3.葛藤
その日、アレックスはいつものように別荘の外で、フィルがやってくるのを待っていた。
最近は貧血を起こすこともなくなって、日傘を持って出なくても、シェリーも文句を言わなくなった。相変わらず彼女はフィルを生意気と言い、とんでもない子だと眉を顰めているけれど、同時にフィルを見てしょっちゅう楽しそうに笑っているのも、主人であるアレックスだけでなく、フィルの心配を本気でしているのも知っている。
そう、フィルはよく笑うから一緒にいて楽しいし、温かいからほっとする。
ふと思いついて、アレックスは待ち合わせの納屋の陰に隠れ、フィルをおどかすことにした。驚いて、それからすぐに笑うだろうフィルを想像すると、それはとても素敵なことに思えた。
ジャンを湖のほとりに放したフィルが、昼食のバスケットを抱え、いつものように納屋へと駆けて来る。その姿を見て毎日しているように顔を綻ばせ、それからフィルの反応を考えて少しだけ笑い、飛び出そうとした瞬間だった。
「おい、フィル」
水辺に生えた葦の向こうから現れた、アレックスと同じ年頃の男の子に声を掛けられ、フィルは立ち止まった。
「ティム? 珍しいね」
「お前、最近なんで町に来ないんだ?」
首を傾げるフィルと話す彼は不機嫌そうだが、頬が少し赤らんでいる。遠目にもそれがはっきりわかって、アレックスはなんだか嫌な気分になった。
「……別に」
「来いよ、遊んでやるからさ」
「いらない」
視線を逸らし、手にしていたバスケットを背後の地面に隠すように置いたフィルの手を、ティムは明らかに緊張した様子で勝手に取った。数歩引きずられたフィルは、すぐに彼の手を振り払う。
「……ここの別荘に貴族が来てるんだってな。そいつのせいか」
一瞬傷ついたような顔をしたティムだったが、再度フィルに近寄ると、その肩を掴んで睨み付けた。
「っ、フィルっ」
全身に広がった怒りのまま飛び出したアレックスと目を合わせ、フィルは泣く一歩手前まで顔を歪めると、ティムを突き放す。
「アレク……っ」
そして、名を呼びながら駆けてきて、ぎゅっと抱きついてきた。その事実にアレックスは自分でも驚くほどの歓喜を覚える。同時に、呆然とこちらを見ているティムに残酷な優越感を覚えながら、腕の中のフィルを抱きしめた。
「ごめん、アレク、ティムたちとも友達になりたかったよね」
「え?」
去っていくティムを睨んでいたアレックスに、腕の中のフィルが小さな声で呟いた。
(別にそんなことはないけど……)
確かにアレックスは、友達がいないと言うフィルに自分もいないと答えた。だが、今そう言われて、フィルがいればそれでいいと感じている自分に気付く。
「アレクがティムや町の子に取られたら嫌だと思って、だから会わせなかったんだ。ごめん」
「謝らなくていいよ」
涙声で再度謝るフィルに、アレックスはむしろ幸福な気分になって微笑む。フィルも同じように感じていたのだ、と。
だからこそ続いたフィルの言葉に愕然した。
「次はちゃんと紹介する。そしたらもっと友達が増えて一緒に遊べるから。アレクならきっとティムとも仲良しになれるだろうし……」
「え」
フィルは気を取り直したのか、「きっと楽しい」と自分に言い聞かせるように言ったが、アレックスはそうは思い直せなかった。それどころか、いやだ、と思った。フィルの一番近くに居るのは自分でなくては駄目だ、他の友達なんて、特にさっきのような子なんて邪魔なだけだ、と。
(……さっき感じていたのは、友達を取られたくないなんて、可愛い感情じゃない。嫉妬と独占欲、だ――)
「……」
顔から血の気が引いていくのがわかった。
(フィルも私も男、なのに……?)
これまで自分の身に起こると考えていなかった事態に、アレックスはそのまま呆然とフィルを見つめる。
そんなアレックスを、フィルは自分のせいでショックを受けていると勘違いしたのだろう。泣きそうな顔になりながら、ごめん、と謝り続ける。それを振り切って、アレックスは別荘へと逃げ帰った。
* * *
その後の二日間はひどい荒天だった。混乱していたアレックスにとって、フィルと会わなくてすむその時間は、ほっとするようで落ち着かない、ひどく収まりの悪いものとなった。
フィルとはただの友達だから、別に二、三日会わないのなんて普通だ、と思い込もうとする。なのに、気が緩むたびに部屋のあちこちや窓の外の風景に、フィルの影を見る。
違うのだ、自分は弟のようにフィルを大事に思っているだけで、特別な感情を抱いているわけではない、と必死に言い聞かせる。一方でふとした拍子に、今フィルは何をしているのだろう、と思いを馳せている自分に気付く。
初めて出来た友達だから気にかかるだけ、と動揺を鎮める。そのくせ、泣きそうになりながら自分を呼んだフィルの声とフィルが自分を抱きついてきたことを思い出しては陶酔する。
そんなことの繰り返しだった。
夕暮れの時刻だったけれど、雨雲のせいで外は既に真っ暗。だから最初は空耳だろうと思った。
「?」
けれど、再び響いたかすかな物音に、不毛な思考に疲れてベッドに横になっていたアレックスは、バルコニーへと視線を向けた。そして、ガラス向こうに小さな影を見つけ、跳ね起きる。
(フィルだ――)
ずぶぬれのフィルが、思いつめたような顔でこちらを見ている。フィルとしばらく顔を合わせたくないと思っていたはずなのに、その姿を見ただけで、全身が嬉しくて嬉しくて歓喜した。
「フィル」
「……アレク」
急いで窓に駆け寄り、そして、なぜかどきどきしながらバルコニーの吐き出し窓を開ける。
いつのまにか雨は止んでいた。雨上がりの湿気を含んで冷たくなった風が湖岸の森を揺らした後、アレックスたちの元にまでやってきて、薄手のカーテンを揺らした。
「フィル……?」
二日ぶりに会えたのだから、顔を見せて欲しいと思うのに、目の前のフィルは俯いてしまっていて、表情がよく見えない。そのことがとても寂しい。
「あ。ええと、その、フィル……」
一昨日の別れ方がまずかったと思い当たり、フィルの機嫌をとろうと慌てて言葉を探した。けれど、アレックスが言葉を見つけ出す前に、フィルは手のひらに握った何かをおずおずと差し出してきた。
「……?」
受け取れば、それは見たことのない青い小さな花だった。厚い雨雲の切れ目からのぞき始めた赤い夕日に照らされて、花弁が鈍い光を放っている。
(光にあたって輝くって、これ、フィルの話していた妖精花……?)
「仲直り、したい」
俯いて唇をかみ締めていたフィルが、「ごめんなさい」と口にした後で、小さな声でそう言った。雨の名残か、それともフィルの涙か、滴がぽたりと花弁に落ちて光る。その光景がひどく幻想的で、アレックスは言葉の意味を捉えることも出来ず、ただ見蕩れていた。
「……」
そして数拍の後に理解した。雨の中、自分と仲直りする為だけに、幻だと言っていたこの花を探しに行ったのだ。
フィルの濡れた金色の髪を思わず手を伸ばすと、触れた場所から甘い痺れが体を突き抜ける。
「っ」
生じた衝動のまま、アレックスは自分が濡れるのも構わずぎゅっとフィルを抱きしめた。フィルの小さな身体から冷たさが伝わってきて、余計胸が詰まった。
「ごめん、フィル。フィルに怒ってたわけじゃないのに」
同性だからなんだというのだろう。会ってすぐわかった。こんなにフィルに会いたかった。こんなにフィルと一緒にいたい――それを全部誤魔化そうとして苦しんで、挙げ句フィルまで傷つけるなんて、どこまで愚かだったんだろう。
「じゃあ、許してくれるの?」
「怒ってないよ。私の方こそごめんね」
(フィルがいてくれるなら、その他のことなんてまったく問題じゃない――)
ごく自然にそう思えて、アレックスはフィルに笑いかける。
フィルは緑の目を見開いて、そんなアレックスを見つめた後、また一粒雫を零し……それから花が綻ぶかのように笑った。
「見つけましたよっ、お嬢さまっ。一体全体何してらっしゃるんですかっ」
(お、じょう、さま……?)
「あ、ターニャ」
「あ、ターニャ……じゃありませんっ! 横殴りの雨だったっていうのに、朝から一体どこで何をしていらしたんですっ!?」
アレックスの服に着替えた後、二階のバルコニーから壁伝いに降り、湖沿いに帰っていくフィルを見送っていると、唐突に女性の怒声が響いた。
「ええと……散歩?」
「……それ、アルさまの前で仰ったら、きっと恐ろしい目にあいますよ。エレンさまですらお怒りですもの」
うわあ、婆さままで?とフィルの悲嘆にくれる声がする。
「……」
(アルさま……って、アル、ド・ザルアナック? 老伯爵? あの英雄の? エレンさまって、エレーニナ・リラン・ザルアナック……が“婆さま”?)
膝の力が抜けて、アレックスは「つまり、フィルは……」と口にしながらその場にしゃがみこんだ。
雨雲が夕暮れの風に霧散していく。途切れたそれの合間から差し込む、いつもより赤みの強い光が小道を辿って森へと入っていくフィルと女性の背を照らしている。
「……」
その姿が木立の間に消えてしばらくした後、アレックスはいつの間にか抑えていた息を吐き出すと、一人くつくつと笑いだした。
フィルは男の子じゃない、女の子だ。そして信じられないことに伯爵令嬢らしい。
(でも、どの道同じか……)
そう、アレックスが好きなのは、男の子だろうと女の子だろうと、伯爵令嬢だろうとそうでなかろうと、フィル――あの子だ。
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