2.宝物

 フィルは、毎日昼過ぎに別荘にやってきた。

 彼と一緒に過ごす時間は、アレックスにとってすぐに特別なものになった。

 

 

「……体が弱いから」

「うん。そんな感じだ。兄さまもそう。だから倒れない程度でやろう。倒れたら休もう。休んでどうにもならなかったら……食べる? 寝る? あ、薬か」

 フィルは、同情も慰めも過剰な気遣いもない。

 

「でも、だからって何もするなってアレクに言うの? それってつまらない。ちょっとずつやれば大丈夫になるかもしれないし」

 フィルと一緒に足を湖につけているアレックスを見た侍女が、彼を怒鳴った。アレックスは病弱なのだからそんなことをさせるな、と。すると、彼はまっすぐその侍女を見つめてそう言った。

 

「アレク、今日は何する? 何したい?」

 フィルは、当たり前のようにアレックスの意思を訊いてきた。

「……ボート、乗ってみたい」

 水に落ちたら危ないから、湖面を渡る風が体に悪いから、と却下されるだろう遊び。いつもならそんなことはもちろん言わないで、『何でもいい』と答える。なのに、緑の目がわくわくしながら自分の言葉を待っているのを見ていたら、なぜかそんな風に答えていた。

「よし、そうしよう」

「っ」

 断られるかもと怯える間もなく、フィルは笑ってアレックスの手をとって駆け出していく。

「……釣りも」

「おお、名案だ。ボートの上で釣り! 大物が狙えるかも!」

 どこまで大丈夫なのか試したくて、どんどん我がままになった。

「うわっ」

「フィルっ、大丈夫!?」

「うん、ちゃんと捕まえた!」

「そうじゃなくて……あー、びしょびしょ」

 結局大きな鱒と格闘している間にバランスを崩して湖に落ちたけど、それでもフィルは笑っている。

 

「アレクは綺麗。妖精みたい」

 自分も男なのに綺麗と言われると複雑だったけど、フィルがにっこり笑って言えば、おべっかでもなくお世辞でもなく、ただそう思ったから言ったのだとわかった。

 

「一緒に食べよう、アレク。その方が絶対美味しい」

 お昼ごはんはいつも一緒だ。少し遅くなるけれど、バスケットを抱えたフィルが、満面の笑みで走ってくるのを見られると思ったら、全然苦にならなかった。

 

「……剣の稽古、してるから」

 午前中に来ない理由を最初に訊いた時、フィルは泣きそうになって俯き、祖父と剣の稽古をしているのだ、ともごもごと言った。

「変だって言わないの?」

 剣を習っていることを、「うらやましい、かっこいい」とフィルに言うと、フィルはぱっと顔をあげて驚いた後、心底幸せそうに笑った。

「やってみたらいい」

 私には無理だ、皆も心配する、だから剣なんて習えないと言ったら、フィルは首を傾げた。「アレクが望んでそうするなら、それが本当になる」と。

「すぐにとは言わないけれど、すべきことをちゃんとすれば、確実に上達する」

 だったら自分も剣を習ってみたいと言ったら、フィルはそう真剣に言った。簡単だとは一言も言わないのが、本当のことを言っていると感じさせてくれて嬉しかった。

 

「ジャンっていうんだよ。大好きなんだ。時々一緒に寝て、危ないって婆さまに怒られるんだ。アレクも好きになるといいなあ」

 フィルは、いつも一緒に来る栗毛の馬が大好き。ジャンは大人しくて賢くて、まるで人の言葉がわかるようだった。今まで動物になんて近寄ったこともなかったアレックスだったが、おっかなびっくりジャンの鼻筋を撫でると、フィルも彼も楽しそうな雰囲気になる。その空気に促されて初めて馬に乗った。フィルと一緒に乗ったその背から見える世界は、普段の視界と違っていて、知らず感動を覚えた。

 

「森に大きな山桃の木があるんだ。木登りして、実をもいでおやつにしよう」

 木登りをしたことがないと言えば、目を輝かせて、じゃあ最初に一緒にやるのが私だ、とフィルは喜んだ。恐ろしい高さまでひょいひょいと登っていった彼に、「こっち、山がきれいに見えるよ!」とにこにこ微笑まれると、無理、とは言えなくて、アレックスは蒼褪めながらもなんとか上りきる。

「……」

 フィルの横の枝の上、眼下に広がる美しいザルアの光景を見、風に吹かれるうちに、自分にも色んなことができるのかもしれない、と初めて実感できた。

 

「山守のロギア爺のところに行こう」

 ザルア山脈に一人で住む老人の下にも頻繁に泊まりに行った。

「無事に着くまでに結構遭難するんだ。これまで? 最大五日。大丈夫、今日はアレクも一緒だから、ちゃんと準備した! あ、そこの魔物に食べられないように、身の代にするお菓子も持ってきたよ」

 その言葉通り、毎回大荷物を持って彼を訪ねて行って、普通の子供が怖がりそうな魔物の話をねだり、頬を紅潮させてその話に聞き入っていた。

 フィルはきっと、彼が“最後のドラゴン退治”で有名な英雄だとは知らないのだろう。

 それにしても彼は人を厭うと聞いていたけれど、フィルをものすごく気に入っているようで、そのせいかアレックスにもとても優しかった。

 何度目かの訪問の時に姿を現した、大型の豹のような、伝説の魔物レメントも(「本当は殺す気じゃ……?」と思うような扱いではあったけれど)フィルを猫かわいがりしているようで、なんとなく納得した。多分人嫌いとかフィルには関係ないのだろう。


「やっちゃった……」

 うう、また怒られる、と呻く割に、フィルはあまり反省はしないらしい。フィルは思いつきで色々な事をしては物を壊し、怪我をする。見ているといつもハラハラさせられるけれど、一緒にやると確かに面白くて、楽しくて仕方がない。それでアレックスも一緒に怒られる羽目になった。今まで怒られたことなんてなかったとそれで気付いた。

 

 フィルは良くご機嫌で歌を歌っている。フィルのお婆さんが教えてくれたものらしくて、聞いているこっちまで楽しくなる、明るい調べのもの。そうでないのもあるらしいけれど、気分に合わせて歌っているうちに、明るいもの以外は忘れてしまうそうだ。その辺がとてもフィルらしい。

 

「あれ、なんだと思う、アレク?」

 フィルは不思議が一杯。珍しいものを見つけると、目をきらきらさせてアレックスの手を引いて駆けていく。行った先でそれが何か教えれば、フィルはいつも「すごい、アレク」と感動してくれた。本を読むしかないこれまでの自分が好きではなかったのに、その顔を見ていたら、悪くなかったかもと思えるようになった。

 それよりもっと楽しかったのは、アレックスも知らないものに遭遇した時だ。フィルと一緒にワクワクして、一緒にそれを調べた。

 

「ごめんね、アレク。無理させた」

 願いを叶えてくれるという妖精花を見つけようと、夢中になって一緒に森の中を探検した翌日、久しぶりに高熱を出したアレックスを見舞いに来たフィルは、大きな緑の目に涙をいっぱいに溜めて謝ってきた。いつもなら不機嫌になって誰とも話したくなくなるほどの高熱だったのに、そんなフィルを見たらすぐに元気にならなくてはいけない気がして、実際すぐに良くなった。

 

「もうフィルなんか知らないっ」

「っ、アレクの馬鹿っ」

 原因も覚えていないようなことで喧嘩をして、別れたこともある。一人部屋に帰ってしばらく怒っていて、それから徐々に頭が冷えて、それから鬱々とし出した。

「フィルと喧嘩でもなさったのですか?」

「……喧嘩?」

 侍女のシェリーの言葉に、これが喧嘩なんだ、と気付いて少しびっくりした。

(どうしよう、もう友達じゃなくなる……?)

 急に不安になって落ち着きを失ったアレックスに、シェリーは優しく笑った。

「仲直りすれば良いだけですよ、頑張ってくださいね」

「……」

 フィルといつも言い合いをしている彼女は最近ちょっと変わった。過保護ではなくなって、それが少し嬉しかったけれど、こんな時はちょっと意地悪に感じてしまった。


「……」

 翌日の昼、フィルはいつもと同じようにバスケットを抱えてやってきたけれど、走っては来なくて、アレックスの名も呼んでくれない。目が合っても笑わなくて、眉を寄せたまま、ただじっとアレックスを見ていた。

 アレックスもどうしたらいいかわからず、困っていたら、彼はしゅんとして視線を落とす。その顔を見た瞬間、自然に言葉が出ていた。

「フィル、昨日ごめんね」

「っ、私もごめん、アレク」

 そうして仲直りにぎゅっと抱きあって、にっこり笑いあって、それでおしまい。

「嫌われたかと思った」

「私も」

 体を離して顔を覗き込んだら、フィルがちょっと泣きそうになっていて、それがおかしかった。きっと自分も同じような顔をしていたのだろうとわかったから。



 よく笑って、よく困って、よく不思議がって、よく喜んで、正直で、凛としているのに少し抜けていて、不器用だけど優しくて、人とは違うけれどちゃんと温かくて、色んな特別な体験をさせてくれる――高原の短い夏が始まる頃には、アレックスはそんなフィルから目が離せなくなった。フィルから離れたくない、そう強く思うようになっていた。

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