第8話 一年二組 その1 クラス委員


 この教室には、天使がいる。そんなことをもしも誰かに話せば、普通の高校生であれば、妄想癖があるのではと疑われたり、怪しい宗教にハマったかと冷ややかな目を向けられたりすることだろう。しかし、本年の台典商業高等学校においては、その文言はある意味合言葉のような、実際には額面通りの意味で使われているのだが、天使という存在に対する確からしさを表すために話されていた。

 それはすなわち、愛ヶ崎天使まながさき てんしという生徒を指す言葉だ。入学試験においては、学年主席の成績であり、入学式では堂々とした態度で代表のあいさつを務めた。当然ながらその名前の特異性が、生徒のみならず教師や保護者といった参列者に衝撃を与えたことは言うまでもない。けれど、生徒たちにとっては、むしろそのことは些末事でしかなかった。


 天使。そう形容することが正しいと思わされてしまう容姿と、凛としたその態度は、さながら新入生が面の良い先輩にコロリと絆されてしまうように、生徒全員にその魅力を伝えた。嫉妬や嫌悪を催させない、優しく柔らかで、それでいて芯の通った振る舞いは、校長の長話に退屈していた生徒たちの目を奪った。

 舞台から降りていく天使の様子を、誰もが目で追った。彼女が着席する、すなわち所属するクラスを確認するために。

 普通科一年二組。それが天使の所属するクラスだ。台典商高には、普通科と商業科の二つの学科が存在している。その名の通り商業に関するあれこれを学び、進学と就職がきれいに二分される商業科と、進学校というほどではないが生徒のほとんどが進学する普通科は、共に全日制であり生徒間の交流も多い。商業高校と言いつつも、実態としては、商業科のノウハウを生かした普通科の学力向上を視野に入れた教育体制であり、偏差値においても例年わずかに普通科の方が高い。また、歴代の生徒会執行部の生徒も、ほとんどが普通科の生徒である。普通科四組、商業科四組の合計八組からなる学年団は、どちらの生徒にも分け隔てなく厳しく、事あるごとに一方の科を引き合いに出してくる。

 そんなわけで、この教室には天使がいる、という言葉は、普通科と商業科を問わず、一年二組を覗きに来た生徒がつぶやくフレーズなのだ。

 ともあれ、例年とカリキュラムに変化があるわけでもなく、天使の存在以外は変わったこともなく、学生生活は進んでいこうとしているのであった。



 そんな一年二組に、一人の少女がいた。


 名を、針瀬福良はりせ ふくら。例にもれず、天使のうわさを耳にし、またその目で観察している生徒である。中学校時代は三年続けて図書委員を務め、そのまじめさが評価され三年時には図書委員長に選ばれた。高校に進学するにあたり、両親の国公立大学進学への強い要望もあり、台典商高へ進学、内申点の確保のためにクラス委員長や生徒会などの活動への参加を考えていた。まじめで正義感が強く、負けず嫌いな性格が裏目に出ることはままあるが、基本的には善良な人間である。自分に対して暴力や怒りの矛先が向けられることを苦手としており、特に緊張した場面では、大きな両目をきゅっと閉じてしまう癖があった。

 そんな針瀬が天使を眺めていた理由は、純粋な興味からであった。

 愛ヶ崎天使とは、どのような人間なのか。ただそれを知りたいと純粋に思わせる魅力が、彼女にはあると思った。



 入学式を終えた生徒たちは、だらだらと教室に戻る。まだ友人関係もあいまいな段階では、生徒同士の交流も薄い。時折聞こえる馬鹿みたいな叫び声は、先に部活動などで知り合っていた男子生徒グループだろう、と針瀬は嘆息する。

 目の前を悠々と歩く天使は、まるで主席としての緊張も、注目されていたことへの恥ずかしさも、孤立した空気への怯えも何もないように、ただ自由であった。その姿が、どうにも針瀬にはまぶしかった。

 やがて、生徒たちが教室に戻りしばらくすると、担任がやってきて軽く自己紹介をする。取るに足らないユーモアのギャグを挟みながら、微妙にトロいテンポ感でイントロダクションは進む。


「それじゃあ、クラス委員を決めていくか」


 半覚醒状態で流し聞きしていた針瀬は、その言葉で我に返る。クラス委員にはぜひとも立候補しなければならない。そのために、この学校に私は来たのだから、と気持ちを震わせる。幸いにも、他のクラスメイト達は一様に視線を落とし、うんざりとした顔だ。これならば対抗馬もいないだろう。針瀬は安心しきって、両手を机に投げ出した。


「んじゃあ、まずは委員長から――」


 そう担任が言い終わる前に、一人の生徒が勢いよく手を上げる。


「はいはい!ボク、委員長やってみたいです!」


 それは、愛ヶ崎天使だった。クラス中の視線が一挙に、その掲げられた右手に集まる。

 針瀬は呆然と、机に投げ出したままの自分の手に視線を落とす。いまだに机の上に転がったままの両手は、しかし悔しがるように、机の端を強く握りしめ震えていた。けれど、手を離せなかった。愛ヶ崎さんよりも私の方が良い、だなんてどうしたって言えそうにも無かった。ただ自信満々に掲げられたその手が、彼方で光る北極星のように、自分の目指す先に存在しているという圧倒的な敗北感をもたらした。


「おーじゃあ、他にやりたい奴いなけりゃ愛ヶ崎で決まりな~」


 至極投げやりな態度で担任はそう投げかける。適当な態度が今はひどく憎たらしい。

 針瀬はもうこの場所から、天使という少女に照らされ醜く影の伸びていく立場から、二度と動けない気がした。進もうとしても、ずるずると適当な教師に、怠慢な生徒たちに足を引っ張られ、彼方の光はずっと遠くへと離れていく。やがてその光が見えなくなった時、私はきっと、別にいいかと自嘲するのだ。結局そんな人生なのだ。

 けれど、嬉しそうに教壇の方へ小走りする天使の背を見ていると、もしかするとこの少女は、この光はどこにも行かないでいるのではないかという気がしてしまうのだった。彼女はずっと遠い場所に進んでいくのだろう。けれどその場所は、いつだって手を伸ばせば届くような、そんな安心感を期待した。

 ならば、一歩でも、醜く泥まみれの一歩でも前に進んでみたいと、針瀬はそう決意した。


「あの、だったら副委員長は私がやってもいいですか?」


 きわめて平静を装って、震える手をまっすぐに挙げる。


「あー、えっと、じゃあ副委員長は、針瀬でいいか?」


 担任がクラス名簿に一度目を落として、きょろきょろとしてから私の名前を口にした。きっと新入生代表だった天使のことは覚えていても、クラス全員のことは覚えていなかったのだろう。他の生徒の反応をうかがうような、他の生徒の立候補を待つような聞き方にも、内心少し腹立たしかった。できることなら鼻を明かしてやりたかったが、そんなスペクタクルは起こりそうにないと、誰よりも自覚していた。

 天使が名簿を覗き込んで名前を黒板に書き写す間に、静かに教壇の方に出ていく。天使は名前を書き終えると、針瀬の方を向いてにっこりと笑った。


「よろしくね」


 天使は天真爛漫に右手を差し出すと、あっと笑って指先に着いたチョークの粉を、スカートで払った。針瀬がぎこちなくほほ笑みながら、その手を取ると、案外優しく握り返される。


「それじゃあ、他の委員も決めてくよ~」


 針瀬は、思っていたように委員長にはなれなかったが、この少女と共になら、ずっと良い経験が詰めそうだと思った。

 思ったのだが……



「え、保健委員誰もやりたくないの!?きっとすっごく楽しいよ。仕事は、えっと、良く知らないけど。じゃあ、そこの君、保健委員ね!えっ、指名はだめ?じゃあどうしよう……」



「選挙管理委員会なんてあるんだ。うわぁ大変そう、とか言っちゃだめか。誰かやりたい人……いない?」



「体育委員になりたい人が五人もいる!ど、どうやって決めよっか。グラウンド出て、五〇メートル走で対決する!?」





「……司会、変わるよ」

 委員が決まった生徒の名前を黒板に黙々と書き写していた針瀬は、さすがに辛抱たまらずにそう天使に持ち掛ける。クラスの他の生徒たちは、ほっとしたように一様に息を吐いた。


「それじゃあ、体育委員に手を挙げた人は、後ろでじゃんけんなり話し合いなりで、解決しておいてください。他にやりたい委員があったら二週目で聞くから、今のうちに他の委員の方がいいなら、先に抜けてください。とりあえず、次、図書委員やりたい人」


 針瀬がてきぱきと進行していく間、天使は特に気を悪くした様子もなく、針瀬の後ろで楽し気に体を揺らし、委員が決まるとうきうきと名簿を覗き込んで、黒板に書き写した。


「すっごーい、委員全部決まったね」


 委員決めが終わると、何の悪意もなさそうに、天使はそう言った。少なくと針瀬にはそう感じられた。


「針瀬さん、司会すっごく上手だね」


「別に、これくらい普通だよ」


 照れ隠しでもなく、むしろ少し後ろ暗い気持ちになって、針瀬は天使から顔を背ける。


「先生、決まりました。先生!」


 いつの間にか椅子に深く腰掛け、居眠りをしていた担任を呼び起こし、二人は席に戻る。針瀬は、また始まった担任の長たらしい話を聞き流しながら、思っていたよりも、人は完璧ではないのだと思い始めていた。




 それから、二人はクラス委員として様々な仕事を押し付けられたり、任されたりした。結局のところ、雑務はほとんど針瀬がする形になったが、厄介ごとや呼びかけ活動などは、天使に任せればいつも期待以上の成果となるため、まあ別にいいかと針瀬は思った。


「針瀬ちゃん、しっかりしていてすごいよね」


 天使は、あるとき、恥ずかしげもなくそんなことを口にした。

 針瀬は、それを褒め言葉として正面から受け止めきれなかった。

 しっかりしている、真面目。そういった言葉は、婉曲的な侮蔑であることがほとんどだった。頭が固く、融通が利かないことを、あたかも褒めているような口調で、そうして揶揄されてきた。それが別に針瀬にとって、トラウマであったとかコンプレックスであったということではない。ただ、それの何が悪いのかが分からなかった。正しさという分かりやすい規範があり、それに従っているだけのことなのに、なぜ馬鹿にされるのだろう。まっとうな邁進が、自由という権利に蕩けた逸脱者に見下される筋合いなど、ない。ただ自分が正しくないように言われることが癪だった。

 針瀬は正直言って、ほんの数週間の学校生活で天使のことを嫌い始めていた。副委員長という立場上、関わり合うことは仕方ないと割り切っていたが、天使の行動はあまりにも奔放で、天使の言動はあまりにも自由だった。


「あなたが――いや、そうでもないと思うよ」


 そんな天使を責めようとして、言葉を飲み込んだ。きっと、言っても伝わらない。言ってしまったら、悪者になるのは私だ。彼女が自由であるのは、仕方がないことで、そのせいでどんな問題があったとしても、私のような弱い人間は我慢しなければならないのだ。

 針瀬は、ふつふつと湧き上がる感情を鎮めるように、歯を食いしばった。自分から伸びる棘が、握りしめた手の中で体も心も傷つけていくような気がした。

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