第2話 母親と天使

 この町には、天使がいる。


 それはこの台典だいてん市の名前をもじった、くだらない風説である。「ま」と付く地名ならどこだって、と結び付けられるような、そんな安直なものだ。


 そんな町に、一人の少女がいた。


 例外なく天使の噂を耳にしたことのある少女であり、その天使というものが自分のことであると疑わない少女である。事実、彼女がそのように自称するならば、台典市の人ならば誰もが信じてしまうほど、彼女にはその嘘を現実だと錯覚させるだけの何かが秘められていた。そう思わせるカリスマに近い存在感があった。


 彼女は、散歩が趣味だった。家にいるのが苦手だったから、彼女は台典市を歩き回って時間を潰していた。


 母親は、彼女を溺愛していたが、奔放と動き回る少女が最後には家に帰ってくると信じていたから、何も言わなかった。


 天使は、そんな母親のことを嫌いだったわけではない。ただ、違和感を募らせていたのだ。世間で吹聴される母親としての理想にも劣らない素晴らしい母親の姿と、自分が当たり前だと思い込もうとしている家庭の歪な部分の違和が、家にいる間中、天使を蝕んでくるように感じられた。ずっとそうしていると、自分の中の天使としての像が、揺らいでいくように感じた。バラバラに霧散して、二度と戻らないのではないかと思ってしまうのだった。


 だから彼女は、自分を天使と呼称した。人の悩みを聞くときは、その人が話しやすい誰かに錯覚されることで、相手とつながっている個としての自分を、名前という殻から外れた自分自身を確かめようとした。そうすることで、いつか母親の愛情を理解できるのではないかと思っていた。





 天使はその日、電車に乗って市内の住宅地に降り立った。改札口で切符を回収箱に入れて駅を抜けた。少し涼しい澄んだ風が、天使のうなじを冷やした。背後に建っている無人駅のホームからは、他には誰も出てこなかった。


 静かな場所だ、と天使は思った。最近整備されたのか、真新しい黒色をしたアスファルトは、歩くのには不自由しなかった。人っ子一人いない駅前を、山の斜面に沿って作られた集合住宅地の方へと進む天使の耳に、小さな砂利を踏みしめる音だけが響いた。


 前田サイクルショップ、小栗工務店、洋洋書店。車通りも少ないその道沿いの店は、どれも見たことのない店ばかりだ。個人経営なのだろうか、二階には生活感のある窓と、中の落ち着いた雰囲気の部屋が見えた。


 十字路を山の方へ進むと、一軒家が増え、道路の斜面が険しくなった。これは、このあたりに住む小学生は愚痴るだろうな、などと考えながら天使は進む。見知らぬ老婆が、すれ違いざま会釈したのを見て、天使も笑顔で返す。


 団地を坂の上に向かって進む天使の目に、家を囲っていたコンクリート塀の切れ間が見える。山はどこかの家の私有地なのか、厳重とまではいかないものの、野生動物が出てこないように高い柵が立てられていた。


 天使は行けるだけのところまで歩いて来たのだと思い、少しの満足感を覚えた。そして、来た道を帰ろうかと思った時、団地の一角に小さな公園があることに気づいた。天使は坂道を歩き詰めたことでかなりの疲労感を覚えていたが、しかし時間にはまだ余裕がありそうだったから、公園で休んでいこうと思いなおした。


 果たして、公園についた天使は、ブランコに座り込む一人の女性を目にする。女性は傍らにベビーカーを停め、うつむいて足元に積まれた本の山を眺めていた。ベビーカーは、サンシェードが閉じられており、中の様子をうかがい知ることはできなかった。


 天使は、女性が何かに悩んでいるのだということだけは理解できた。だからこそ、女性に近づいて、隣のブランコに乗り込んだ。


「ねえお姉さん、なにか辛いことでもあった?」


 女性はゆっくりと顔を上げ、天使の方を向いた。その顔はふくよかであったが、明らかに疲労やストレスが見て取れた。


「ボクは天使なんだ。だから、お姉さんのお話を聞いてあげられると思うんだ」


 女性は一瞬、ポカンとした表情を浮かべたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。


「そうね、本当に天使みたいにきれいなお顔だわ。でも、天使さんに聞いてもらうようなお話じゃないの。嫌なお話だから、あなたに伝播しても悪いもの」


「大丈夫だよ。もし、天使に話しづらいなら、ボクのことをお姉さんが話しやすい人だと思って呼んでみて」


 天使は優しい笑顔でそう言いながら、太ももに置かれた女性の手を取った。温かな天使の体温を感じながら、女性は何度もまばたきをした。


「そう、ね。分かったわ。じゃあ、桜子さくらこって呼ぶことにするわ。それと、私のこと、お姉さんじゃなくって、良かったらお母さんと呼んでくれないかしら。その、私、もうお姉さんなんて呼ばれる年じゃないもの」


「うん。分かったよ、お母さん」


 天使が女性にぎこちなく笑いかけると、静かにこぼれた涙が本の表紙を濡らした。


「あら、いやだわ。私ったら、すっかり涙もろくなっているわね」


 女性はためらいなく手の甲で涙をぬぐうと、ゆっくりと思い出を咀嚼するように話し始めた。天使の乗ったブランコが、ぎいと鳴った。


「辛いことがたくさんあったの。でもね、それを乗り越えられる希望があったから、耐えてきた。耐えてこられたの。でも、今になってね。寂しくなってしまったの。私は一人なんだってそう思ったのよ」


「そんなことないよ。桜子がついているから、ね」


 天使は女性が落とした視線を掬い上げるように、優しく手を握りなおした。ブランコの前に屈み、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。


「桜子。ああ、あなた、そんな、私……ごめんなさい、私、あなたを――」


 女性は目を大きく見開き何度もしばたたかせると、瞳を潤ませ天使を抱き寄せた。


 突然の抱擁に天使は小さく声を漏らす。


 しばらくの間、女性はそうして天使を抱き寄せたまま泣いていた。天使も寂しげな顔で抱き返した。


 天使は、抱擁というものを愛情表現として理解していたが、女性の腕からはどちらかというと、悔いや贖罪の気持ちを感じた。それはまだ天使には理解しきれない感情だった。だから、女性のその気持ちが、母親としての愛情なのだと思った。


 ようやく天使を抱く腕が緩んだ。女性がぽつぽつと語り始める。


「夫が死んだの。もうすぐ一年になるわ。突然のことで、すぐには信じられなかった。お葬式でお母さんに慰められたときに、ようやく頭が回ってきたくらいだったわ」


 天使は話に聞き入るように女性の顔を見ながら、隣のブランコに腰掛ける。静かにブランコが揺れた。


「それから少しして、気持ちはだんだんと整理できつつあったのだけれど、今度は体調が悪くなってね。それで病院に行ったら、あの人の子どもを授かっていたことが分かったの。忘れ形見なんて言っても、忘れるつもりも無かったのだけど、大切に育てようと思ったわ。名前も決まってた。あの人の好きな花の名前。病院で経過を聞くたび、とっても幸せな気持ちになるの。あの人との生活がまだ終わっていないみたいに感じられたから」


 女性は少し膨らんだ自分の腹部に目を落とし、優しくさすった。


「でも、でもね。やっぱり一人だった。家に帰ると、いつまでも一人なの。すごく寂しくて、お母さんに来てもらったり、桜子と遊べる日を想像したりしてなんとか乗り越えた。桜子が生まれて、この両手で抱いて、あやしたり、おしめを変えたり、お風呂に入れたり、きっと桜子とならどんな困難だって乗り越えていけると思った。そんな幸せな妄想をずっとしてきたの」


 天使は、自分の母親もそう思いながら自分を身ごもっていたのだろうかと考えていた。きっと、その答えはイエスだ。多くの母親がそう思うように、あの人だってそう思っていた。そして、今もそう思っているのだろう。自分と過ごせるならば、どんな困難も幸福な痛みに代わっていくと信じているのだ。自分のもたらすどんな不幸も、子供の意思ならばと受け入れてしまうのだ。


「状態は安定していたから、予定日の少し前に入院して、経過も問題ないって言われたわ。それからはあっという間で、桜子が産まれたときは、痛みよりも感動の方が大きくて、でも、私、ごめんなさい……桜子、もうあなたの顔も思い出せないの」


 女性は言いながらまた大粒の涙をとめどなくこぼした。顔を覆う手は、用をなしていなかった。女性の足元に崩れた本の山に、染みが増えていく。


「桜子を産んで、それからしばらく入院することになっていたの。でも、その間あなたの顔を見ることはなかった。それから一度も、見ることは叶わなかった」


 天使は、何と言葉をかけるべきか分からなかった。ただ、桜子がついている、という言葉が失言であったことだけは感じた。


「桜子は、生まれてすぐ、死んでしまった。あの時抱いた桜子の体温も、だんだんと消えていっているように感じるの。お医者さんはね、いろんな理由を言ってくれた。看護師さんもたくさん慰めてくれたわ。でも、もう意味がないのよ、そんなことには。桜子はもういないの。あの人ももういない。それだけのことなの、私にとっては」


 女性の目に、もう涙はなかった。枯れきって、諦めきって、それでもやはり、寂しそうだった。


 天使はそんな女性の前に跪き、両手を優しく掌で覆った。そして、ゆっくりと女性の胸に当てる。


「いるよ。桜子はここにいる。ずっとずっと、いるんだよ」


 天使は優しい声色で、しかし確かな口調でそう告げる。それは、あまりにも偽善的な噓だった。それは天使にもわかっていたが、それでも、天使もそう思いたくなってしまった。親の子への思いは、執着は、理想は、願望は、いつまでもあり続けるのだと。たとえ、離れ離れになってしまったとしても。たとえ、出会ったことすらなかったとしても。


「ずっと、いるのね。ずっと、いてくれるのね。あなたは、優しい子だから」


 女性は、胸にあてられた手をじっと見つめていた。それは永遠のように感じられた。天使が降りたブランコがぎいと軋む音だけが、確かに時を刻んでいた。


「うん、いるよ」


 それは、甘美な毒だった。けれど、天使にとっては、傷を癒すことができるのならば、それは薬と同じであった。だから、天使は純粋な気持ちで繰り返す。繰り返し、繰り返し擦り込む。


 女性の顔が、ゆっくりと綻んでいく。涙ではなく、幸せな表情で顔がくしゃくしゃに歪んでいく。その口の端は、しかし苦しそうにも見えるほど震えていた。


 女性の手が力なく膝に落ちた、かと思うと勢いよく顔を上げ、天使を貫くように見つめる。


「ありがとう、桜子。ごめんなさいね、お母さんのお話聞いて、慰めてもらっちゃって。お母さん、元気が出たわ。桜子はいるんだもの。それなら、何だって大丈夫だわ」


 女性は立ち上がると、ベビーカーを掴むと、それじゃあね、とだけ言って去っていった。

 

 歩き始める前、何気なく女性が上げたサンシェードから、天使は一瞬、その中を伺い見ることができた。二歳児ほどの大きさの何かが身じろぎ一つせずに収まっていた。天使の横を通り過ぎるとき、固定されていないソレが傾き、虚ろな、というよりも無機質な目が天使の方に倒れた。その目に引き寄せられるように、天使は動きを追ったが目線が交錯することはなかった。


 それは、人形だった。人形の乗ったベビーカーを押して、女性はやがて見えなくなった。


 女性が見えなくなってようやく、天使は立ち上がった。キツネにつままれたような気持ちになりながら、ブランコの方に目を戻す。そこでは確かに、二つのブランコが揺れていた。天使はそのうちの一つにぼんやりと腰を落ち着け、手すりを両手共に持ち、漕ぎ始めた。


「幸せになれたなら、良かったんだよね」


 ブランコは静かに揺れ、ぎいと答えた。





 それから、天使は家に帰って、高校生になったら一人暮らしがしたいと母親に告げた。案外あっさりと母親はそれを承諾した。結局は市内に留まることになるのだから、寂しくなったら会いに行くわ、とさっぱりとした笑みを浮かべていた。


 しばらくの後、回覧板で町内の不審者情報が流れてきた。出会った子供に名前を聞いては違う名前をつぶやきながら抱きしめる女性がどこかの団地で徘徊しているとのことだった。あなたはそうならないように気をつけなさいね、と母親は笑う。まるで自分はそうならないと思っているような顔だった。


 きっと、この人はそうはならないのだろう、と天使は思った。そしてなんだか馬鹿らしくなった。母親の愛情を、子が理解することなどできないのだと、そう思ってしまったから。きっと、母親だって、それがどこから来てどこへ行くのか知らないのだ。

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