第9話 一年二組 その2 オリ合宿前編
一年二組には、天使がいる。それは、台典商業高等学校において爆発的に広まった噂の一つであり、世間のどんな芸能人よりも生徒たちの興味を引いたゴシップだ。事実、嫌味っぽくない美しさと飾らない態度を持つその天使なる生徒は、ほとんどの男子生徒から好意的に思われ、一部では過激なファンクラブが結成されたりもしていた。
その生徒、
当然ながら、天使と仲良くなりたいと思う生徒は多かった。それは純粋な興味というよりも、天使の噂に付随した様々な尾ひれ、願掛け程度の意味しかないであろう根拠のない風説を試そうという好奇心によるものばかりであった。
入学式で鮮烈な注目を浴びた天使の噂は、学校が始まって二週間と経たないうちに学内のトレンドを席巻していた。昼休みは連日、一年二組の教室の周りに生徒たちが大挙し、また放課後においても終礼が終わると、天使を一目見ようと列ができた。
そのブームが一応の落ち着きを見せたのは、天使が昼休みは颯爽と教室を飛び出してどこかのベンチで悠々と昼食をとっていると周知され、放課後に概ねすべての生徒の手を握り、頭を撫で名前を呼んだことによる。とはいえ、それでもなお、天使への興味が冷めやらなかったのは言うまでもない。少数ながら、昼休みや放課後に一年二組の教室を監視することをルーチンとする生徒は学年問わず存在し、初めは澄ました顔で噂を聞いていた生徒も、困りごとや悩み事があれば天使を頼りに来ていた。
これに悩まされたのはもちろん、一年二組のクラスメイト達である。何をするにしても天使の取り巻き(どちらかと言えば金魚のフン)が道を塞ぎ、隙あらば情報を得ようとし、迷惑なこと極まりない。初めこそ天使と同じ教室であることを喜んだ彼ら彼女らであったが、次第に嫌気もさしてくる。だいたい、この少女は容姿が良く人当たりもよく、嘘もつかない上に勉強もできるというだけであって、それ以外の場面では基本的に迷惑な存在なのである。
――いや、まぁ。愛ヶ崎天使が十分にすごい人間であるということは、誰もが承知の上だった。しかし、それなら許せるかと肩を降ろせないほどには、迷惑甚だしいのであった。
とはいえ、天使には悪意がなかった。彼女自身に何か責めるべき部分はなく、彼女の強引で迷惑な行動も、その一つ一つを取ってみれば、リーダーシップや先見性のある行動であり、結果的にはありがたいことが多かった。それを迷惑だと切り捨ててしまうのは、クラスメイト達にとって、自分たちのキャパシティの狭さを露見させるだけのことであり、天使的行為をやめろと注意するのは、自分たちの中にもある天使へのあこがれと興味を棚に上げた、それこそ傲慢で迷惑なことだった。
そんなわけで、本人に直接言うことはできないまま、クラスメイト達の間では、天使へのささやかな鬱憤が積もり、それは次第に凝縮されて爆発しそうだった。簡易的なガス抜きとして、昼休みに天使が出ていった後の教室では、彼女への不満を言い合ったり、むしろ魅力を漏らしたりといった奇妙な時間が発生していた。愛ヶ崎天使という少女が、一対一で接する分にはひどく魅力的で心を惹かれる存在であるために、誰も本心から悪く言うことはできなかったのである。
そんな一年二組で、誰よりも胃が痛い思いをしている生徒がいた。
クラスの副委員長を務める、
針瀬の抱える目下の問題は、もう来週に迫っているオリエンテーション合宿だった。
台典商高では、五月の頭にオリエンテーション合宿と呼ばれる二泊三日の行事が、普通科と商業科の一年生合同で行われる。具体的には、県外の宿泊施設で、登山や文化体験実習(台典商高では伝統的にほうとう作り体験を行うそうだ。なぜ?という疑問には誰も答えられない)によって、クラスメイトだけでなく学年全体での親交を図るのである。当然ながら、合間には勉強に励む時間も用意されているという。
合宿において、クラス委員は点呼のほかに、登山の先導や実習・宿泊施設への挨拶、資料の配布と回収といった仕事が振り分けられることになっていた。しかし、合宿とはいえ基本的には自由な時間の方が多く、自由と言われて愛ヶ崎天使という人間が、じっとしているわけもなく、というよりも放っておかれるわけがない、と針瀬は予感していた。どう考えたって何か問題が起こる。具体的には、消灯後の部屋とか、バスが駐停車するパーキングエリアでとかそう言った局面で。
今のうちにできることなんて、最悪の状況を想像することくらいか、と針瀬は自嘲気味にため息をつく。あんな問題児を抱えてしまったのが運の尽きだと思うしかあるまい。
そうして、合宿当日がやってきた。生徒たちはいつもよりも少し早い、七時三十分に学校に集合し、それぞれバスに乗り込んだ。引率の教師が最後に乗り込んで、八台のバスが台典商高を出発する。
針瀬は座席に小さくうずまりながら、隣に座った天使の様子をちらりと覗き見た。集合の点呼前後は、声をかけてくる生徒たちを軽くいなしながら、ずっと荷物をいじっていたようだった。バスが高速道路の料金所を通過し、窓の外の景色が少しだけ早く流れていくように感じた。天使は自分の荷物が入ったリュックサックを大事そうに抱えて、丸くなったまま眠っているようだった。案外、車酔いのひどいタイプなのだろうか。あるいは、と思案を巡らせたところで、針瀬は想像していたよりも車内が静かであることに気が付く。こうした学内行事では往々にして、馬鹿騒ぎをして怒られるというものだと思っていた。もちろん、自分はそれを疎んで注意する側であったのだが。
通路側に顔を出して、後ろの席に座ったクラスメイト達の様子を覗く。皆一様に軽く顔を落とし、うたた寝をしているか旅のしおりを読んでいるかといったところだった。針瀬は、どこか拍子抜けしたような気持ちで、再び座席に背を預ける。よく考えてみれば、昼休みだって、教師がいない治外法権な環境下であるために、男子はスマホ片手に騒いでいるのであって、一種の監視状態であるバスの車内ではそうはいかない。杞憂だったか、と気負いすぎていた自分に苦笑する。何も起こらないならいいことじゃないか、と安堵しながら、針瀬は小刻みに揺れるバスの振動を感じながら、そっと目を閉じた。
バスが減速しながら緩やかにカーブする重力を、半覚醒状態の意識で感じながら、針瀬は目覚めた。いつの間にか、パーキングエリアに到着していたらしい。バスの先頭に掲示されているデジタル時計を見上げると、時刻は一〇時前だった。しおりでは、途中休憩のためにパーキングエリアに停車すると書かれていた。隣席の少女は、いまだ目覚めずにリュックに顔をうずめている。
やがて、完全にバスが停車すると、担任が席から立ち上がり、十分ほどの休憩をとるという指示を出した。後ろの席から続々と立ち上がる物音が聞こえ、クラスメイト達は降車していった。
その物音に気が付いたのか、天使も眠たげに瞼を開く。針瀬は、その重たく湿った長い睫毛に思わずどきりとする。
「もうパーキングエリアに着いたよ、愛ヶ崎さん。降りるなら、一緒に行こう」
照れ隠し半分、天使がトラブルを起こさないようにという義務感半分でそう声をかけた。
「ううん……私は、大丈夫。もうちょっとだけ、このままで」
そう言って、天使はまたリュックに顔を落とした。針瀬はじれったいその態度にしびれを切らし、制服の裾を引っ張る。
「もう、休憩は一〇分なんだから、さっさと動きなさいよ」
ぐえー、とうめきながらもリュックを離さない天使のもとに、遅れて降車を始めた女子の集団が集まってきた。
「あれ、愛ヶ崎さん降りないの?」
「そだ、あたし達も今からだし、一緒に降りようよ」
「ほらほら早く」
天使はかけられる声が増えたことに気が付き顔を上げたが、再び眠ろうとリュックを強く抱く。しかし、やはり多勢にはかなわず、呆気なくバスの外へと連れ出された。
「えーん、別にそんな急いでないよ~」
降りてからも、ぐじぐじと文句を言う天使に、行っとけ行っとけと女子生徒の一人が笑いながら相槌を打つ。
四人は天使を囲うようにぞろぞろと歩き、バスの車内で凝った肩や首をほぐすように動かしながら、お手洗いへと向かう。ちょうど先に降りていた生徒たちが戻ってくる頃だったようで、男女どちらの入り口にも列はできていなかった。空いている個室に天使を押し込むと、四人は一様に爪をいじったり、意味もなく天井を見上げたりした。
「ねぇー、落ち着かないんだけど」個室の中から天使の声が漏れ出る。
「別に聞き耳立ててるわけじゃないんだから」
一人が言うと、針瀬も思わず吹き出してしまった。
いつの間にかガラガラになった個室にそれぞれ入り、しばらくの後、入り口で再び集合した。バスに戻ろうと歩き出したとき、針瀬は自分たちの方に向けられた視線と、小さな話し声に気が付く。どうやらそれは天使の方を見ているようだった。じっとりとした視線に、針瀬は身の毛がよだつような不快感に包まれる。しかし、当人はげんなりした顔で、すっきりしたぁとつぶやいており、視線には気づいていない様子だった。
ぶつぶつと何かつぶやいていた集団は、何かをお互いに話し合うと、ゆっくりとこちらに近づいてくる。話しかけてくるつもりなのだろう、と針瀬が警戒しながら天使のそばによると、その動きに連動するように、前を歩いていた三人が針瀬と集団の間に移動した。他愛のないこの先の予定を話しながら、自然に集団の進路をさえぎる。かと思うと、彼らに背を向けて、針瀬の方に話題を振ってきた。
「てかさ、ほうとう作り体験ってまじで意味不明だよね」
「あっ、まぁ一応は名産品だし、現地学習ってことなんじゃないかな。なんでほうとうなのかはわかんないけど」
針瀬は一瞬驚いたものの、すぐに会話を繋ぐ。近づいてくる集団には気づいていないかのように、目をそらしながら。
妙にしおらしく歩く天使の背をさすりながら、そのままバスへと乗り込む。集団はもう追ってきてはいないようだった。
天使を席に座らせると、クラスメイト達は何も気にしていないかのように後ろの方へと戻っていく。彼女たちも彼女たちなりに、天使を守ろうとしたのだろうか、と奇妙な感覚を覚える。嫉妬——ではない。自分だけが背負おうとしていた何かを、同じように背負っていると感じた、そう、連帯感のようななにか。
気まぐれだろうか、ととりあえずはそう思っておくことにして、針瀬はまた席に縮こまってしまった天使の代わりに点呼を取る。ここまで落ち込んだ様子の天使を、針瀬は見たことが無かったため、どうやって励ますべきかわからなかった。そもそも励ますが正解なのか優しくするのが良いのかもわからない。不調な様子の天使の姿は、どこか胸が締め付けられるようにも思えたが、それで厄介ごとから解放されるならと、針瀬は、とりあえずは静観しておくことに決めた。
それからまたしばらくバスに揺られ、一日目の昼食ポイントである海岸沿いのパーキングエリアに到着した。しおりによると、日本有数の松林であるらしいが、針瀬はあまり興味が湧かなかった。そもそも高校生の集団を松林に連れてきて何を学習しろというのか。颯爽とバスを降り、海へ向かおうとうずうずしている男子たちを冷ややかな目線で見る。
学年主任による自由時間開始の号令と諸連絡が終わると、生徒たちはそれぞれの集団に分かれて、散り散りになっていく。ここでは昼食の取り方は決められていない。公序良俗に反しない方法で、好きなように。つまりは自由時間というわけだ。
針瀬も一応は見ておこうかと海へ向かう集団の後ろを着いていこうとしたが、一人で松林の方へと抜けていく少女の背を見つけて、思わず後を追う。
「ねえ、愛ヶ崎さん。お昼、一緒に食べない?」
足早な少女にようやく追いつき、声をかけた。
自分でも、なぜそんな誘いをしたのか分からなかった。天使に嫌気がさしていたのは紛れもない事実だったし、彼女が一人でいたところで、そんなことはいつも通りのことで、自分が気にするようなことではないのに。
と、考えたところで、ふとある可能性に思い当たる。
彼女は、愛ヶ崎天使は、
針瀬はずっと、自由に奔放に生きる天使のことを、強かで恵まれた人間なのだと思っていた。事実、針瀬の目にする天使はいつも誰かと共にいたし、部活動や課題のことなどの目的もないときに誰かと話すことの少ない針瀬にとって、それは人気者の姿として映った。
けれど、それは天使がそのようにふるまっていただけなのではないのか。誰もの憧れ、賛美の象徴として存在する、台典商高の七不思議として、彼女が天使を演じていたというだけではなかったのか。
「あ、ああ。大丈夫だよ。針瀬さんは、きっと他に一緒に食べる人がいるんじゃない?」
天使はそう優しく言ったが、針瀬は初めて、彼女が愛想笑いをしていることに気が付いて、胸が締め付けられるような思いになった。そうだ。きっと彼女は困ってなどいないのだ。天使を演じないで済むように、本当に自由でいられるようにそうしているだけなのだろう。天使の自分を見る悲しそうな目に、思わず後ずさってしまいたくなる。ごめんねと言い残して、海へ逃げてしまいたくなる。きっと、そうされることを、彼女は望んでいる。
――だから、これは
ひどく自分勝手で、迷惑で、厄介な一歩を、針瀬は踏み出した。
「そこ、座って食べようよ」
松林の遊歩道の間に設置された、海の見えるベンチを指さして、上手く笑えないままで針瀬はそう言った。天使は目を見開いて、何事か言いたげな様子を飲み込んで、うんと小さくうなずくとベンチに腰掛けた。
静かな松林に、遠くから聞こえる生徒たちのはしゃぐ声と、家から持ってきた捨てられる容器に詰めた弁当を取り出す衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。
誘ったものの、何も切り出せないまま、静かに海を見て卵焼きを口に運ぶ。天使はいつもこんな緊張感を乗り越えて、気楽そうに振舞っていたのだろうか。
「ありがと」
小さく天使はそう呟いた。
針瀬は、なぜだかそんなしおらしい天使の態度がおかしく思えて、小さく笑う。
「何笑ってるんだよぉ」
天使は背を丸めて縮こまりながら、鮮やかに彩られた弁当を口に運んでいる。店の物かとも思ったが、見覚えのある冷凍食品の小物に気づき、それが手作りであることを確認させられた。彼女はきっと母親からも、学校での彼女がそうであるように多くの愛情を受けているのだろう。
「別に?愛ヶ崎さんが弱ってるなんて珍しいと思っただけだよ。体調でも悪いの?」
針瀬がお腹温めるといいわよ、と言うと、天使は針瀬を一瞥し、何を言っているのか分からないと言った風に目を背けた。
「体調が悪いわけじゃなくて、ちょっと気分が乗らないだけっていうか」
心なしか普段よりも低い声で、天使はそう自嘲気味につぶやく。
「……私、迷惑だから、クラスの皆の負担になってるよね。委員長の仕事も、全然できてなくて、先生にも怒られちゃったから」
針瀬は、天使が落ち込んだ顔でそんなことを言うので、驚いて箸を止めてしまった。てっきり彼女は、そんな誹謗中傷や僻みめいた説教など受け慣れているのだとばかり思っていたからだ。そしてなにより、迷惑だから、などという理由で担任(とは限らないが)が天使を叱ったということにも驚いた。確かに、天使は迷惑だ。トラブルメーカーで、お転婆で、傲慢で、自信過剰だ。だが、それは――
「えっ、ちょっと――」
針瀬は、言葉で何か伝える前に、天使の弁当から、松林の影の中でもおいしそうな脂身の照りを見せている豚の生姜焼きをごっそりと掬い取り、口に運んだ。初めは驚いたような表情の天使が、愕然とした、絶望した表情に変わる。てっきり色をなして怒り始めるかと思っていたが、そうしないほど気分が落ち込んでいるらしい。針瀬の口内で適度に焦がされた玉ねぎの甘い香りと濃すぎないたれの塩辛さが混ざり合い、そのすべてを豚肉が包み込んだ。針瀬は気の利いた一言を言うつもりだったが、その前に白米を食べる。ちらりと天使の弁当を覗くと、少しだけ残った生姜焼きを隠すように、天使は右腕をきゅっと胸に寄せた。
「ごめんなさい、おいしそうで、つい」
「そりゃあどうも……美味しかった?」
「どうだろう。もう一口食べないと、分からないかも」
「何言ってるんだか。それなら、良かったよ」
明らかに不機嫌にそう言う天使に、針瀬は尋ねる。
「お弁当、自分で作ってるの?」
「そうだけど」
「愛ヶ崎さん、お昼はいつもお弁当だよね」
「ときどきパンの日もあるけどね」
針瀬はむすっとした表情で、弁当の端に着いた米粒を丁寧に集める天使を見て、敵わないなと素直に感心した。彼女は、強かで恵まれていて、でもそれだけではないのだ。人よりも恵まれた、大きすぎる等身大の中で、さらに大きくなろうと努力している。天使という虚像に、愛ヶ崎天使という偶像を近づけ、到達しようとしているのだ。
「ねぇ、愛ヶ崎さん。私もね、迷惑なやつだって、色んな人から思われているんだよ。ほら、課題の提出とか休み時間とか、結構うるさく言っちゃう方だからさ。私、愛ヶ崎さんみたいに可愛くもないし、コミュニケーションを取るのも得意じゃない。真面目だとか、正義感が強いとか良いようにはいくらだって言えるけど、頭が固くて融通が利かないともよく言われる」
針瀬は、泣き出してどこかへ走り去りたくなるような気恥しい胸中を悟られないように、弁当の中に割り箸を入れ輪ゴムで縛った。パチンと乾いた音が鳴り、使い捨ての弁当パックが輪ゴムできつく締まる。
「ほら、見て愛ヶ崎さん」
針瀬が促した先には、砂浜を騒ぎながら走り回る他クラスの生徒たちの姿があった。浜辺で転んだ生徒は、制服が白い砂まみれになってしまっている。
「みんな、迷惑なんだよ。迷惑をかけあって生きているんだよ。色々文句を言われたり、嫌な気持ちになったり、嫌な気持ちにしてしまったりするけど、そうとしか生きられないんだよ、私たちは。確かに、愛ヶ崎さんは人より何倍も迷惑かもしれないけど、そんな愛ヶ崎さんに、そんな天使ちゃんに、みんな心を惹かれているんだよ」
彼女は、愛ヶ崎天使は、天使ではないただの人間だ。羽もない、
けれど、彼女は天使になれる。そう思わされてしまう。そう願ってしまう。そんな歪んだ恵みを彼女は与えられている。あまりにも傲慢な、大きすぎる役割を彼女は背負わされている。
「だからさ、私たちの迷惑なんて考えないでよ。どうせ、あなたは迷惑なんだから」
だからこそ、彼女が天使を演じるならば、私はそれを、支えなければいけない。彼女が天使でなくなるところなど、見ていられないから。彼方で光り続けられるように、彼女を、不安も悩みもないような天使であり続けさせなければならないのだ。それはひどく迷惑で、傲慢なことかもしれないけれど、彼女が演じる偶像を、私も信じよう。
「言ったなぁ?」
天使は弁当箱をリュックのサイドポケットに無造作にねじ込むと、勢いよく立ち上がった。自信満々に口角を上げ、無遠慮に針瀬に詰め寄ると両頬を掌で撫でまわす。
「ありがと。元気出たよ。えーっと」
「針瀬。いいかげん覚えてよ」
「あああ、そうだ。すぐ教えてくれるから、安心して忘れられるね」
「次忘れたら、承知しないからね」
試すように笑いながら天使を見上げた針瀬に、天使も微笑み返す。もうすっかりと、彼女はいつもの調子に戻ったようだった。
「おー、いたいた。委員長たちだ」
「探したよ~、集合写真撮ろうって先生が言ってたよ」
松林の遊歩道でくつろいでいた二人のもとに、クラスメイト達数名がのんびりとやってきた。
「委員長!ほら、写真撮りに行こうよ!」
天使が心なしか浮かれているような様子で針瀬を呼ぶ。
「だから、委員長はあんたでしょうが……」
針瀬はため息を一つついてから、荷物をまとめて立ち上がる。そして、ベンチのそばに置かれたリュックサックを見つけて、もう一つため息。それからクスリと笑って、針瀬はリュックサックを拾い上げて、天使たちの後を追った。
それから、一年二組は海をバックに集合写真を撮った。どちらかと言えば、合宿は山での活動が主ではないのかと針瀬は思ったが、あえて口にはしなかった。
天使はそのあと、浜辺や遊歩道を歩き回りに行って、出発時刻にげっそりとした顔で帰ってきた。調子の戻った天使を見て、これからのバスはうるさくなるかもしれないと危惧していた針瀬であったが、天使は再びリュックサックを抱えると、顔をうずめてしまった。話を聞くに、歩いて回った先々でお菓子を分けてもらっていたら、食べ過ぎてしまい気分が悪くなったのだという。ずいぶんとまぁ幸せな、あるいは強欲な、と針瀬は思わず笑ってしまった。
発車前の車内で針瀬が笑っていると、後ろの座席の生徒が身を乗り出してくる。
「委員長が笑ってる、珍し」
「なになに、なんかあったの?」
続々と、聞き耳を立てるクラスメイトに、針瀬は天使の事情を伝える。クラスメイト達は、楽しそうに笑ったが、担任のうるさいぞという注意にしおしおと席に戻った。
針瀬は、注意してきた担任を茶化すように指さす斜め後ろのクラスメイトのいじわるな笑顔を見て、案外うるさいのも悪くはないなと思った。なぜかそう思ってしまう自分の心境が不思議だった。
そうして、がたんと揺れてバスは発車する。そうだ、オリエンテーション合宿はまだ始まったばかりなのだ。だけれどなぜか、このクラスなら仲良くやっていけそうだという安心感を、針瀬は覚えていた。
今は静かに車窓を眺める天使の横顔を見て、本当にきれいだなと針瀬は感じた。いつの間にか、天使への悪感情はなくなってしまっていた。
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