第4話 衝動と天使

 この町には、天使がいる。


 台典だいてん市に住む誰もが知っていて、誰もが信じていない噂だ。


 そもそも、天使とは何なのだろうか。ある人は、迷える人に道を指し示す慈愛の存在だと言った。またある人は、追い詰められた人間を天国へ連れていく無機質な存在だと言った。またある人は、決して思い通りにできない奔放な輝きを持つ存在だと言った。そのどれもに共通することは、天使が救いを与える存在だと捉えられているということだ。


 そんな町に、一人の少女がいた。


 自分を天使と呼称し、ありったけの自信と虚勢を以て天使を演じる少女である。齢一五にして、物怖じせず、人を助けることを何よりの使命と重んじる。


 少女は、その名に天使という語が含まれていたから、天使と自称した。


 台典市の天使の噂と自分を同一視することで、子供がヒーローやプリンセスに憧れるように、弱い自分を乗り越えようとしていた。


 けれど、人はいつまでも同じ夢を見ることはできない。才能があればこそ、努力を重ねればこそ、夢はいつか天上から降ろされ踏み荒らされることになる。夢を存分に味わった後、人が感じるのは虚無だ。夢をなくした人生に意味などないのだから。


 ところで、天使にはそのような不安はなかった。その少女にとって、天使は夢などではなく、当たり前に自分のことであったからである。少女にとって、夢を踏み荒らし他人をいたずらに惑わせるようなことは、生き方そのものであって到達点ではなかった。あるいは、それが少女そのものであるとするならば、彼女は夢というものを持ち合わせていなかった。


 つまるところ、少女が天使としてあることができたのは、その身体や性格における天賦の才によるもの以上に、彼女が無知であったためといえる。無知であるがゆえに、何の不安もない。無知であるがゆえに恥じない。善悪の判断もつかない少女であるからこそ、好きなことをしていられたのだ。


 天使は美しく、誰もがそれを尊んだ。だからこそ、天使は美しいまま育ってしまった。天使は正しいのだと、誰も彼も救うことができるのだという強固な妄信が育ってしまっていた。


 天使はやがて地上に降り立つ。そして気が付くことになる。天使が空を飛べるのは、人々がそう願うからなのだと。救いとは、光明だけを言うのではないということを。





 天使は、いつも通り放課後に散歩をしていた。秋口に入って、気温もかなり冷え込む日が増えた。お気に入りの道を、お気に入りの運動靴で歩く。見慣れた山々の風景も、紅葉すればまた違った情緒を起こさせる。何度も通るから顔見知りになった交番の老警官と手を振り合う。交番の前には、すでに少しばかりの落ち葉が散乱していた。


 紅葉の時期になると、真っ赤なトンネルのようになるその公園は、この時期の天使の行きつけだった。今はまだ青い葉が目立ち、天使の他には誰もいなかったが、むしろその静けさが天使には好ましかった。

 少し冷たい公園の空気を吸いながら、天使はだんだんと速足になり、弾むように体を揺らして進む。くるりと一回転して、誰もいない公園をスキップした。


 やがて、公園の反対側に着こうかという時だった。


 一人の人間が立っていた。フードをかぶっており、うつむいたその表情は見えない。ただ、前方の天使に気が付くと、ほんの少しだけ顔を上げたような気がした。


「こんにちは、お散歩ですか?」


 軽く上がった息のまま、天使は笑顔でそう尋ねる。フードの何某は、ゆっくりと顔を上げ焦点の合わない瞳で、天使に穴をあけるかのように見つめた。


はなァ!!」


 その男が名前を呼んでいるのだ、と思ったのは、使からであり、その男が自分を呼んでいるのではないと思ったのは、母でも天使をそう呼ぶときはと言っていいからだった。


 誰かと、勘違いされている。普段ならば、ボクは天使だよとかその人を探しているのとか言うところだったが、男の狂気的な姿や行動に、天使は歩み寄ることができなかった。


「ボクは、華じゃ、ないよ」


 言ってから気づく。男の右手には、天使の家の出刃包丁よりも大きく、よく砥がれて光る刃のついた鉈が握られていた。刃や柄の至る所に、冷たく凝固した血液がこびりついている。


「ひ――」


 天使は思わず後ずさる。一歩、また一歩と後ろに踏み出し、足が止まった。逃げてどうなるというのだ。


 この公園には誰もいない。あるいは、もう何人か殺されてしまった後で、自分が最後なのかもしれない。少なくとも、公園を出て五分は走らなければ交番にも着かないし、そもそも天使の健脚を以てしても、眼前の男に公園を抜けるまで追いつかれない自信はなかった。


「華、嘘つくなよぉ。逃げるなよぉ。俺だよ。ゆうすけだよぉ」


 天使は男がにじり寄ってくるのに合わせて、距離が詰められないように後ろに下がる。今走り出したら、確実に捕まってしまうだろう。どうにか隙を作る必要がある。隙さえあれば、あるいは。


 それにしても、と天使は思う。華、ゆうすけ。天使にとって、その二人は全くの見知らぬ人物であり、どこにいる誰かなんてことは知ることもないのかもしれないが、彼らにも愛してくれる親というものがいたのではないのだろうか。いたからこそ、優しいと書くのか雄々しいと書くのかは知らないが、ゆうすけという良い名前を付けてもらったのではないのか。それがなぜ、このような凶行に至るまで陥ってしまったのであろうか。


 そこまで考えて、天使は弱気に震えていた足を止め、深呼吸をする。胸を張り、確かに男を見据える。


 手ならあるじゃないか。私には、天使には、隙を作る手も、彼がどんな事情を抱えているのかを知るもある。あるはずだ。


 無理やりにでも笑顔を作り直し、天使は男と相対する。


「どうしたの、ゆうすけ。怖い顔しないでよ」


 試すように男を覗き込む天使の影が、後ろに長く伸びていく。逆光に照らされた男がにじり寄る。言葉はなかったが、確かに通じたと天使は感じた。


「やっぱり、華なんだね。ようやく見つけた」


 男は天使のすぐ目の前まで来たところで、そう言った。天使の顔を胡乱な瞳で見つめているが、まるで焦点が合っていない。


 じゃり、と男の靴が公園のアスファルトを踏みしめる音が聞こえた。


 次の瞬間には、天使は男に組み伏され地面に倒れこんでいた。言葉が通じたとぬか喜びしていた天使は、突然の衝撃になすすべなく流されてしまう。天使の体に男の影が落ち、すっかりと覆われる。


「だめだよ華、勝手にいなくなっちゃあさ。ずっと一緒だって言ったのに」


 顔面に振り下ろされた鉈を必死に避ける。あまり長くない天使の髪の毛が、わずかに裁断されふわりと風に舞った。首元に垂れた、長く洗っていないのだろう、雨風の染みたフードから漂う不衛生な悪臭が鼻を衝く。天使は顔をしかめ、すくみあがった。


「もう、どこにも行ったりしないから、だから、許して」


 天使は、誰とも知らない華を演じようと試みたが、心の中で、それは無意味ではないにしろ、良い方法ではないと悟っていた。自分と見紛うような存在はそういない。いるとするならば、それは。


「前も、そう言った。だから動かないように埋めたんだ。なのに、また、なんでなんでなんでなんでまた君は僕に会いに来るんだ! もう、もうもうもうもうもう、いやなんだ! 君を殺したくて仕方がない! だけど、僕は人を殺したくなんかないんだよ」


 天使は、男の目から涙がこぼれていることに気が付いた。それに少し遅れて、純粋な水が天使の服に染み込んでいった。天使は、誰の目からこぼれる涙も純粋なものなのだろうかと、そう思った。それを確かめるように、受け止めるように、両の手を男の顔に近づける。


「ねえ、私を見て。私のことを、ちゃんと見て」


 天使の手は、男の顔までは届かなかった。けれど、懸命に伸ばし続けた。


 男は、そんな天使を見下ろして、たじろいだ。押し倒された少女が、なぜか笑っていたからだ。男の手から、わずかに力が抜ける。毒素が抜けるように、男は力なく少女の両手に顔をうずめた。天使の羽が、男の頬を優しく包んだ。


「あなたは大丈夫。大丈夫だから。忘れたっていいの」


 天使の指が、とめどなくあふれる涙を拭い、そっと男の瞼を閉じた。静かに、嗚咽の音が響いていた。


 すべての涙が純粋であるのではない。きっと、涙を流す人が純粋なのだ。そう天使は考えた。天使の脳裏には、これまで出会った悩みを抱えて行き止まってしまった人々の姿が思い浮かんだ。あの人々の流す涙は、こぼした思いは、どれも純粋なものだった。


 では、自分はどうなのだ。天使は己に問いかける。そんな純粋な人々に何かを与えられるような存在なのだろうか。天使という自分自身の漠然とした不安が、積もり積もって襲い来る。天使とは、何なのだろうか。


「ごめん、でも――」


 男は、涙でかすれた声を上ずらせて言葉を紡ごうとした。天使は柔らかな笑みでその続きを待っていたが、二の句が継がれることはなかった。


 男の影が、か細い吐息一つを残してゆっくりと倒れていく。


 夕日がまだまぶしく照らす公園の景色が開けたそこには、一人の少年の姿があった。年のころは天使と変わらないかやや幼く見える。つややかな髪は目が隠れるほど長く伸ばされ、学校、この時間ならば塾帰りだろうか、指定の制服には砂や泥が跳ねている。注目するべきは少年の両手に抱えられた頭一つはあろうかという石だった。どこからか拾ったそれを少年は男にたたきつけたのだろう。


 前髪越しに少年が目を大きく開いているのが分かる。肩を上下させ倒れた男を眺めている。上体を起こした天使と目が合うと、持っていた石をその場に捨て去り、公園の出口の方へと走り去っていった。


 天使は気絶した男に目を移す。幸い、というものが何を指すのかは曖昧なところだが、男はまだ息があるようだった。外傷も石で殴りつけられたにしては浅く出血もわずかだ。


 天使は、自分でもなぜかは分からなかったが、男を優しく抱きしめた。ヘドロの溜まった排水溝のような臭いがしたが、それでも少しの間、抱きしめていた。


 それから老警官に電話した。といっても一一〇番ではない。以前に長く立ち話をしたときに、個人的に電話番号をもらっていた。それ以降、交番の前を通らないよう一つ早い横断歩道を渡ることにしている。


 状況を説明しかねたが、とりあえずは救急車を呼んでもらうことにした。けが人がいるのは確かなことだったし、それ以外のことは大人が解決してくれるだろうと思った。


 天使は救急車がやってくるのを待ちながら、誰もいない公園を眺めていた。公園はまだ少し青い葉が残っていたが、夕焼けに赤く照らされたその風景を天使はとても美しいと思った。





 それから、家に帰った天使は、嫌になるほど母親に心配された。男は警察が捜査中の何らかの事件の参考人とやらだそうで、報奨金がもらえるという話をされたが、天使は断って代わりに一つだけお願いを聞いてもらうことにした。


 台典市総合病院の一室にその男は眠っていた。事件以来目を覚まさず点滴につながれたままだった。天使は、その男の病室を一週間ほどの間訪れた。病室と廊下を行き来して、窓辺に置かれた花瓶の花を、そばに置かれた花束の花に差し替えた。花束は、天使が刑事に頼んで置いてもらっていたものだった。なるべくカラフルな花束を、それが彼のそばにである気がした。


 ある日、天使が病室を訪れると、そこに男はいなかった。顔見知りになりかけていた看護師によると、目を覚ました男は、うわごとのように同じ名前を繰り返していたため、別の病棟に移動になったのだそうだ。


 それからぱったりと、天使は散歩をしなくなった。代わりに部屋にこもる時間が増えた。あの時抱きしめた男の感触は、まだ消えそうにもなかった。

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