第5話 けじめと天使
この町には、天使がいる。
そんな町に一人の少女がいた。
人々から好かれる天使の名を拝借する自信と無謀の権化のような存在。天使という名を冠させる傲慢を通す、不遜な母親の血を確かに継いでいる、無邪気で残酷で優しい少女。正しい人間の倫理観を身に着けきれていない彼女の存在は、確かに天使という語の方がよく表しているのかもしれない。
とはいえ、人の子は人なのであって、天使も人並みの浮き沈みはある。
高校受験は天使にとっても重要なことであったし、それ以上に天使自身が、アイデンティティを顧みる必要性に迫られていると感じていた。天使とは何なのかをはっきり決めなければ、自分の中の天使がどこかへ飛び去って帰ってこなくなる気がしていた。
すっかり街路樹の葉も落ち、年を告げる鐘も幾度となく鳴らされた。それでも少女は悩み続けていた。母親はそんな娘の様子を心配したが、受験期の学生が部屋にこもるというのも、様々なストレスに悩まされるというのも仕方がないことか、と口を出すことはなかった。
冬にしては暖かい、それでもマフラーから白い息がこぼれる夜のことだ。天使は街灯がまばらに照らす公園を一人帰っていた。
第一志望である台典商業高校に進学した場合、天使は一人暮らしをすることを親と約束した。そのために部屋の内見に赴いたものの、時間を忘れあちこち回っているうちに遅くなってしまったのであった。
公園には静謐な夜の空気が満ちていた。天使は深く息を吸って、その澄んだ空気を取り込んだ。息を吐きながら肩の力を抜くと、凝り固まっていた疲れが楽になった気がした。
思えば、こうして気を楽にして一人で歩くのも久しぶりだった。最近は学校が終わると足早に教室を後にして、寄り道もせずに家に帰っていた。それは作業のようなもので、何か考え事をしたりすることもなかった。苦痛だと感じることもなかったが、何もない日々が過ぎていくことは天使にとって退屈で、焦燥感に背を焼かれるようだった。
「このまま家に着かなかったらいいのに」
薄暗い公園をゆっくりと歩く。昼間よりも大きく見える暗い木々は、静かに風の音を通した。天使には、そうした何もない道のりというものが、かけがえのない幸せであった。
ふと、踏み出した一歩が柔らかな、しかしどうにも質量のある何かを踏みつけた。
「おふっ」
「え?」
天使が足元を見下ろすと、そこには全裸の中年男性が横たわっていた。幸運なことに、暗がりで本当に全裸かどうかは分からなかったが、少なくともまともな服は着ていないようだった。
本能的に動いた手が鞄を探り、スマートフォンを取り出す。しかし、画面は何度ボタンを押しても反応しない。充電切れの様だった。
「最悪」
少女は嫌悪感を露わにして、男を見下した。踏みつけてしまった形だが、謝ろうという気は毛頭なかった。それは、暗がりに光る男の目が、恍惚とした表情で少女を見ていたからだった。
「いい目だねぇ、
男は脂肪のたまった顔をぶるぶると揺らしながら口を動かした。少女は戦慄する。
男に呼ばれた名は、これまで誰にどんなふうに呼ばれた名よりもおぞましく、気持ちの悪いものだった。巨大な舌に舐められたようなひどく不快な寒気が背筋を上った。
「日向じゃ、ない!」
少女は両手を力強く握りしめると、再度男の腹部を踏みつけた。
考えても見れば、全裸の男と自分とでは社会的な信用度がまるで違うのだ。例え誰かに見つかったとしても、男の立場が弱くなるのは明白である。この男を多少どうこうしたところで、咎められることもないだろう。こんなにも不快にさせられたのだから。
「おおん、ふうぅ……」
男の口から漏れ出した息が、汚らしく空気を湿らすように感じた。
この男は喜んでいるのか?と、少女は疑問に思う。少女にとって、人を踏みつけるという行為は、およそ非現実的なものであり、その中でもとりわけ侮蔑的な意味を持つと認識していた。したがって、腹を踏みつけられている男は、今頃無下に扱われることに悔しさを感じ、絶対的な社会的地位の違いに歯を食いしばっているはずなのだ。
「ねぇ……もっとぉ」
ところが、どうだ。この奇怪な生命体は、腹を蹴ろうが足を踏もうが、ニタニタと粘着質なよだれを垂らしながら、幼児のように体をくねらせ刺激を欲しがっているではないか。
少女は、注視しなければ、男の全身が際どい少年漫画のワンシーンくらいの露出に抑えられるこの状況を本当に幸運だと思った。
「日向ぁ、ほら、ここだよぉ。ここをもっと」
男の手が、下腹部を覆う夜闇と同化する。むくりとその暗闇の境界線から起き上がろうとする何かから目を背けるために、少女は強く男を蹴りつけた。
「日向じゃ、ない!!」
しかし困った。少女は、あまりにも不快であるその全裸男性にどうにか鬱憤の清算をさせるために攻撃をしていたが、どうにもキリがない。というよりも、この男は初めからその目的で深夜の公園に寝そべっていたと思われる。思いたくはないことであるが。
一方で、現在の自分が攻めて男が悶えるという構図が崩れてしまった場合。いくら社会的に信用もない、服も着ていない男とはいえ、起き上がって向かってこられては敵わない。以前は天使として迷える人々に手を差し伸べてきた少女だったが、今は羽を休め勉学に悪態をつく模範的な中学生でしかないのだ。
「あぁ、いいよぉ。日向はまるで、
少女は、男がそう言い終わる前に、その頬を蹴り飛ばした自分に驚いた。
それは、少なくとも天使としては最低の行為だった。どんな人間であれ、自分を求めている相手を撥ねつけ、見下し、嫌った。しかし、それでも、天使じゃない、とは言えなかった。
少女は先ほどよりもすさまじい嫌悪感が過ぎ去っていくのを感じた。
天使になるとは、こういうことなのか。救いようもないような、おぞましく汚らしい相手にも向かい合わなければならないようなものなのか。下卑た目で肢体を舐られることを、あさましく醜い手で羽をむしられることを耐えなければならないものなのか。
否。私にとって、天使とは希望でも救いでもないのだ。
少女は、無心で男を蹴りつけていた足を止め、深く息を吐いた。荒く熱い吐息が、小刻みにしたから聞こえてくる。
「さよなら、もう二度と会うことはないね」
天使は、男の腹を跨ぎ越え、唖然とした表情に向けてそう言い残した。そして、その静寂に溶け込むように、そっと離れた。男は口をパクパクと動かしながら、起き上がることもせず、次を待つように寝転がったままだった。
天使は天使のままで、胸の内にわだかまる嫌悪感と向かい合った。不快だ。不愉快だ。きっとこの感情はしばらく自分を苦しめるのだろう。だけど、私は、天使は、そう感じたっていいのだ。私にとって天使とは、私自身に他ならないのだから。
天使は心の中に鬱屈としていた悩みが、ようやく重い荷物となって、実体をもったそれを背負うことができた気がした。
公園の出口で、天使の視線と懐中電灯の光が交錯する。天使は見回りをしていた警官に、不審者の情報を伝えた。早く帰るようにと少し叱られて、天使は元気よく帰り道を歩き出す。そのくらいわがままに、能天気に、気楽に生きてみようと思えた。
それから、天使のもとに男が逮捕されたという情報は入ってこなかった。
それは、不審者など日常茶飯事だということかもしれないし、あの変態は常習犯であって警官の見回りくらい難なくかわしてしまったのかもしれなかった。しかし、もし次で会うことがあったとしても、その時は迷いなく目を潰すところから始めようと天使は考えていた。あるいは秘伝のクンフーで一撃KOなんてのも。
ともかく、天使はそれから吹っ切れたように受験に集中した。
とはいえ、天使は勉強に難を抱えたことなどなかったため、集中したというのは主に、自分の満足のいく受験生生活に、ということであった。その甲斐あって、天使は第一志望の高校に進学することになる。天使という生き方について、自分の中でけじめをつけた少女だったが、まだまだその道のりには困難が多いと、そう予感していた。
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