1-6.誓い

 動揺で頭を真っ白にしたまま、昼食も忘れて自室に戻り、あれからアレックスはベッドに腰かけている。

 

 前屈みになって両手を膝の上で組み、ひたすら木製の床を見つめる。

(……フィル、だった、よな?)

 すべきことも考えなくてはいけないこともあるはずなのに、頭に浮かんでいるのは先ほどの彼女の姿だけ。

 金の髪、意志の強そうな深い森の緑の瞳、そして額の傷――すべてフィルだった、あの。すごく大きくなっていて、こっちを見て「アレク」、と。

 

(忘れられて、いなかった、覚えていてくれた……)

 ――ダキシメタイ。

「っ」

 やっと動き出したそれは、思考というより衝動だった。音を立ててベッドから立ち上がり、ドアに向かう。だが、アレックスは目の前から響いたノックの音に停止した。

 

 奇妙な予感と共に返事をして、なんとか開いた扉の向こう――現れた彼女のその姿に再び固まる。

「……っ」

 双瞳の緑色も視線の強さも、やはり記憶そのまま――。

(ああ、本当に、あの、フィル、だ。やっと、やっと会えた……)

 だが、アレックスがその事実に泣きそうになるのを必死で堪えている間に、

「失礼いたしました。それから先ほど助けていただいたこと、お礼申し上げます。私はフィル・ディランと申します。今日から301号室でお世話になることになりました。あなた付きの従騎士を勤めるようにも拝命しております」

 ――彼女はきっちり挨拶をした。

 

「……」

 情けないことに、しかもこれまでほとんど経験したことがないというのに、本日二度目、頭が真っ白になった。

「……ディラン?」

 まず彼女が名乗った名に混乱した。……他にも色々あった気がするが。

「すまない。俺は、」

 それでも、口は常識に従って動き、返すように自己紹介をし始めて……名前で躓いた。

 フィルに意識を完全に奪われていたせいで、口を開いた意味に今更ながらに気付き、緊張に額に汗を滲ませる。

「アレク、サンダー」

 だが、気付くだろうと思ったのに、見つめ続けたままの彼女の表情に変化は無い。

「フォ、ルデリーク」

 少し違和感が掠めたものの、さすがにこれで気付くだろうと思ったのに、

「よろしくお願いいたします、えと、フォ、フォルデリークさま?」

 気付きもしないで、しかも、こちらの混乱なんて全くお構いなしに、言い難そうにアレックスの家名を口にした後、フィルはにっこり笑った。


「……」

 一瞬、素で呆然としてしまった。人生でそんな状況に陥ったことなんて、数えるほどしかない。

(そう、いえば、その数度もすべてフィル絡みだった……)

 ああ、名前がなんだろうとそんなところこそまさしくフィルだ、と感じて、アレックスは脱力してしまう。いつだってフィルは人の気なんてお構いなしだった、と。



 何とか動揺を収めて彼女を部屋へと招き入れ、そこでようやく重大なことに気付いた。

(待て――301号室で世話になる……? つまり、暮らす、のか、ここで? 俺、と……?)

 恐る恐る確認したアレックスに、フィルはにこやかに肯定の返事を返してくる。

 その顔を可愛い、懐かしい、そう思ってしまってから青ざめた。戸惑っていたってああやってフィルに微笑まれると、いつも自分に選択肢はなくなった。それは八年経った今も変わっていないらしい。

「……」

(問題は山のようにある気がするが、それが何だろうと、俺にフィルのこの顔を曇らせることが出来る訳がない……)

 目の前の彼女の顔を見つめて、自身に対する諦めとも決意ともつかない覚悟を決めると、観念して彼女に部屋の説明を始める。

 そして……

「アレックス」

 最後に、照れたようにはにかんだフィルに名を呼ばれ、再び心臓を強く跳ねさせた。

(――本当にあのフィル、だ。今目の前にいる……)

 そう実感した瞬間、他の全てが取るに足りないことに思えて、アレックスはただ感情のままに微笑み返した。



* * *



 だがしかし、彼女だと確信はしたものの、何がどうなっているのか、そして、何をどうすべきか、せざるべきかアレックスは引き続き悩んでいる。


 あの後フィルとポツリポツリと話をした。お互いのベッドに腰をかけ、彼女が淹れてくれたお茶を手に、ゆっくりと、日がすっかり翳って室内のランプに火を入れなくてはいけなくなるまで。

 フィルは、そのままだった。時折頬を桜色にしてはにかむ顔も、何かを不思議に思うと思いっきり眉を顰める癖も、まっすぐこちらを見て話す目線の強さも、陽気な空気も何もかもが変わっていない。


(本当に、フィル、だ……)

「あの、アレックス、制服が届いたんですけど、青色なんです」

「最初はその色で、半年後に正騎士になったら黒に変わるんだ」

 風呂から上がった自分の目に映るのもやはり彼女。

「あ、私もシャワー頂いていいですか?」

「……あ、ああ」

 大きく、彼女に相応しいぐらい強くなったら、もう一度会いに行こうとしていた彼女が今そこにいる。

 

 だが、引っかかる点は大いにある。着替えを抱えて部屋を出て行く彼女を見送って、アレックスは眉を顰める。

 

 第一に、フィルは自分をあのアレクだと全く認識していないようだ。先ほど「アレク」と呟いたあれは、勘違いもしくは聞き違いか? しかもフォルデリークという名にも反応していなかった。

(もしかして……知らない、とか?)

「……」

 アレックスの実家は、この国で最も有力な公爵家の一つだから、普通なら有りえないと一笑に付すところだが、彼女なら、フィルなら有り得そうな気がする。

 彼女の性格や育った環境、昔出会ったザルアナック老伯爵の言動と伝え聞く逸話の数々を思い浮かべ、アレックスは右手を額にやった。

 大体さっきのあの態度。八年会ってなかっただけで、あのフィルが演技することを覚えて、さらにあのレベルまで完璧に感情を隠せるようになるとは絶対に思えない。そもそもそんなことをする必要などどこにもないはずだ。

(つまり知らないんだな、フィル……)

「それはどうなんだ……?」

 少し顔を歪めてしまったのは、仕方のないことだと思う。

(じゃあ、“アレク”は、彼女の中でずっと女の子のままということじゃないか……)

 

 第二に、アレックスはフィルに、自分をあのアレクだと認識して欲しくない。まだそうだと言えないから。だから、今の状況は自分にとって都合がいいと言えば都合がいいのだが、アレックスは会ってすぐフィルとわかったのに、フィルは自分に気づいてくれない。その事実を恨めしくも思う。

 

 第三に、彼女が「フィリシア・フェーナ・ザルアナック」ではなく、「フィル・ディラン」と名乗ったこと。

 さりげなく家族について尋ねた時も、寂しそうに笑って、祖父母以外は元々いないようなものだし、その彼らも既に亡くなった、と答えた。

 彼女の祖父、ザルアナック老伯爵が亡くなったのは五ヶ月前。それから、彼女に一体何が起きたのだろう? アレックスの両親は、『フィルはザルアから戻ってこないようだ』と言っていたのだが……。

 だが、フィルの顔が今にも泣き出しそうに見えて、動揺してしまい、結局それ以上追求することができなかった。

 

 第四に、男しかいないはずの騎士団になぜ彼女がいるのか。

 そして、今アレックスが直面する最大の問題はこれに起因する。即ち、フィルと同じ部屋で過ごすことに問題はないのか、ということだ。

 この配置は、アレックスの剣の師でもあるポトマック副騎士団長の思惑だろうか? 彼はフィルの祖父であるザルアナック老伯爵の弟子。ならばフィルのことを知っていてもおかしくはない。

(だが、彼女の性別は? 俺との関係は? すべてご存じなのだろうか……)

 

 自分のベッドに腰掛け、両膝に肘を突いて組んだ両手を前に、アレックスは露骨に顔を顰めて溜め息をつく。

 ベッドは部屋の端と端、机やクローゼットと対になって対称に並べてあって、部屋には洗面所兼脱衣所とシャワールームが備え付けられている。

 とりあえず、少しでもフィルが安心できるように、脱衣所に鍵をつけてやろうとは思っているが、それは自分がやましい行為に及ぶという意味ではないと誓って言える。あのフィルを泣かすなんて言語道断だ。絶対にしない。

 だが、彼女と同室という状況にうろたえてしまっているのも事実――。

 

「……」

 しっかり拭き切らないまま放置していた髪から、冷たくなった滴が頬を伝った。その感触にアレックスは幾分冷静さを取り戻す。

 この八年間でまったく女性の経験が無いわけじゃない。恥をかかない程度の経験はあると思うし、今更女性にうろたえるほど場慣れしていない訳でもない。

 それに、と溜め息混じりに思う。

「お茶飲みますか?」

「……ああ」

 濡れ髪のまま、脱衣所からひょいと顔を出したフィルの顔に、そういう類の警戒は一切無い。彼女の方は残酷なまでに普通だ。

 アレックスのほうは寝着の上からであっても、顔以外の部分を見ないように必死に気を使っているというのに。

(その無防備さは本当にどうかと思うのだが、フィル。相変わらず能天気というか……。同室が俺じゃなかったらどうする気だったんだ……)

「……」

(――他の男と、フィルが同室?)

 思い浮かんだ不快な想像に、アレックスは目を眇めた。

 

 楽しげな足取りなのに、猫のように音も無くキッチンに消えていく後ろ姿を見つめる。

(あれはあの日、死にそうな状況の中で必死に自分を庇った背中――)

「……」

 アレックスは息を吐き出しながら、ベッドに仰向けに倒れ込み、顔に降り注いできた窓越しの月明かりに目を細めた。

 事情も、フィルが何を思ってここに居るのかも、まったくわからない。それを訊ねるべきか、そうでないのかすら判断できない。


 昨日まではなかった茶の香りが、キッチンから部屋へと漂ってくる。

(だが、これだけは確実に言える……)

 それから、アレックスはもう一度フィルが今いる方向へと視線を向け、拳を額の上にやると、ぐっと握り締めた。

 

 ――今度は俺がフィルを守る。

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