1-7.異同
「おやすみなさい、アレックス」
フィルは昔と同じように柔らかく笑って、だが、昔と違って頬におやすみのキスをしてくることなく、傍らのベッドへと横になった。
「……おやすみ、フィル」
(同じ台詞だな……)
昔の“お泊り会”の時のそんなやり取りを思い出して小さく笑うと、アレックスも身を横たえた。
「……」
それから既に三時間。アレックスは全く襲ってこない眠気に諦めを抱いて、長く息を吐き出しながら身を起こす。
窓越しに部屋へと注ぐ、頼りない星明かりの中、昨日までは誰もいなかったベッドの上で、毛布の塊が微かに動いている。
意識もしないまま、それをじっと見つめてしまって、数十秒後。
「……っ」
はたと我に返って、アレックスは片手で口元を押さえながら、思わず天を仰いだ。
(とりあえず水でも飲もう。そうすれば少しは落ち着くだろう……)
そう思いついてベッドから足を下ろした。
水を飲むついでに顔も洗い、額に張り付いた髪をかき上げながら、搾り出すように息を吐き出す。
想像だにしていなかったことが起きた一日だった。
確か昨日の同じ時間には、長期休暇をとる算段をしていたのだった。新人が自分の相方になるなら、半年は難しいかもしれない、と。
だが、その休暇をとろうと思った理由になったその人が、自分のその相方……。
(――現実、か? 本当に?)
アレックスは引き寄せられるように寝室へと戻ると、反対側の寝台へと目を向けた。近づいて行って覗き込む。
視界に映るのは、先ほど目にしていたものと全く同じ――毛布の間から零れて広がる金色の髪、その合間から覗く額の傷跡。
「……」
(本当に、フィル、だ。ここに、俺と同じ空間にいる……)
アレックスは魅入られでもしたかのように、彼女の顔を見つめた。
闇の中でなお艶を放つ唇、星明りに影を落とす睫毛、すっと通った鼻梁。
……はともかく、規則正しい呼吸音、時々むにゅむにゅ動く口元、あどけない寝顔……。
「……寝ている」
完全に、そりゃあもう完璧に。
「それは……それは本当にどうなんだ、フィル……」
フィルのその様子に、思わず口元を引き攣らせると、アレックスはつい呻き声を漏らした。
無防備すぎる。それは疑う余地無くその通り。
信頼された。それもそうかもしれない。最初こそ緊張していたようだったが、そのうちにフィルは自分のペースを取り戻していたように思う。広くはない部屋を説明するのにアレックスの後をくっついてきて、目が合うたびに人懐っこく笑っていた。
懐かれた。それも多分そう。アレックスをあの『アレク』だと気付いた様子はないのに、見せる表情がそのまま同じだった。
問題は、そこから推測されるその理由だった。
推測その一、男だと意識されていない。
「結構、もてるようになったんだが……」
アレックスは情けない息を吐き出しながら、フィルのベッドに腰を下ろした。
以前のように、女の子に間違えられる事は全くなくなったし、可愛い少年と思われて、おかしな男に付き纏われることもなくなった。
女性から告白されることだってない訳じゃない。気遣いするばかりであまり嬉しくはないが、それでも、自分が男らしくなっていっていると多くの人が認識してくれているのだと思えば、それなりに有難く思うことが出来た。次に会う時、フィルももう自分を女の子のように扱ったりはしないだろうと……。
だが、その肝心のフィルはどうだ?
(さすがに女の子には見られてはいないようだが、男と意識するほどでもない、と……?)
彼女らしいと言えばらしいのだが、少し、いや、かなり落ち込む。溜め息をつくぐらいは許して欲しい。
だが、考えようによっては、もっとまずいのが推測その二だ。
「そういう感覚がそもそもない、とか……?」
“冗談じゃない”“やめてくれ”と思うのに、むしろそっちの方が有り得そうだと冷静な自分が告げてきて、それにアレックスは顔半分を引きつらせた。
八年前、フィルはアレックスを女の子だと思っていた。だから、『アレク、大好き』と満面の笑みで抱きついてくるのだと思っていたのだが……。
(ひょっとして、そもそも恋愛感情とかそういう方面の事情とか、理解していないのでは……?)
「……」
(そういえば、昔ザルアで一度だけ会ったフィルの幼馴染。あいつは明らかにフィルのことが好きだと一瞬目が合っただけの俺にもわかったのに、フィルはそう意味では無反応だった……)
「いや、待て、さすがにそんなはずはないだろう……」
と一人呻く。
(なんと言ってももう十六だ、フィルは。ずっと気にしていたのだから、間違えているはずがない。十六にもなって……)
「……」
普通ならあり得ないと笑い飛ばすところだが、あのフィル、そしてこのフィルだ。結論――有り得る。
アレックスは一人納得すると、大きく肩を落とした。
「アレク」
「っ」
八年ぶりに呼ばれた名に、脱力していた全身を凍りつかせて、恐る恐るフィルに視線を戻すと、白い顔には小さな微笑みが浮かんでいる。
「……」
(こんなに整っていたか……?)
昔のようにかわいいのに、綺麗でもあるその顔に、アレックスは言葉も思考も全て失ってしまった。
(まずい、かもしれない。子供のままだけど、そうじゃない……)
吸い寄せられたままの視線を追うように、アレックスはゆっくりと、起こさないようにフィルの額へと手を伸ばす。
「……っ」
指先が肌に触れた瞬間、全身に痺れが走ったように感じた。自分のその動揺で、フィルが起きるのではないかというほどの強さで。
だが、思わずうかがったフィルの寝顔に変化は見られない。息を吐くと、アレックスはその柔らかい髪を梳き始めた。
フィルがさらに幸せそうに笑って、つられてアレックスは笑いを零す。
今、自分の傍らで呼吸しているのは、焦がれ続けてきたあの初恋の彼女――
「……感謝すべきだよな」
会いに行く――その約束を守ろうと、この八年間、強くなることにばかり必死だった。
深く考えていなかったが、冷静に考えれば、フィルが恋愛感情に聡かったらまずいことになっていた可能性だって高い。誰か好きな人が出来たり、誰かの想いに気付いて、それに応えてしまったり……。
不快なその思考にアレックスは眉を顰め、それから、そう考えれば、フィルがそういう感情に疎くったってむしろ感謝しなくてはならないのだろう、と息を吐き出した。
「……ゆっくり行こうか、フィル」
何年も何年も待って、何の奇跡か、君が今晩俺の側に居る。
その長さに比べれば、その間君に会えなかった辛さに比べれば。そして、君が今ここにいてくれることを思うなら、君が俺を知らないことも君が恋を知らないことも、きっと大した問題じゃない。
(そうだ、この先、があればいい……)
アレックスは人差し指を微かにフィルの頬へと押し当てる。
(この先、“俺”を知って欲しい、フィル。そして、いつか……)
――いつか俺に恋をして。俺が君をずっと想っているように。
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