、全員分まとめるほどマメじゃない。


「知らねぇよ部屋とか」


「だからさぁ、聞いて来いって。クラスメイトだろ?」


 遠慮もない下卑た笑顔に、不快感をあおられる。全く気は乗らないが、今後の部活動での立場に支障が出るのもしんどい。おそらくは、この合宿での体験を餌に、先輩に取り入ろうとでも思っているのだろう。


「分かったよ。でも、すぐにはきついからさ、明日——ハイキングレクの時でいいだろ?今日はおとなしくしとけよ」





 勉強会の前、クラスでの数少ない女子の友人に、班分けを尋ねてみる。面倒なので、聞くことになった経緯ごと説明した。説得性を持たせるため、というよりも自分では上手く解決できる気がしないので、対処を丸投げした形になる。


「あー、ちょっと待って」


 そいつは隣の女子とひそひそと話した後、軽くうなずいてから戻ってきた。そして、俺のしおりにいくつかのメモを写した。



 天使:3班→二〇六号室 針瀬:2班→二〇四号室



 俺はそのメモを見て、おかしな点に気が付く。天使の他にも同じ班の生徒の名前を付記してくれたが、記憶違いでなければ班分けが違っている。それは副委員長についてもそうだった。


「いい? 聞かれたら、こう答えるんよ」


 そうすごむクラスメイトに、思わずお、おうと返す。

 まぁ、おかしなところくらい、気づかない方が悪いだろう。



 そして、ハイキングの時がやってきて、俺は列の後ろの方で密談をしていた。


「まじかよ、今日行こうぜ、なぁ?」


 他クラスの男たちが、やけに興奮気味にメモを見せ合い小躍りする。いまいち、そんな情報で喜べる心理は分からなかった。


「つかマジでナイスだわ。針瀬ってあの、副委員長の奴だろ?あいついたら絶対チクられるし、別に見たくねーしな」


 吐き捨てるようにゲスな低い笑う声をくぐもらせたそいつを、俺はどこか冷めた目で見ていた。


 -------------



 ハイキングを終えた生徒たちは、自由時間となりやがて来る夕食の時間までそれぞれの時間を過ごした。


 天使は早々に二日目の感想を書き終えると、同室の生徒たちとトランプをして過ごした。いつの間にか部屋にクラスメイト達が集まっており、ワイワイとした楽しい時間だった。天使は他のクラスに友人がいるわけではないため、特に出かけるような用事もなく、自由時間をひたすらトランプでつぶした。部屋の外では、色んな人が行き交う足音が聞こえていたので、結構みんな移動したりするんだなと天使は思った。


 夕食は昨日と同様のバイキング形式だった。特に変わったこともなく、ただ昨日よりも視線を感じながら、天使は全部の料理を食べようと奮闘する。


 夕食を終えると、一日目同様に入浴時間となる。それぞれ部屋に戻り、割り当てられた時間を待つ。


「天使ちゃん。先入っちゃおうよ」


 天使は同室のクラスメイトに手を引かれて、予定時間よりも少し早く大浴場に向かわされた。すっかり冷めていたが、ハイキングの時にかいた汗がじっとりと匂ってくるようで少し不快だったため、天使は嫌がることもなくついて行った。


 まだ一組の生徒が残っている脱衣室で、ゆっくりと天使は入浴の準備を整える。この大浴場は、大浴場という割に広くない。最高とは言えないが、なるべく体力を回復できればいいな、とそんなことを考えながら、天使は浴室へと入っていった。


 かぽーん、という不思議な音が遠くの方で響いたような感覚と共に、体の芯まで温まった天使は、勉強会で眠くなりすぎないようにぬるめのシャワーで体温を落としてから、脱衣室に戻った。


 髪を乾かし、一通りのスキンケアを終えると、荷物を雑多にまとめる。脱衣室を見回すと天使の他には誰もいなかった。やっぱりみんな結構長風呂だと思いつつ、出口の扉を開けようとすると、思っていたよりも軽くその扉は開いた。


 そして、扉の先には、驚いたようにこちらを見上げる男子生徒たちの姿があった。



 天使は初め、その生徒は男子風呂と女子風呂の場所を間違えたのかと思った。あるいは他の部屋と。しかし、その後ろに連なった他の男子生徒の中には、すでに入浴を済ませたのだろう濡れたままの髪の毛の生徒も見られ、またその人数からしても、部屋をたまたま間違えたということもなさそうだった。


「えっとぉ」


 ここ、女子風呂だけど。なんてとぼけたセリフを言ってどうなるでもない状況だったが、とはいえ、天使はどうするべきかとっさに思い浮かばなかった。究極的には扉を開けたらばったり出会ってしまったというだけのはずで、大声を出して教師を呼んだり、ヒステリックに糾弾したりするべきなのだろうか。どちらにしても、穏便にこの場を切り抜ける術を、天使は持っていなかった。


「ちょっと、何してんの!」


 建物中に響きそうな声に天使が目線を向けると、階下から上がってきていた少女、針瀬が憤ったように距離を詰めながら集まっていた生徒たちをなじる。

 そういえば、と遅れて顔と記憶とがつながり、天使はトランプをしていた集まりに彼女がいなかったことに気が付く。おそらくは今が元々の入浴時間になるのだろう。


「信じられない。先生! ちょっと先生来てください!」


 遅れて階下から強面の体育教師が駆けあがってくる。どうした、と大きな声で息を荒げる教師に、針瀬は淡々と状況を説明する。天使は落ち着いて扉を閉めるついでに、一応脱衣室を覗いてみたが、今日ばかりはずいぶんと長風呂の様だった。


 その後、女子風呂の前に集まっていた男子生徒たちはまとめて教師に連れていかれ、こっぴどく叱られた後、廊下で勉強会の時間まで正座させられたらしい。別に何を見られたわけでもないのだから、そこまでしなくてもと天使は思ったが、そんなことも興味を失うと天使の記憶の彼方へと消えていった。すれ違う生徒たちが口々に噂していても、噂されるのは慣れていたため、気にもとまらなかった。


 一日目同様勉強会が始まり、今回は当たらずに済んだ天使は退屈そうに机に突っ伏して解説を聞き流した。


 そして消灯時間になり、昨日よりも疲労の溜まっていた天使は、何か考えるよりも前に眠りについていた。





 次の日、二日目同様に駐車場でラジオ体操をして、生徒たちは帰りの用意をする。駐車場に再び整列し、五組のクラス委員が感謝の気持ちを伝え、学年団が諸連絡をした後、それぞれのクラスに分かれてバスに乗り込んだ。

 針瀬は、一日目よりはずいぶんと元気になった天使の様子を見て、少しだけ安心した。


「ほうとう作りって、何するんだろうね」


 なんて純真な目で聞く天使に、多分うどんとあんまり変わんないよ、と返して、能天気さに少し救われた気持ちになる。きっとこの少女は、自分に向けられた悪意に気づいてはいないのだろう。あるいは、気づいていても気にしてはいない。


 それが最善の結果なのだと、針瀬は顔には出ないように安堵する。天使はすでに背を向け、座席に向かっていた。




 それから、生徒たちはほうとう作り体験を楽しんだ。


 楽しんだ、というのは少しお世辞のような、誇張表現であり、後から考えると何の時間だったんだろうとほとんどの生徒が思った。だがまぁ、体験中は多くの生徒が楽しんでいたというのも事実だ。生地を練りながら談笑し、やけに陽気なインストラクターの説明に合わせて、作業を進める。聞き覚えのある洋楽のリズムに合わせて、生地をさらにしっかりと練っていく。そうして出来上がった麵と共に、お湯で溶けば簡単にスープが作れる味噌パックを同封してもらった。


 帰りの車内で、二組の担任は唐突に生徒たちの方を向くと、発車前に長々と他クラスの話を持ち出して、車内レクリエーションを提案し始めた。おそらくは、商業科の担任に自慢でもされたのだろう、と生徒たちは冷めた目で見上げた。


「じゃあ、愛ヶ崎。仕切ってくれ」


 とんだ無茶ぶりだったが、天使ならどうにか切り抜けるだろうかと、期待のこもった目線で、立ち上がった天使を見た。

 天使は、どこか元気のない様子で猫背気味に立ち上がると、大きなあくびを一つする。


「えと、ごめんなさい。ちょっと、眠たくて、疲れちゃったので、ゆっくりしたいです」


 そう言い残すと、席に体を落としリュックサックを抱え、顔をうずめてしまった。

 隣席の針瀬は、思わず顔をほころばせる。担任は何か怒鳴ろうと身を乗り出したが、それに興味も無いように、生徒たちは口々に「じゃあ俺もおやすみ~」「私も寝ちゃお」「つっかれたぁ」と誰にともなく宣言して、それぞれ背もたれに体を預けた。


 担任は口をあんぐりと開け、怒る気力もなくなったのか、好きにしろと吐き捨てて席に戻った。


 背を丸めて目を閉じる一年二組の生徒たちは皆、うっすらと笑顔を浮かべていた。台典商高の天使が不意に見せた、無防備なその姿が、何よりも無自覚的な信頼の証に思えた。そんな純真でまっすぐに成長していく天使が、醜い欲望や汚い悪意に負けないように支えていこうという意思を、誰に示し合わせるでもなく、それぞれが共感覚的に受けとり、そっと心に収めたのだった。


 バスは進み始める。一年二組の学校生活はまだ始まったばかりであったが、魅力的で美しくかわいらしい、ひどく迷惑で騒々しく、傲慢なトラブルメーカーである天使という虚像を壊れないようにと、誰もが願っていた。

 当の天使は、誰に気負うこともなく、あどけなくぐっすりと眠っているのだった。


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