台典商高編

第7話 キューピッド

 この学校には、天使がいる。


 それは県立台典商業高等学校の名前に由来する七不思議のひとつであった。しかし、こと今年度について、そして向こう三年間においては、街談巷説の域を出るものとなっていた。


 それは、新入生である愛ヶ崎まながざき天使てんしが原因、というよりも、まさに天使その者であったからである。


 幼さの中に妖艶さを秘めた外見と、あどけない笑顔、誰に対しても物怖じしない態度と、それが許されてしまう愛嬌のある仕草で、学園における天使と言う立場を確立してしまった。


 ある教師は、彼女を自己同一性に著しい欠陥があると評し、またある教師は、妄想癖の強い問題児と忌み嫌ったが、成績に問題もなく、天使という自称を除けば素行不良もない優良生徒であったため、クラスメイトや隠れたファンの力添えもあり、誰も天使と言う存在に強く否定をすることはなかった。


 少女は何不自由のない学生生活を送っていた。彼女にとっては、誰もが友達であり、誰もが友達ではない。天使にとって、すべては等しいのである。




「ねぇ、天使ちゃん。お願いがあるんだけど」


 高校生活において、天使は特定の友人グループというものに所属していなかった。部活動や同好会にも、天使としての私生活を優先したいという考えから入るつもりはなかった。


 したがって、彼女は人気者でありながら、孤独な存在であった。


 そんな天使に誰かが話しかけるとするならば、あるいは、天使が誰かに話しかけるならば、それは決まって、問題が起こる前触れなのであった。


「私の、恋のキューピッドになってくれないかな」


「キューピッド?」


 それは、ある春の日の放課後のことであった。


 天使は、人の顔を覚えるのが苦手だったから、その少女が同級生なのか、ともすればクラスメイトなのかということすら分からなかった。しかし、相手がだれかということは特段気になることではなかった。つまるところは、天使である自分を頼っているのである。その事実だけで、天使は百人力というところであった。


 しかし、天使はこの頼みばかりは簡単に承諾しきれないのであった。


「それはいいんだけど、ボク、恋愛のこととかよくわからないんだよね」


 天使は、恋愛に疎い。それは、彼女が人間として、他人に興味を持つことが無かったからであり、また、愛ヶ崎天使という『人間』として、他人から愛されることを、彼女自身が疎んでいたからでもある。


 そんな事情をつゆ知らず、少女は天使の手を握る。


「いいのいいの。天使ちゃんには、お話を聞いて、それを見守っていてほしいだけだから」


 台典商高における、もともとの天使の七不思議は、この学校のどこかには生徒を見守っている大天使が存在し、出会った生徒の願いをなんでもかなえてくれる、というものであった。それが、天使が入学した今では、彼女の外見もあってか、天使の残り香を嗅ぐと運気が上がる、天使に微笑まれるとなんでも上手く行く、天使に触れられた場所は洗わない方がよいといった、一種の宗教じみたものに変貌していた。天使に相談した恋愛は必ず叶う、というのはその一つである。


 そもそも、キューピッドというものはローマ神話の神の名前であり、聖書に登場する天使とは何ら関係のないものであるのだが、現代における両者の認識が、有翼の人型超越存在という点で類似しているため、このような混同が起こっている。というよりも、天使自身の想像している天使像に、少なからずキューピッドの要素が入っていることが、より根本の原因だろう。彼女が恋愛における何かしらの引力を持っている、と思われても仕方がない、のかもしれない。実際のところそれが、今のところ天使が、人気に対して、情事の絡むいざこざに巻き込まれていない理由であるのだ。


「そういうことなら、任せて。あなたの力になってみせるよ」


 天使はいつものように、少女にはにかんで見せた。少女は感激した様子で両手を組むと、祈るように胸に抱いた。


「ありがと。それじゃあ、恋愛成就大作戦開始だ!」




 天使は相談してきた少女、江津えづの言う通り、緊張した様子の少女、襟宮えりみやにいくらかの励ましの言葉をかけ、背中や胸、顔などを順番に触った。襟宮は天使の一挙手一投足を凝視し、彼女の体が触れるたびに深く息を吸った。襟宮の友人であるところの江津を含めた三人しかいないため、襟宮の呼吸と教室の時計の音がやけに大きく聞こえた。


「これって、本当に意味があるの?」


「しっ! しゃべったら、効果半減になるって聞いたから、お願い」


 恋愛成就大作戦と銘打たれ、江津の口から語られたのは、要は学校内でまことしやかにささやかれていた天使の噂の全部盛りであった。とにかく御利益をたくさん授かっておこうという、強欲なのかしたたかなのか分からない見上げた根性だが、少なくとも意味というものに関して言えば、プラシーボ以上の物は見込めそうになかった。


「よし、それじゃあ、あの、あいつを呼ぶから。あ、送信ボタン押してほしい」


「うん。えいっ」


「ああああああ、送っちゃったぁ」


 特に文面も見ず一切の躊躇なく、襟宮のメッセージアプリの送信ボタンを押した天使を見て、それまで作戦の指導以外は静観していた江津が、クスリと笑う。襟宮は、対照的に額に汗を流しながら、せわしなく歩き回っている。


「エリちゃん、とにかく待ち合わせてるところに行った方がいいんじゃない?呼び出しといて遅れていくなんて良くないと思うよ」


「そ、そうね。それじゃあ、行くわね」


 指の先まで伸びきるほど緊張した襟宮は、ロボットのようにぎこちない笑みを浮かべる。天使はこの時ばかりは何も言わず、静かに親指を立てて笑顔を作った。猫背の天使は教室から出ていく襟宮に肩肘を突いたまま優しくウインクをする。襟宮はその一瞬、時が止まったようにすら感じた。


「天使ちゃん、この告白が終わったら、もっといっぱいおしゃべりしたりとか遊んだりとか、いろいろしたいな」


「うん、よろこんで」


 襟宮が出ていき、二人になった教室で江津が苦笑する。


「それ、失敗フラグじゃん」




 ともあれ、校舎の隙間にある小さな憩いの場、立地の関係上日当たりが悪く、昼休みですら閑散としている小ぶりな木のベンチに、襟宮は腰掛けた。少し遅れて彼女の呼びつけた相手がやってくる。


 襟宮は天使よりも身長が高く、足も長いモデルのような体型である。健康的な筋肉とシミ一つない肌は、わざわざ天使に願掛けする必要を感じないほど魅力的だ。バレー部の一年生である彼女は、中学時代からエースとして活躍しており、入部して日の浅い状態ながら、上級生について練習を行っている。と、やはり襟宮について客観的な目線で考えるならば、学校のどんな男子生徒も、もちろん女子生徒でさえも、彼女の告白を断る者などそうはいないと考えられた。


 果たして彼女の呼び出した相手は、取り立てて特徴のない男子生徒だった。身長も男子では高い方ではなく、学力もそこそこ、中学からだらだらと続けているサッカーを高校でも始めているが、ベンチ入りすら叶うかは分からない。容姿についていうならば、それこそ普通である。俳優にもアイドルにも似た顔はいないだろう。百人に聞けば百通りの答えが返ってくる、答えは返ってくる程度の顔。襟宮にとって、それほど緊張する必要もないはずだ。


「って、ずっと言ってるんだけどね。」


 襟宮たちに影を落とす校舎の廊下から、こっそりと様子を眺めながら江津はため息をつく。


「二人さ、幼馴染なんだよ。だから、言いづらいとかなんとか言い訳してて。私的には、そんなもん確定演出でしょ、言っちまえ! って感じだけど、まぁエリちゃん的にも思うところがあるのかなってさ。それで、天使にお願いしたらいけるかな? なんて大真面目な顔で相談してくるから、これは好機かと利用させてもらったってわけ。なんかごめんね、用事とかあったなら」


「ううん、大丈夫だよ。むしろ嬉しいな。誰かに頼ってもらえて、信じてもらえるなんてさ。天使冥利に尽きるって感じだよ。それに、ボク的には恋愛ってものが間近で見られてうれしいんだ。襟宮さん、あの男の子のこと好きなんだよね。どこが好みなんだろうね」


 窓に肘をついて様子を眺める天使に、江津はにやりと笑う。


「天使ちゃん、意外と他人に興味津々なんだ。いや実際あれは幼馴染補正かかってると思うけどね。私には分からんわ」


 江津は、襟宮の狼狽には興味なさげに、スマートフォンをいじり始めた。


「おい、襟宮。何だよ、急に呼び出してきやがって……」


「それは、あんた……その、あれよ」


 襟宮はベンチに腰掛けたまま、何かを言いだそうとしながら目線を泳がせる。太ももの上で遊ばせた手が、何度も交差しては離れる。


 天使は、そんな二人の様子を楽しげに眺めていた。


 紆余曲折在りながらも、お互いに思いを伝えあったり、青春あおはるとでも言うような感情のぶつけ合いをしたりする様がみられるのだろうか、などと楽観的な考えでいた。


「っていうか、俺はお前が、ここに愛ヶ崎まながさきさんがいるって言うから来てやったんだぜ」


 だから、そんな二人の間で突然自分の名前が出されると、聞き間違いかと耳を疑ってしまった。


「それは、言葉の綾でしょ。私に、ちょっと天使ちゃんが手伝ってくれたって話をしただけで……」


 襟宮もまた、少し驚いたように男の方を向いた。


 春のまだ落ち着いた風が耳の横を流れるのに従って、天使は江津の方を振り向く。


「メッセージ、なんて送ったの?」


「んー? まぁ、エリちゃんが誘うだけだと来ないかもだし? ちょろっといい感じにね?」


 天使は、釈然としない気持ちになりながらも、二人のその先を注視することにした。


「手伝うって、何をだよ。つか、それ俺に関係あんの?」


「そりゃあ、あるわよ。だって、その、それは、私が……」


 襟宮は恥ずかしそうに両手を握ると、再びうつむいてしまった。そして、とてもか細い消え入りそうな声でつぶやく。


「私が、あんたに、告白したくて」


「え、は? えっと、それ……」


「あんたが、好きってこと」


「は、はあああああああ!?」


 男の出した驚きの声に、江津も振り向いて二人の様子を見下ろした。


「え、えりみ、お前……お前が、俺を……」


 男が慌てたように周りをきょろきょろと見回す様子を、天使は小動物を見るように愛おしく思った。これが恋ってやつか。なんて勝手に納得したりした。


「う、嘘だねー! どうせ、ドッキリかなんかだろ! 騙されねーからな。俺、お前なんかより全然だし、お前なんか気にしたこともなかったわ!」


 天使は、さすがにそれは嘘だろうと思った。どう考えたって襟宮の方が魅力的だろう。そもそも、この男子生徒とは多分、一切の面識もないはずだ。


 それにしたって、焦らすなぁ。天使は、コメディーショーでも見ているような気持ちで、襟宮たちのオチを待ち望んだ。おそらくは幸せなヤツを。


 しかし、どうにもうまく行かないことはあるらしい。


「は、はああああああ!? あ、あんな子のどこが良いって言うのよ! ちょっと可愛くて愛嬌があるだけじゃない! あんたには無理よ無理!」


「う、うっせえ、そこがいいんだろが! お前みたいな高慢ちきとは違うんだよ」


「だ、誰がぁ! ふん、あんたみたいなバカ、知らないわよ! 二度と話しかけてあげないんだから!」


「はぁーん、こっちだって清々するね。部屋のカーテン閉めとけよな!」


 襟宮は勢いよく立ち上がると、肩をプリプリと揺らしながら速足で去ってしまった。


 天使はその様子を受け止めきれないまま、目を瞬かせながら江津の方に説明を求める。当の江津は、床にうずくまって震えていた。どうやら笑いをこらえているらしい。


「ぷっ、うふ、あははは、馬っ鹿ね、二人とも馬鹿なんだぁ。面白ぉ」


 天使は、しばらくの間、腹を抱えて笑い続ける江津にどう声をかけるべきかわからず立ち尽くしていた。


 窓から吹き抜けた春の風は、すっかり冷え込んでいた。




 それから、襟宮は天使とも口をきいてくれなくなった。


 それに伴って、彼女の取り巻きじみた生徒、おそらくは運動部のサークルなのだろう、も天使と少し距離を置くようになった。とはいえ、天使はそれからも、個別に呼び出されたりしてしばらくは天使という偶像を演じることになった。


 ところで、その後校内で、天使は自分に振られたと吹聴する男子生徒を時々耳にするようになった。天使は、主に女子生徒に、呼び出されて何かしらの儀式的な行為をさせられたりはしたが、下駄箱にラブレターや校舎裏で告白みたいなイベントは、実際のところ天使自身には起こらなかった。起こらなかった、と思う。天使は、あまりその点に自信のないまま一年次を過ごした。


 多分ラブレターは入っていなかったと思う。何か下駄箱に入ったごみを捨てた、あるいは見知らぬ優しい生徒が下駄箱を掃除してくれていた、みたいなことはあったけれど。


 多分告白はされなかったと思う。廊下をスキップしていると、呼び止められた気もしたけれど。何かよく分からない声で、小さな声で、どこのクラスかもわからない誰かに話しかけられて、愛想笑いで流したことはあったかもしれないけれど。


 そういえば、あの男子生徒はその後、江津と付き合ったらしいと天使は誰かから聞いた。


 当の江津は「え、別れた別れた。だってつまんないんだもん笑」とのことで、天使はますます恋愛というものは難しいのだと感じたのだった。

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