第6話 母親と名前と
――これは夢だ。直感的に少女はそう思った。
少女は薄茶色の原稿用紙を両手で掲げ、教室の真ん中で同級生たちの視線を集めている。教師はいつも通りの笑顔で、少女を見つめたまま、少女が掲げた原稿を読むのを待っている。
「私の、名前の由来は――」
意思を離れて、言葉が口から洩れる。これは夢であり、記憶なのだ。最も忌まわしい記憶。どうしたって消せそうもない、
「お母さんが、私のことをたくさん好きになれるように、たくさん好きを集めてつけてくれました」
確か十歳になるときに、小学校でやらされた授業だ。題材は「名前の由来」。
凛ちゃんは、凛とした子に育つようにと。
愛子ちゃんは、たくさん愛されるようにと。
駿くんは、健康でいますようにと。
賢人くんは、頭がよくなりますようにと。
みんな、すごくいい理由で、すごくいい名前を付けてもらったというように自慢していた。
私の発表は最後に回されていて、さぞ良い由来があるんだろうとでも言いたげな視線が、私の全身を貫通した。
自分の名前が嫌いだった。みんなと違うのが嫌だった。私は私だと主張できる何かが欲しかった。
自分の名前を書くとき、読み上げなければならないとき、いつも違う誰かの人生を追想しているような気持ちになるのだった。
「だからって、
私が発表している途中で、誰か男子がぼそりとつぶやいた。その一言は、導火線に火をつけたように教室をしんと静まらせて、直後、文字通り爆発させた。無遠慮な笑い声が四方八方から聞こえてくる。堪えるような笑い声も噴き出すような笑い声も、すべて私の方に飛んで来た。
たまらず私は泣き出した。馬鹿にされたことが嫌だったというよりも、こんな名前で生きていくしかない自分が、たまらなく情けなかったのだ。
その時、自分の心から、大きな羽を広げて天使が飛び去ってしまった気がした。
振り向かずに、遠くへ、遠くへと飛んでいくその背に、涙を流したまま私は手を伸ばす。今でも、その背を焦がれる。その大きな羽の跡が、今でも私の心にぽっかりと空いているから。
この町には、天使がいる。
それは、この
しかし、町の誰もが、天使などはいないと分かっていた。それは、天使のような誰か、なのであると。だからこそ、実際に天使に会ったと語る人々は、口をそろえて「天使と会った」と断言するのだった。まるで、その誰かが恣意的に被った、天使というペルソナを尊重するように。
そんな町に、一軒の家があった。
取り立てて裕福というわけでもない、それなりの大きさの家。昨今の社会における、生活の不安定さを鑑みれば、十分に恵まれていると言える家庭だ。一人の少女と、その母親の二人が住む家の庭は、よく手入れがされており、母親のマメな性格がうかがえる。
そんな家に、一人の少女が帰宅する。世間は春休みムードだが、少女は高校に入学する準備であちこちを移動していた。そう遠くない高校だったが、母親を説得して一人暮らしが始まることになったのだ。
少女はけだるげに玄関の扉を開く。靴を脱いで、自室に向かおうとしたとき、玄関のベルが鳴らされた。
間の悪いことだと内心思いながら、少女は再び玄関を抜け、庭先まで戻る。
「どうも、
少女はすぐに取り出せるところに入れていた判子を取り出し、サインの代わりに押印する。郵便の受け取りは正直この方が速いので、いつもサインはしないようにしていた。受験の時も、名前だけで五分は損をしたと思っている。
「あざまーす」
砕けた口調で礼を言って、配達員が去っていく。少女はこれから母に切り出す話を考え、不安げに肩を落とした。
事の始まりは、三日前のことだ。
その日はたまたま用事がなく、少女は家で惰眠をむさぼっていた。これまでであれば、街に繰り出し、面白いものは無いかと闊歩したものだが、さしもの少女も疲労困憊の様子であった。
そんな午前中のことだ。少女の家の固定電話が、着信を知らせる電子音を響かせた。
少女は友人が少なく、家に電話をかけてくるような関係性ともなれば皆無であった。そのため、母の知り合いか懲りない電気料金の営業か何かだろうと思い、寝返りを打った。
しばらくして、うとうととベッドで横になっていた少女の聴覚が、二階へと上がってくる足音を捉える。間違いなく自分の部屋に来るだろうと思い、少し身がこわばる。ほどなくして、予想通り部屋をノックされた。
「
しぶしぶ起き上がった少女は、不愛想に扉を開けた。
「高校、なんて? やっぱり落ちてました、とか?」
母親は大げさに手ぶりをして、もぉー違うわよ、と笑う。
「それが、由紀ちゃん受験の成績が良かったから、代表の言葉をお願いしたいって」
「は? え、代表って、もしかして入学式の? まさか、勝手に引き受けたの?」
そうそう頑張ってね、とのんきに一階へと降りていく母を、少女は呆然と眺めていた。
しばらくの間、少女は自室で一人、ぼんやりと壁を眺めていた。
すっかりと入学式というものの存在を忘れていた。いや、正確に言えば、入学式という行事がいかなるものかということを失念していた。
少女は、自分の名前が嫌いだった。だから少女は、天使とだけ名乗り、偽善的な慈愛を振りまいていた。
入学式とは、生徒一人一人の
「……どうしよう」
そして時間が経ち、少女は対策を思いつかないまま市役所にやってきていた。目的は、住所変更の手続きのためである。台典市の市役所は、人口に対して混んでいることが多い。まして、新学期の季節である現在ではなおのことであった。
整理券を手にした少女は、手持ち無沙汰に市役所を歩き回る。ここにいる人たちは、皆何かの目的があって来ているのだ。そう考えると、生活の息遣いが聞こえてくるようで、少女はワクワクし始める。
様々な人々を見て回っていた少女の目に、ある部署の掲示が留まる。そこは戸籍課と書かれた場所だった。
「戸籍、か」
少女はふとした興味で窓口に近づいた。職員が気にするように顔を上げる。
「何か、御用でしょうか」
「あ、えと。その、戸籍って、名前を変えることってできたり、しますか?」
少女がそう言うと、職員は驚いたように目をぱちくりさせた。しかし、すぐに辺りの資料を手に取ると、少女の方に向き直った。
「ええと、名の変更ですかね。その場合、市役所ではなく、家庭裁判所に申し立てをする必要があります。必要書類は――」
少女はなかば思い付きで言った言葉が、現実味を帯びて形になっていくことに驚きと緊張感を覚えた。名前を変えることができる。それは願ってもないことだったが、一方で、それは自分の名前を付けてくれた母親に対する罪悪感もまた想起させた。
「と、このような手続きになるのですが、大丈夫ですか?」
職員の説明に相槌を打ち、少女は書類を受け取った。住所変更の手続きを終えた後、その足で少女は家庭裁判所へと赴き、名の変更申立書を提出した。気の抜けるほど、あっさりとした時間だった。
と、人生を振り返るならかなり大きなマイルストーンとなる決断をした今日の振り返りをしてみたが、とはいえ気は重いままだった。
リビングで思いつめたようにうつむいてソファに座る少女の背に、誰かが帰ってきた物音が聞こえる。
「
自分の名前が
小学校に上がって、持ち物シールに名前を書くとき、先生に
愛ヶ崎
なんだそれ、とももう思えない。それが私の名前であるという事実は変わらなくて、それを笑い飛ばしてしまえないくらい現実的な重みがあった。
それでも、どうにかなるだろうと思っていた。名前が何だ。ちょろっと人より長いだけ。皇帝(カイザー)くんも、王女(プリンセス)ちゃんもきっと元気に生きているのだから、私だって大丈夫。そう、あの日までは思っていた。
名前をみんなに笑われた日。私の元から、天使が飛び去った日。
誰かが苦しみに耐えていることが、私も苦しみに耐えなければならない理由になんてならないのに。
母は
時折、現実逃避をするように、子供の名前の付け方にルールがないのかと調べてみることがある。常用の漢字で、一文字以上。ふざけるな。上限も用意しておいてほしかった。
そもそも取り上げた医者も名前を聞いた誰かも、戸籍に登録した職員もおかしいと思う。誰か一人でも、子供の名前をそんなのにしない方がいいですよと提言すればよかったのに。
なんて考えるたびに、母の困ったような笑みが頭に浮かぶ。きっとそれでも変わらなかったのだろうと、そう思わされてしまう。
父は、私が生まれるのを待たずに亡くなったのだと聞いた。その話になると母は「あの人の名前も入れたかったのだけど」と怖いことを言うので、あまり聞かないことにしている。名前に入っていなかろうと、呼ばれては困るからだ。父の写真を見ると、確かに自分の父だという面影を感じさせられる。
母子家庭で困ったことはあまりなかった。困らせることのないようにと、できることはやるようにした。アルバイトなんかはできなかったけれど、助けた人がお礼に野菜をくれたりすることもあった。そうした日常の起伏が、母を喜ばせることになっていたのだろうかと思うことも、一人暮らしを渋っていた理由の一つだった。
中学校の間は、クラスにあまりなじめなかった。いじめられることこそ無かったが、特別に誰かと仲良くなることもなかった。些細なことで壊れてしまいそうな緊張感、薄氷の上でスケートをするように、上手く荒事を起こさないようにと過ごしてきた。
だが、それももうすぐに終わる。あの日手を伸ばした天使の背に、追いつく日が来る。
夕食を終え、食器を片付ける少女に、母親が優しく話しかける。
「ねぇ、華ちゃん。何か、お話があるんじゃない?」
ぴくりと手を止めた少女に、母親はくすりと笑う。
「やぁねえ、怒りたいわけじゃないのよ。ただ、いつもより思いつめているみたいな顔なんだもの。何かあったの?」
少女は、小さくうなずいた。
「あのね、私、名前を変えたいの」
少女は静かに固唾を飲み込んだ。さりげなく伝えたものの、自分の胸の動悸が激しい。食器を棚にしまうと、陶器の触れ合う音がやけに甲高く鳴った気がした。
「名前って……華ちゃん、どういう」
「私、
それは、今までのどんな名乗りよりも胸を締め付けた。自分が自分でなくなっていくように感じられた。あの日の、少女の心から、天使が飛び去った日のように。
「そう、そうなのね。
母親は、悲し気に、しかしどこか嬉し気に、そう呟いた。
「少しだけ、お話したいことがあるの。お父さんの話」
母親はそう言うと、天使にリビングで少し待つようにと促した。
しばらくして、母親は一冊の手帳を持ってきた。母親は天使の横に座ると、その手帳を開いて、いくつかのページを見せた。そこには、走り書きの文字が何重にも丸で囲まれたり、二重線で取り消されたりしていた。
「これって、名前?」
少女は、二文字だったり三文字だったりするその走り書きの文字を見て、そう聞いた。由紀という二文字が、強く丸で強調されていた。
「そうよ。お父さんがね、生まれてくる子の名前は何がいいかなって、必死に考えてくれていたの。たくさん考えて、でも選びきれないわって言ったら、あの人、そうしたらまた産めばいいじゃないかなんて言うのよ。本当に困った人よね」
母親は、手帳を見ているはずなのに、ずっと遠い景色を見るように胡乱な目を瞬かせた。
「結局、あなたが生まれる前に、あの人はいなくなってしまった。
あなたの名前も絞りきる前に、私たちを残してずっと遠いところに。もうあの人との子供はあなた以外に産むことはできなくなってしまって、だけど、あの人と話した未来は、私たちの子どもがいなくなるなんて考えられなかったの。
由紀も、悠莉も、華も、桜子も、日向も、
少女は、見たこともない、会ったこともない、この世界に生まれることのなかった姉妹が自分を囲んでいるように思った。彼女たちは、皆一様に少女を見つめている。ズルいとでもいうように。生きて自由に過ごそうとする少女を責めるように。
「——天使は、」
少女はつぶやく。
「天使は、どこから来たの?」
少女が目を落としている手帳には、彼女の名前となった五つの名前に、強調するように囲いがされていたが、そのどこにも天使という文字はなかった。
「天使は、
母親は、少女の目を見つめて、優しくそう言った。
「あなたが生まれて、初めてこの胸に抱きとめたとき、本当に天使だと思った。この子は、私の天使だって。だから、あなたの名前に天使と入れたの」
「そう、なんだ」
少女は、そっと手帳を閉じて、テーブルの上に置いた。
「怒ってないの? 私が、名前を変えたいって言ったこと」
少女は、目を合わせずにそう母親に聞いた。
「あなたが、自分で考えて、自分で選んだことだもの。きっとそれがあなたにふさわしい名前なのよ。私たちの願いはいつだって一つだけ。あなたが幸せに生きてくれること。それだけでいいのよ」
リビングの壁掛け時計は、いつもよりゆっくりと時を刻んでいるように、少女には感じられた。自分を見つめていた少女たちは、どこかへ消えてしまったようだった。それが、とても不安だった。自分が一人になってしまうことが、とても不安だった。一人でどうやって歩けばいいのかわからなくなってしまいそうだった。
だけれど、それがとても幸せなことだと、少女は思ったのだった。
それから、学校にも連絡しなきゃね、という母親の言葉に、少女は慌てて連絡を始めた。
少女が想定していたよりもあっさりと、名の変更申し立ては受理された。後に聞いた話では、改名後の名前も社会通念上の正しさに則っているのかと疑問を持たれたが、市内出身の職員が少女の名を通名として認めたということだった。
「それじゃあ、行ってくるね」
引っ越しの日、意外なことに、母親はまるで学校に行く子を送るような気軽さで、天使を見送った。天使はてっきり、大泣きして引き留めるのだと思っていた。少しだけ寂しいような、誇らしいような気持ちで、天使は生家を後にした。
天使の心には、それは大きな空洞が空いている。誰もいなくなったその心で、誰でもない少女はただ一人、自由に生きていく。その背に羽はなくとも、その頭に光輪はなくとも、少女は天使として生きていくと決めたのだから。
それから、天使はもう一つだけ入学式という場において忘れていたことがあった。
「ええと、愛ヶ崎天使さんで、間違いないでしょうか?」
猫背の女子生徒がたずねる。
「え、あ、はい。そ、そうです!」
天使は、大勢の人前というものが大の苦手なのであった。一対一の対話であれば、どんな人間であろうと話して見せる自信こそあったが、大勢の目を意識すると、途端に内気な面が自己防衛を始め、体を動かせなくなってしまう。
「明日はよろしく」
運動部なのだろうか、浅黒く肌の焼けた男子生徒に手を差し出され、天使はきっちりと握り返した。男子生徒の据えた瞳は、厳格というよりも、冷めた印象を与えられた。
「えっと、その」
「どうした? 文もよくできてる。何か不安ことでもあるのか」
「わ、私なんかで本当に良かったのかなって、思ってしまって」
男子生徒は、そんな天使の様子を軽く鼻で笑った。
「な、なんで笑うんですか」
「大舞台で話すコツは、漠然と大勢に話すんじゃなくて、自分が今そこで聞いている一人一人に話しているんだという意識を持つことだ。それだけで気持ちがかなり楽になる、と思うぞ」
それだけ言うと、男子生徒は他の準備をしている生徒たちの方へと去って行ってしまった。
「
「あ、悪魔先輩?」
天使が驚いて聞き返すと、猫背の女子生徒は丸眼鏡をクイと押し上げると、懐から入学式の式次第を取り出した。
「ああ、新入生ならまだ知らないですよね。あの人は、この学校の生徒会長を務めている、
天使は自分の名前がばっちりと記載されていることに、嬉し恥ずかしと言ったところで、全く見ていなかった生徒会長の名前を反芻した。
「悪魔、先輩。ふふふ」
なんと、なんと素敵な先輩なのだろう。出会うべくして出会ったようにすら思えてしまう。天使は、入学式を始める前に、高校生活における目標を見つけたのだった。
「あんな先輩に、私もなりたい、です」
「そうですか。まぁ、とりあえずは代表の言葉をきっちりやるところからですね」
猫背の女子生徒の言葉に、天使はそうだったと手汗をかく。
しかし、そんな天使の不安そうな顔は、どこか楽しそうでもあった。
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