誰も救えない天使の話

錆井

天使の話

第1話 空と天使

 この町には、天使がいる。


 それは台典だいてん市の子どもたちなら誰もが一度は耳にする噂話の一つだ。街の名前をもじっただけの、根も葉もない噂だが、実際に見たという話や、天使と話をしたという尾ひれが年々増えていき、絶えることなく語り継がれているのであった。


 一人の少女がいた。


 彼女は天使だった。


 それは何かの宗教に与するようなものでもなければ、営利的な後ろ盾を持つようなものでもなかった。単に、彼女がそう自身を定義づけていたというだけのことだった。そして、実際のところ、彼女にはそれをある程度信用させるだけの素養と天賦の才があった。


 整った顔立ち、短く切りそろえられた美しい茶髪、贅肉のない引き締まった肉体。そして、相手を慮ることのないのびのびとした性格の持ち主。


 彼女は自分のプロポーションや可能性の高さを誰よりも自覚し、それをひけらかすでもなく天使としての自信につなげていた。


 天使は好奇心旺盛だった。事件や事故が起こると、嬉々として現場を見に行ったし、自殺の名所や心霊スポットなんかが、彼女の散歩コースだった。それが、悩みを抱えた人の前に現れる天使、という噂の実情でもあった。




 ある日のことだ。天使は一人の男とすれ違った。


 やつれた顔の男は両手で花束を抱えていた。その花束は、両手で抱えるほどは大きくなかったが、それでも大事そうに抱えていた。男はスーツを着ていたが、ネクタイはしていなかった。靴もあまり高価ではない運動靴を履いていた。とりあえずスーツを着て外に飛び出した、そんな印象だった。その割に、彼は元気がなかった。


 天使は、そんな男が不思議だった。きっと悩みを抱えているに違いないと思った。彼女にとって、誰かの悩みを聞くことは、天使の仕事の一つであった。


 だから、天使は男に声をかけた。


「ねえ、お兄さん。何か辛いことでもあった?」


 男は驚いて、天使の方を振り向いた。そこは団地が立ち並ぶ住宅街の路地だったが、辺りに人はいなかったから、天使の話しかけた相手が男であることは明白だった。まっすぐに自分の方を見つめる少女の瞳に、やや気圧されながら、君に話すようなことじゃないよ、と返した。


「ボクは、使なんだよ。だから、お兄さんの話、聞いてあげられると思うよ」


 男は、天使が一体何を言っているのかは全く理解できなかったが、その微笑みになんとなく、心を絆されてしまった。


 男の目的地は、もう少し歩いた先のマンションの屋上だった。男は、天使に話をすることを了承したものの、屋上に着くまではあまり口を開かなかった。天使が矢継ぎ早に花束の花は何という名前か、どこの花屋で作ったのか、スーツは自分の物なのか、とかそんなたわいのない質問でつないでいた。


「ボクのことは、お兄さんの好きな名前で呼んでほしいな」


「君は、天使という名じゃないのかい」


「ボクは天使だよ。でも、あなたにとっての天使は、きっと違う名前だから。今は、あなたの天使にならせてほしいの」


 男は、胸に抱えた花束に視線を落として、それから呟いた。


「……由紀ゆき。由紀って呼んでもいいかな」


 そう名前を付けられ、ほんの一瞬天使の体がこわばった。しかし、すぐに笑顔で頷く。


「由紀。うん、きっとその人もすっごく良い人なんだね」


 マンションの屋上に続く扉を開くと、春の風が二人の顔に吹きこんだ。屋上の端は、真新しい防護柵が取り囲んでいた。男は柵に添えるように花束をおくと、屋上の床に腰掛けた。


「そう、だね。由紀、っていうのは、僕の幼馴染の名前なんだ。おせっかいで図々しいやつでさ、でも、幼稚園から大学まで一緒の腐れ縁だし、別に嫌いってわけじゃなくて」


「大切な人なんだね」


「そう、だね。大切な、友人だった」


 日はだんだんと傾き始め、辺りは夕焼け色に染まっている。緑の映える山々も、今は紅葉しているかのように橙に見える。


「由紀は、学生なのかな、なんて聞くのは野暮か。僕は大学生なんだ。今は自主休学中っていうか、この半年くらい勝手に休んでいるだけなんだけど。ここさ、景色がいいだろう? 僕のおすすめさぼりスポットなんだ」


「確かに。いろんな人に紹介したいけど、そしたらさぼりスポットじゃなくなっちゃうか」


 天使の言葉に、はは、と男は苦笑する。


「別にいいよ。もうここでさぼることもないと思うから。」


 天使は正面から、静かに表情を曇らせた男の顔を覗き込んだ。長い睫毛が、ほんの少しだけ重力に逆らって上向きにカールしていた。男は天使と目が合って、少しだけ困惑した笑みを浮かべた。


「由紀は、っていうとちょっとややこしいね。彼女は、ここで亡くなったんだよ。僕のせい、なんだ。あの時はこんな仰々しい柵も無くてさ。いつも通りのんびりと景色を見てた僕に、血相を変えて彼女は詰め寄ってきた。あの時は、授業を休んでこんなところにいることに怒っているのだと思っていたのだけど、今考えると、僕が自殺するんじゃないかって心配してたのかな。なんて、都合の良い妄想なんだけどね」


 天使は、男にかけるべき言葉が分からず、隣に腰掛けると続きを待つように足を伸ばした。


「彼女が僕を連れ戻そうとして、その弾みで彼女は屋上から落ちてしまった。あっという間のことだったよ。彼女が救急車に運ばれていくのも、彼女のお葬式が終わるのも、今となってはね。今日は、気持ちの整理をつけに来たんだ。彼女のことを忘れるつもりはないけど、囚われるのはやめようって、授業をさぼるとかそういう人生を立ち止まるようなことはやめようって、そう思ったから」


 男はそう言うと、おもむろに立ち上がって、欄干に添えた花束に手を合わせた。天使も同様にして頭を静かに垂らす。男が向き直るのに少し遅れて、天使も顔を上げた。


「ねえ、由紀が天使だっていうのならさ、お願いがあるんだ」


「お願い?」


「きっと、今は天国にいる彼女に、伝言してほしいんだ。僕のせいでごめん。でも、君のことは一生忘れないし、君の分も僕は前に進むことにするよ、って」


 男はつかえが取れたように、晴れやかな顔で天使に告げた。


 天使は男の手を取ると、そっと柔らかな両手で包み込んだ。そして、真剣なまなざしで男の目を見て言った。


「ボクには。だって、それはあなたが、だもの。それに、きっと伝言したって足りないよ。もっとお話ししたいって、その子は言うと思うのだよ。ボクだったら伝言されて終わり、だなんて納得できないな。きっと、本当はあなたもそうなんでしょう?もっとお話ししたいって、そう思っている」


 天使の手の中で包まれていた男の手が、静かに震える。男の目からは、静かに涙がこぼれていた。


「天国はきっと、あなたが思っているよりも近くにあると思うよ。由紀さんも、あなたに会いたいって思っているのではないかな。天使のボクが言うんだ、間違いないさ。きっとあなたと同じように思ってる。だから、離れないでいてあげて。由紀さんと歩むことも、あなたなら選択できるはずだよ」


 天使は、それじゃあボクの役目はここまでかな、と言うと軽快に立ち上がった。羽が生えているかのように軽やかな足取りで、屋上を去っていく。


「大事なお話は、由紀さんと二人でね」


 天使は、控えめに右手で二本の指を立てると、いたずらっ子のような笑みを残して扉を抜けていった。男はその様子を目で追いはしなかった。ただ、その目には早起きして買った花束が映っていた。その花束は、男の財布を空にしてしまったが、あまり大きくはなかった。けれど、男の視界は、ひどくぼやけた赤い花でいっぱいになっていた。




 それから、数週間がたって、その場所は天使の散歩コースの一つになった。


 正確に言えば、その跡地である。なんでも自殺者が相次いだために、住民が気味悪がり、取り壊しが決まったのだという。


 天使はそのような俗世の事情は知りえなかったが、その跡地に添えられた赤い花束を見るたびに、前を向いて進もうという空さえ飛べるような、背中を押されるような気持ちになるのだった。

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