【過去編】逢着
1.出会い
目の前に広がる青く透きとおった湖には、様々な種類の水鳥が集い、鹿などの森の生き物たちが入れ代わり立ち代わり水を飲みにやって来る。
その奥には妖精が棲むと言われる黒々とした森が続き、さらに彼方に隣国との国境となっているザルア山脈の山々が、頂に雪を冠して周囲を圧倒するかのように聳えている。
「……」
噂に違わない、本当に美しい光景だった。
「アレクサンダーさま、お体に触りますから部屋へお入りください」
「平気だよ。ここに来てから一度も発作、起きていないから」
ザルア地方の澄んだ空気のお陰か、王都カザレナでは日常となっていた喘息の発作も鳴りをひそめている。
「それでも日に当たっては、貧血を起こされてしまうでしょう?」
アレックスに付き添って、王都のフォルデリーク公爵邸からはるばるザルアにやってきた侍女のシェリーが、困ったように諌めを口にした。
「それに一昨日も熱を出されたではありませんか」
長旅の到着直後のことを持ち出されて、アレックスは苦笑してバルコニーから室内に移った。
アレックスにつくようになって一年になるシェリーの過保護と口煩さは、うんざりした気分になるのに十分なものだ。けれど、アレックスは実際に月の半分をベッドで過ごすような生活をしているし、心根の優しい彼女がその自分を酷く心配しているのも、臥せった自分に付き添っている自分の母親を見て心を痛めているのも知っている。しかも、そんな優しい彼女は、アレックスが体調を崩す度に古参の侍女に嫌味を言われているのだ。そうなると我を押してまで何かをしたいとは思えなくなる。
窓辺に備え付けられた応接セットに座り、お茶を置いて出て行く侍女を横目で眺めながら、アレックスはかすかに息を吐いた。
あれもダメ、これもダメ、反発しようにも自分を心配してのことだと知っているし、皆が口を揃えてそう言う。実際に自分が体調を崩すと、皆は真剣に心配する。自分の家に仕える者を始め、父も母も兄も、王子であるあのフェルドリックでさえ、壊れ物を扱うように自分の体を気にかけてくれる。
ありがたいことだと思うけれど、皆が『アレックスのために』『アレックスに合う』ものをあらかじめ用意してくれるのだから、それに逆らってはいけないのだ、と無言のうちに言われているような気がする。
(そんなことしたって、どうせそんなに長くはないかもしれないのに……)
アレックスは再び年不相応な溜め息をついた。
美しい風景、それが何だというのだろう。出来のいい絵画を眺めているのと同様、自分はただここに座って眺めているだけだ。あの美しい湖も森も山々も、そこにやってくる人々も生き物たちも、世界の全ては自分とは関わりのない場所で動いているのだと思い知らされる。
自分はただ息をしているだけ。無理をすれば、それすら出来なくなるかもしれないのだから、と言われる。
(でも……じゃあ、僕は一体何の為に生きているのだろう?)
* * *
「ジャン、突っ込もう!」
明るい子供の声に目が覚めた。水音と笑い声が響く。
「……ん」
ソファで読書をしていたはずだが、いつのまにか転寝していたらしい。まだちょっと重たく感じる瞼を右手で擦ると、体にブランケットが掛けられているのが視界に入った。アレックスは苦笑を浮かべてそれを取り払い、その声を確かめようとバルコニーへと再び歩いていった。
眼下の水辺で、栗毛の馬が水浴びしている。直後にその馬が動いて、後ろにいた小さな影が露わになった。真昼の光を受けて金色に輝く小さな頭も、小さな体を包むすすけた青色のシンプルな乗馬服も、ずぶぬれになっている。自分より少し年下の男の子のようだった。近くに普段この別荘を管理している夫婦が居て、そこにも子供がたくさんいると言っていたから、そこの子かもしれない。
その子は手入れの為のブラシを手に握り、遠めに判る笑顔でその馬に何事か話しかけている。そして水と戯れながら、自分より遙かに大きい馬にしがみ付くようにしてその体を磨き始めた。時折馬の背によじ登っては、掛け声と共に湖へと飛び込み、馬の鼻先の水面に顔を出している。
(ああいうことをされるの、普通馬は嫌がるんじゃないのかな)
そう思って思わず首を傾げたのに、馬は彼の行動を気に留めた様子もない。それどころかその子が随分と好きなのか、よく彼に鼻を摺り寄せている。変わった馬だと思った。それからその子もその馬が好きなのだろう、馬のそんな仕草を受けて明るい笑い声を上げ、楽しそうに馬に頬擦りをしてはにこにこと笑っている。
アレックスはその光景を、その子を、彼らが居なくなるまで飽きずに見つめ続けた。
翌日も彼はやってきた。
今度は釣竿を持っていて、例の馬に乗って別荘の前を通り過ぎていく。楽しげに笑いながら奇麗な声で歌を歌っていて、それが終わるとやはり何事かを馬に話しかけている。
釣りをするなら目の前でしてくれればいいのに、と思いながら、アレックスは湖沿いに遠ざかっていく小さな背中を見送った。
(もしかしたら帰りもここを通るかもしれない)
彼の姿がすっかり消えてしまって、落胆に溜息をつきながら部屋に入ったアレックスは、ふとそんなことを思いついた。それはひどく素敵なことに思えて、アレックスは机の前にあった椅子をバルコニーへと引き摺り出すと、侍女に咎めをのらりくらりとかわしながら、彼が帰りかかるのをバルコニーで辛抱強く待った。不思議なことに、その時間はあまり苦にならなかった。
その予感は的中する。傾いた黄金色の夕日の中、彼が大きな鱒を提げて意気揚々と馬を歩かせている姿を見て、アレックスは思わず一緒に笑ってしまった。そして森に消えていく彼を見ながら、話をしてみたい、一緒に遊んでみたい、と強く思った。
(来た)
翌日、再びやってきた彼を見て、アレックスは居ても立っても居られなくなると、階段を駆け下りた。そのまま外に飛び出そうとしたのを侍女に見つかり、止められそうになったのを必死に口説き落とす。普段従順なアレックスのそんな様子にただならないものを感じたのだろう、侍女はしぶしぶ、日傘をさして歩くことと別荘の側から離れないことを条件に外出を認めてくれた。
興奮に頬を上気させ、彼を見つけるべく周囲を眺め回す。これまで生きてきた十年のうちで一番わくわくした瞬間だった。
「…」
だが、水辺であの栗毛の馬が草を食んでいるのが見えるのに、彼はどこにもいない。もたもたしている間にどこかへ行ってしまったのか、と絶望――大げさではなく、その時はそう感じられた――しかかった瞬間、草の間に突っ伏す小さな姿が見えた。
(いた、あの子だ)
再び歓喜に体中が沸く。女の子のようで嫌で仕方のない日傘の存在も、気管を刺激するまだ冷たい山おろしの風も気にならなかった。
(彼と話せる……)
声が震えそうになるのを必死で抑えて近寄り、声を掛けた。
「何してるの」
直後に彼は勢いよく顔をあげ、それに少し驚かされた。仕草もそうだけど、その顔が想像以上に整っていたから。だが、血色のいい頬には泥がつき、見事な金色の髪には草っきれが付いていて、しかも透き通った深い緑の瞳には涙が浮かんでいる。
さっきまで泣いていたとわかる顔でしばらく驚いていたその子は、すぐ嬉しそうな顔になり、次の瞬間真っ赤になった。クルクルと変わる表情がとても印象的で、アレックスは見ていただけなのになぜか幸せな気分になった。
「あ、あの、えと……」
焦っているのか、彼は言葉が上手く出てこないようで、しどろもどろになる。
「……っ」
そのうち情けなさげに眉を寄せ、再び泣きそうになった。
「焦らなくていいよ」
その顔が幼くて、つい頭を撫でれば、その子は一瞬目を見張ってから、嬉しそうに微笑んだ。それにつられて嬉しくなって、アレックスはハンカチを取り出すと彼の涙を拭い、次いで顔の泥を拭った。
「あ、あの、ありがとう」
照れたように笑うその子に温かい気持ちが広がっていって、その子にもっと触れていたくて、今度は髪に付いた草を取り除いた。柔らかい髪の感触に知らず口元が綻ぶ。そんな自分をじっと見ていたその子は、意を決したように再び桜色の唇を開いた。
「あの、ええと、その、ト、トモダチ、になって…? あっ、私はフィルといって……わ、忘れてたけど、その、名前」
「うん」
彼の口から出たその言葉に覚えた感動を上手く表すことが出来なくて、返した言葉はそんな愛想のないものだった。けれど、何十年先であっても、人生で一番嬉しかった瞬間と訊かれれば、アレックスはきっとその瞬間を候補の一つに挙げるだろう。
アレックスの答えに、フィルは呆然と口を開けた。
「……え? ええと、トモダチ……」
「うん、なるよ、フィルの友達」
自分の答えに一瞬嬉しそうな顔をしたフィルは、次の瞬間には顔を曇らせ、不安そうにこちらを覗き込んできた。
「だけど、いいの? だって私、“アソブ”がどんなことか、多分よくわかってないよ……」
「? 遊ぶ?」
居心地悪そうになったフィルに少しずつ話を聞いて、事情がわかった時には既に日は傾いていた。
フィルは感情がそのまま表情に出て、考えていることもすべて口をついて出る。少し普通と違う気はしたけれど、元々の性格がいいのだろう、嫌な感じはまったくしなくて、それどころかどこかほっとさせられる。一緒にいて楽しくて、時間を忘れた。
「じゃあ、また明日から一緒に遊ぼう」
自分のその言葉にフィルが顔を輝かせる。
そうして、アレックスの夏は始まった。
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