1-3.思い出

 フィルは山深いザルア地方のさらに山奥、高山の連なるザルア山脈の麓で、祖父母と屋敷の管理人夫妻と共に育った。

 頻繁に魔物が出るようなその場所で、フィルは物心ついた頃には既に剣を握っていた。

 大人に囲まれて、来る日も来る日も勉強と剣の修練を重ねて過ごす日々の中で、管理人夫妻について訪れるようになった小さな町。そこの子達と接する内に、自分が彼らと違うと気付いたのは、まだかなり幼い時だったように思う。

 

 違いの一つ目は、オカアサンなる人が自分にはいないということ。

 二つ目は、オトウサンは普通自分と一緒に暮らすものらしいけど、暮らしていなくて、自分と一緒に暮らしている人達――爺さまはそのオトウサンのオトウサンで、婆さまはオトウサンのオカアサンらしいということ。ついでに一度会ったことのある、兄さま(オニイサンというらしい)も、本当は一緒に暮らすものらしい。

 三つ目。自分はキゾクで、ゴリョウシュサマの子なるものらしくて、他の子は違うらしい。

 四つ目。剣を習うのは男の子のすることで、女の子はしないらしい。でもフィルはイチオウ女の子らしい。

 五つ目。だから、自分はフツウではなくて、ヘンらしい。そして、そんなフィルとは誰もトモダチになってくれないらしい。ちなみに、トモダチとはオジイサンやオニイサンとは違っていて、同じ年頃の血の繋がっていない子で、一緒にアソブ人らしい。

 

 町の子達から向けられる視線も、当時の自分にはよくわからなかった単語に満ちた言葉も、だからかあまり優しいものではなくて、フィルは彼らが苦手だった。

 ザルアの町に住んでいる管理人夫妻の孫は良い子達だったし、フィルと同じように小さかったけれど、フィルと一緒のところを他の子に見られると一緒に嫌われてしまうので、あまり一緒にいられない。しかも、その子たちのオトウサンがその子達に言うのを聞いたところでは、フィルはゴリョウシュサマの子だから、あまり仲良くしてはいけないのだそうだ。大人のジジョウというものらしかった。

 

 祖父母も管理人夫妻も楽しくて優しかったけれど、みんなフィルよりずっと大きくて大人で、フィルとは違っていた。

 みんなフィルが登れるような高くて細い木の梢にまでは一緒に行けないし、フィルが見つけた不思議な物の正体を知っていて、それを教えてくれるけれど、一緒にわくわくしたりはしない。みんなそれぞれに『しなきゃいけないこと』があって、しかもそれに何の意味があるのかフィルにはいまいちわからないし、一緒に出来たりはしない。

 それがつまらなかった。

 

 毎日稽古や勉強をして、それが終わった後、“しなきゃいけないこと”がない別邸の誰かと一緒に過ごして、そんな人がいない時は、馬のジャンと一緒にどこかに出かける。

 別邸のみんなは楽しかったし、ザルアの山だって色んな生き物がいて、植物だって不思議で、見ていて面白かったけれど、山守のロギア爺と知り合った後は彼だって時々相手をしてくれたけれど、なんだかちょっと寂しい。

 ――あの子に会ったのはそんな時だ。



 八歳になった春の終わりぐらいだったと思う。

 ある朝、ザルア湖畔にある別荘にお客さんが滞在することになった、と朝ご飯を一緒に食べていた祖父が言った。それが同じ年頃のキゾクの子だと聞いて、フィルはパンをかじりながら考えたのだ。

 詳しく聞こうとすると、婆さまは悲しそうな顔を、爺さまは厳しい顔をするし、オトウサンもオカアサンもオニイサンもどうにかなるものではないようだ。キゾクじゃなくなるのも、ゴリョウシュサマの子じゃなくなるのも、女の子じゃなくなるのも難しいらしい。でもトモダチは? 

(何とかなる、のかな? その子もキゾクだっていうし……)

 

 だから、その日の剣の練習を終えて遅めのお昼ご飯を食べてすぐ、フィルはジャンを駆って一目散にその子を訪ねていった。

 町の子たちは、フィルがフツウジャナイからトモダチになってあげないって言っていたけれど、その子は町の子じゃないし、わからないかもしれない。ひょっとしたらフィルの初めてのトモダチになってくれるかもしれない、そう期待した。

 

 そうして、辿りついた湖畔にジャンを放して、いざトモダチになりにゆかんっ、と別荘に一歩踏み出したところまでは良かった。

「……あ」

 そこでフィルは一つまた思い出した――トモダチとは一緒に“アソブ”ものらしい。

「でも、アソブ……」

 耳にしたことはある。祖父母がそう言うのも聞く。けれど、どういうことかと改めて考えると、はっきりわからなかった。


 どうしても失敗したくなくて、うまく“アソブ”ことができるように心構えをしてから、その子に会いたかった。

 だから、春の午後の日差しを受けてキラキラ輝く湖畔を眺めつつ、うずくまって考えてみたけれど、どうにもアソブの正体がわからない。ブツブツと地面の草を引っこ抜きながら、「アソブ、アソブ」と繰り返してみても、もちろんわからないし、町の子達がしていることを思い出してみても、自分が言われた時の状況を思い返しても、何か共通することがあったようには思えない。

 ああ、みんなが当たり前に知っていることがわからないから「フツウ」じゃなくて、「トモダチ」になれないんだと思ったら悲しくなってきて、地面に突っ伏して泣き出してしまった。

 

「何してるの?」

 涼やかな声にはっとしてフィルが顔をあげると、日傘を差した、触れれば消えそうな華奢な子がこちらを覗き込んでいる。

 瞳は真っ青で透き通っていて、すごくすごく奇麗だった。髪は肩で切り揃えられた艶やかな黒色で、でもさらさら風に靡いていて、真っ白な肌の中にある桃色の唇がとても印象的だった。管理人夫妻の孫の一人が時々やってきてはフィルに見せていく絵本の中のお姫さまみたい。ドレスじゃなかったけど。

 その子――長い名前だったので、略してアレクと呼ぶことにした――はびっくりして固まっていたフィルの頭をポンポンと叩いてくれて、安心させてくれた。それからクスっと笑って、取り出したハンカチでフィルの顔を拭い、透けて見えそうな白い指で、髪についた草っきれを丁寧に取り除いてくれた。

 そして、緊張して要領を得ないフィルの話を根気良く聞いてくれて、傾いて湖に落ちていく日の光を横顔に受けながら、フィルと“友達”になってくれると言い、「明日から一緒に“遊ぼう”」と笑ってくれたのだ。

 

 その日からアレクは、誰よりなにより大事な友達だ、フィルにとって。


 絵本の中のお姫さまみたいにドレスなんて着ていなくたって、アレクはうっとりするくらい可愛いらしくて、でも綺麗で優しかった。笑ってくれるとフィルはいつだって、ドキドキして幸せな気分になった。

 

 アレクは、フィルの気持ちを魔法みたいにフィルよりよく知っていた。祖父にやられて落ち込んでいたって、祖母に怒られて凹んでいたって、アレクと一緒に過ごした後は魔法みたいに元気になった。

 

 アレクはフィルを喜ばせる天才だった。「フィルが喜ぶかなと思って」と言ってアレクが見せてくれたり、教えてくれたりするものはフィルが本当に好きになるものばかりだった。

 

 町の子たちは、毎日剣を振り回しているフィルを「変だ」と笑うのに、「かっこいい」と初めて肯定してくれたのもアレクだ。

 

 アレクと色々なことを一緒にするうちに“好き”がいっぱい増えた。

 木登りも散歩も釣りも水遊びも森の探検も宝物探しも、いつもやっていることなのに、アレクが一緒だと特別楽しかった。

 山が綺麗に見えるフィルの特等席の木の上や、山間の谷にある秘密の花畑。真っ暗で先がどうなっているかわからない洞窟と、森の奥の秘密の山桃の木。いつも行く場所もアレクと一緒に行けば、ますます“すごい所”になった。

 いつも見ている太陽も空も星も月も山も森も湖も、2人でいるだけでまったく違った風に見えた。

 

 本をたくさん読んでいるというアレクは色々なことを知っていて、アレクが教えてくれたことを祖父母に話すと、びっくりされて感心されて、それが自分が褒められるより嬉しかった。

 

 一緒にお泊りだってして、お菓子を失敬したり寝たふりをしたりしながら、二人で話をして夜更かしした。当然翌日怒られたけれど、アレクと一緒ならどうってことはなかった。

 

 山守のロギア爺のところにも一緒に行った。二人で聞く魔物の話はいつもよりずっとわくわくしたし、そこにいる頭はいいけど性格の悪い魔物にからかわれたって、アレクが慰めてくれるからいつもより落ち込まなかった。

 

 アレクは体が弱くて、でもフィルがそれを忘れて森の中を連れまわした翌日、高熱を出して倒れてしまった。それなのに、アレクは横になっているベッドの中から、「楽しかったよ、また行こう」と笑ってくれた。

 

 喧嘩して心細くて仕方なかった時は、仲直りにぎゅっとしてくれた。それがとっても温かくてフィルはちょっとだけ泣いて、それから喧嘩が嘘のように一気に幸せな気分になった。

 

 祖父母はアレクを屋敷に連れて来いと言ったけれど、一緒にいる時間が減るのが嫌で、祖父母に彼女をとられてしまうのも嫌で、そう言ったら祖父母は大笑いしていた。それぐらい一緒に居たかった、そんな大好きな、大好きな、大事な友達。

 

 だから、フィルにとって八歳の夏は特別だ。

 

 まだ、フィルが弱くてアレクをちゃんと守れなかったせいで怪我をさせてしまった上に、もうザルアには来られないと言っていたけれど、もう八年も彼女に会っていないし、彼女が今どこにいるかも知らないけれど、それでもアレクがフィルにとって特別なことに変わりはない。

 

 だって、アレクは『いつかまた会える、フィルのところに行く』と言ってくれた。アレクはフィルに誰かを守れる力を持つってすごい事だと言ってくれた。

 だから、今度会う時までにはちゃんと強くなって、今度こそちゃんとアレクを守る。そうすれば、今度はきっとずっと一緒にいられる――これがフィルの特別なおまじないなのだ。唱えればどこまでも強くなれる気がする。



* * *



「アレク……」

 静かに近寄ってきたその人を見つめながら、フィルは呆然と呟いた。

 

 そっくりだ、と思った。でも、目を瞬かせてもう一度その人を見た瞬間、全然違う、とも思った。

 アレクは優しい妖精のような華奢な美人だ。あんな背の高い、鍛えた体躯の男の人である訳がない。目の前の相手はアレクと同じく美形は美形だ。髪も黒いし、眼も青い。でも、こんな凍えるような雰囲気じゃなかったし、あんな磨き抜かれた筋肉で、豹のように気配を消して動けたりはしなかった。肌だって光を反射しそうなくらい白かった。あんな風に日に焼けていたりはしない。

「許可外の真剣の使用は禁止だ」

 アレクはあんな風に無愛想に話をしたりしないし、

「……休みの日にまで口出ししてくんじゃねえよ」

「ならば口出しされるような行いは慎むことだ」

 アレクはあんな風に突き放すような物言いをしないし、

「さっさと行け」

 アレクはあんな風に威圧的じゃなかったし、

「……」

 アレクはこんな鋭い目で自分を見たりはしなかった。


 踵を返していく彼の後ろ姿をフィルは、左から吹く風に煽られて視界を遮る髪を押さえながら見送る。

 何より――アレクはきっと再会したら笑ってくれると思う。

 

「フィル」

 ヘンリックにおずおずと呼ばれて、我に返った。視線を落とした先の彼がなぜ申し訳なさそうな顔をしているのか、不思議に思う。

「フィル、ごめんね、貴族って聞いて……」

(そういえばあの人が来る前、そんな話をしてたんだっけ。なんせわからないことが多すぎる……)

 溜息をつきそうになったところで、八年前にアレクが言ってくれた言葉を思い出した。

 『ひとつひとつ、焦らないで。そしたら案外なんとかなるから』

(……そうだ、ひとつひとつ、だ。焦らない。だって、ようやく、やっとここから始まるんだから。今知らないなら、知っていけばいいだけの話なんだから――)

「あの、さ、フィル……」

 言いにくそうに続けようとするヘンリックを待たずに、フィルは最初に浮かんだ疑問を可愛い顔の彼に投じてみる。

「ヘンリック、近衛騎士団ってなに?」

「……え?」

 固まったのはヘンリックだけではなかった。


「う……」

 殺気だったまま鍛錬場を離れようとしていたスワットソンもその仲間も、解放される気配に浮上していた他の新人たちも、かなり先にいっていた長身黒髪青目の騎士も、とにかく全員が異様なものを見る目つきでフィルを振り返った。

(え、えと……な、なぜ?)

 周囲がさらに冷えた気がしたのは、多分日が翳ったせいだけじゃない。

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