第3話 本当の自分と天使
この町には、天使がいる。
それはこの
そんな町に一人の少女がいた。羽もない、光輪もない、ただの人間である。しかし、彼女には声を上げれば人を振り向かせるカリスマがあり、嘘をついてもそれを嘘だとしてしまう世界が悪いのだと思わされるような純潔さがあった。
彼女は自らを天使と呼称する。そう自称しても、誰も疑問に思ったり否定したりはしない。彼女には天使の才能があり、天使自身そう思っているからこそ、天使としてふるまっている。宗教観の混線したその国の小さな町で少女は、人々を助ける天使として、人々の縋ることのできる偶像として、今日も何かを探している。そして、曇ることを知らない、純粋な瞳で町を眺めるのだった。
天使はその日、激しい腹痛に見舞われすっかり登校する時刻に送れてしまっていた。
母親が、急いで怪我でもしたら危ないから、と執拗に引き留めるのを説得して、二時間目の授業に間に合うようにと家を出た。正直なところ、そうまでして登校する理由は天使にはなかった。登校するためというよりもとにかく外に出たかった、という方が理由としては大きかった。
ともあれ、いつもよりも遅い時間の駅のホームは、通勤も通学もピークを過ぎており人は少ない。天使の他には、数名がぽつぽつと携帯端末に目を落としながら次の電車を待っている。天使はわずかに、体調不良による意識の朦朧とした感覚を覚えながら、くたびれたスーツを着た会社員風の男の後ろに並んだ。他の車両の待機列はもっと空いているようにも感じたが、移動するのはどうにも面倒くさかった。
この男性も、自分と同じように遅刻したのだろうか。あるいは寝坊でもしたのだろうか。丸まったスーツの背に、そんな物思いにふける。そのシルエットは、猫背というよりも落ち込んでいるような、鬱々とした印象を強く受けた。きっと何か事情があるのだろう、そのことだけはなんとなく察せられた。
しかし、まぁ、そんな人もいるだろう。と天使は空を見上げた。
この世界には、いろんな困りごとがあるのだ。つまりは、それだけ困っている人がいるということであって、当の自分も腹痛のせいで遅刻する羽目になっている。今までは順風、とは行かずともそれなりに順調な日々を暮らしていたから、自分には分からなかった。こうしていつもと違う電車に乗るだけ、たったそれだけの破調が、視野を広げるのだ。自分の手の届かないような場所に、困っている人はいくらでもいるのだ。その人を助けられないことと、手の届く場所にいる人を無視することとで、一体どんな違いがあるというのだろう。違いなどはないのだよ。助けられなかったという事実が、眼前に突き付けられているかどうかということ以外には。
そう天使が心の中で問答をしている内にも、男のスーツにはしわが増えていくようであった。
ホームに列車の接近を知らせるジングルが鳴る。天使は両手で前に持っていた通学用かばんを右手に持ち換える。ラッシュアワーではないにしろ、天使の最寄り駅は他の交通へのアクセスの関係から降りる人の数はそれなりにあったと記憶していた。男もまた、顔を上げたが、その視線は反対側のホームのさらに向こう、フェンスに隔てられた住宅街の隙間を抜けて、背景と化した山々に吸い寄せられるようであった。
ガタンという音と共に、電車が天使の待つホームに入ってきた。
その瞬間、天使の眼前の男は、あろうことかまだ電車の到着していない線路の方へと踏み出し始めた。
――およそ二歩。男が踏み出せば、その体はホームの床を踏み外し転落することだろう。あるいはそれ以前に、男の姿勢はすでに前方に傾いており、そのまま倒れこんでしまえばたちまちにも迫りくる巨大な金属塊との衝突によりその肉体は炸裂することだろう。
「ちょっ、ち、まっ!?」
天使は男が動き出したことに気づくと、一度の瞬きの後、頓狂な声を上げる。一度の瞬きの後、空いていた左手でとっさに男の襟首をつかむとホーム内側へと引っぱり戻す。反対に体勢を崩した天使は、通学かばんを重しに弧を描くことで何とか黄色い線上に静止する。
ホームに無機質な到着アナウンスが流れている。天使の背後の車両には、誰も乗ってはいなかった。天使以外の誰も、その男を気に留めもしなかった。
甲高い機械音と無機質なアナウンスの後、天使の背後で扉が閉まっていく。電車が通り過ぎていく追い風を受けながら、天使は蔑むような、困惑するような、心配するような純粋な瞳で、しりもちをついて動かない男を見下ろした。
「なんで、そんなことしようとしたの?」
それは、少女の口からこぼれた率直な思いだった。責めようとしたわけではない、純粋な疑問。突然のことに思考が追い付いていなかった。
男は呆けるように天使を見上げていた。スーツに砂埃が付くことも気にせずゆっくりと後ずさろうとしている。天使は先に我に返り、男を覗き込むようにしゃがんで笑いかける。
「ごめんなさい、怖がらせるつもりはなくて。何か悩みがあるなら聞かせてくれないかな。ボクは
天使は有無を言わさず、男をホームに設置された待合室の椅子に誘導すると、その隣に腰掛けた。天使にされるがままになりながら、男は困惑し恥ずかしがるように周りを気にしていた。
少しの沈黙を挟んで、観念したように男は口を開く。
「君のこと、
天使はそう聞かれて、一瞬表情を硬くしたが、すぐに笑顔に戻る。
「あなたの好きな名前で呼んでくれていいよ」
男は、ありがとう、と照れるような早口で返す。そして、ぽつぽつと語り始めた。
「悠莉っていうのは、僕の名前なんだけど、僕なんかにはもったいない名前だよ、本当に。僕みたいな社会性も才能も無くて努力もしてないような人間には、似合わない名前だ」
「そんなことないよ。何か、悩みがあるんだよね。遠慮しないで、大丈夫だから」
天使は自棄になりかけている男を、そっとあやすように優しく声を紡いだ。駅のホームには、他に誰もいない。しばらくは電車も来ないようだった。
「僕は、女に、女の人に憧れているんだ。いや、憧れているなんていうものではなくて、なりたいというか。そもそも、大前提として、僕は女なんだよ。男として扱う方が変なんだ。本当の僕を、誰も見てはいないんだ。形としての、男としての肉体だけを見ている。それがどんなに苦しいことか、知りもしないんだ」
待合室のタイルに視線を落としながら、早口でつぶやく男は絶望したように震えていた。天使はその背中を優しくさする。まるで羽を伸ばして陰を作るように。
しかしながら、天使には男の言っている意味はよく分からなかった。彼が苦しんでいるということは伝わってきたが、それ以上の理解はできなかった。天使にとっては、性別というものが、さして重要なこととは思えなかったからだ。目の前で悲しんでいる男が、あるいは女だったとしても、天使にとって不都合になることも、都合のいい存在になることもなかった。ただ等しく、他人であるだけだ。
それに、天使は否定されるということを知らなかった。否定に抵抗するという感覚を知らなかった。自分の感覚が、認識が、理解が絶対であるという価値観が揺らぐことは、天使の中において経験されていなかった。自分を保ち続ける自信の強さを、疑問を持たない快活さを、天使はこれまで保ち続けていたからである。
「本当のあなたはどんな人なの?」
それは、少女の素直な疑問だった。男を慰めるために聞いたわけでも、自分の好奇心のためでもない、目の前の不可解な人間を理解しようという少女の本能的な質問だ。
「本当の僕は、本当の、僕、は」
男は同じように何度も少女の質問を反芻した。壊れた機械のように、思考が回っていないようだった。だんだんと頭が落ち、体を縮こまらせていく。
かと思うと、唐突に天使の方を向くと、加減を知らない子供のように無邪気に、力強く天使の両肩を掴む。少女は不意を突かれ体を硬直させた。
「君だよ、悠莉。君は僕の理想、本当の僕のあるべき姿だ。君ほど、この名前が似合う人もいない。でも、天使か。そうだね、君には確かにそれがふさわしい。君は天使なんだね」
そうひとりでに納得して、力なく手をだらりと外した。
「僕は、女なんだよ、本当は。そう気づいたのは中学の時で、それからずっと違和感を持っていた。だけど、だれも僕が女だと言っても信じてはくれなかった。認めてはくれなかった。理解しようとしてくれなかった。
だからさ、きっと僕は
幾分か落ち着いた様子で、しかし言葉の端々に諦念を滲ませる口調で男は語る。
「今の仕事先も、誰も僕が男であることに疑問を持ったりはしていない。それは悪いことではないのかもしれないね。それだけ上手くやれているということなのだから。
でも、でもどうしたって、辛くなってしまうんだよ。偽物の自分が受け入れられることが、男として生きていくことが苦しくて、嫌になってしまう。黒々とした欲望が、自分の中で育っていくのを感じるんだ。女性を見たときに感じていた憧れや羨ましさが、真っ黒に塗りつぶされて自分が汚染されていくんだよ。心の中で暴れるその汚い感情が止められなくなっていくんだ」
顔を両手で覆い隠し、嗚咽を漏らす。そして、深く息を吸うとまたゆっくりと吐いた。自嘲するように笑みを浮かべ、話を再開する。
「同期にね、そんな話をしたら笑われたよ。それが大人になるって言うことだろってさ。本当の自分を殺して、誰かを傷つける気持ちを育てて、それが大人になるって言うことなんだよ。そんな簡単なこともできないくせに、抗う力もない僕が悪いんだ。耐えられなくなってしまう僕が悪いんだ。だから、君にも迷惑をかけてしまった」
男は笑っていた。自分はもう大丈夫と言わんばかりに、気丈にふるまおうとしていた。天使はそんな男を憂えるかのように眉を寄せ、その羽を閉じうつむいた。
「力になれなくて、ごめんなさい。でも、あなたは、いや――キミは悪くないと思う。
本当の自分も、それを蔑ろにする誰かも、両方傷つけないようにたくさん考えているんでしょう?そんなキミが悪いなんてはずないよ。
あなたがどうしたらいいのか、ボクにはわからないけど、キミが傷つく必要はないと思うんだ。本当の自分を守るために戦うキミが、少しでも幸福になってほしいと思うんだ」
天使もまた、気丈に笑う。男の涙を理解はできていないが、その悲しみを、苦しみを和らげようと背筋を張り、天使として笑う。無理矢理に愁眉を開き、男の手を包む。
天使が天使であろうとするならば、男には同情してはいけない。それが恵まれたものとしての責務であることを、天使はまだ知らない。
待合室の外から、聞きなれたサイレンの音が鳴る。いつの間にか正午を回っていたらしい。音の方を振り返った天使に、男は優しく声をかける。
「ありがとう、天使さん。僕はもう大丈夫だから、君は行ってくれ。僕の悩みが解決するよりも、君が元気でいることを見られる方が、ずっと誰もが幸せになるからさ」
そうして天使は待合室を出る。悲し気に落ちそうになる口の端を、なんとか上げながらまたね、と言い残して。
それから、たっぷり遅刻して天使は学校についた。腹痛が原因であると伝えると、だれも疑わなかった。担任の先生も、叱らずに親身になって心配した。
しばらくの間、天使は散歩に行かなかった。少しだけ嫌な顔をしながら、普通の家族がそうするように、母親と一緒に過ごした。テレビを見たり、料理を手伝ったり、家事を手伝ったりする中で、天使は普通を経験した。きっとこれが当たり前の家族で、当たり前の幸福なんだと思った。
母親と二人で買い出しに行った帰り、天使は一人の女がふらふらとした足取りで歩いているのを見かけた。長い髪はきれいにまとめられていたが、対照的にメイクは不自然に落ち、肩にかけた小さなかばんは今にも落ちてしまいそうだった。
「ごめんなさい、お母さん。荷物、ちょっとだけ持ってて欲しい」
天使は返事を待たずに、怪しげな足取りの女の方へと飛び出していった。母親は、やれやれといった風に肩をすくめると、両手に荷物を抱えて帰路に着いた。それから、安心したように少しだけ笑った。
その日以降、天使はまた散歩をするようになったし、母親とも最小限の関りしか持とうとはしなくなった。だけれど、母親はそれを責めることはなかった。
加えて、天使は時々学校に遅刻するようになった。理由はたいてい腹痛だった。けれど、中学校を卒業して、電車を使わなくなる最後の日になっても、あの日の男と出会うことはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます