第15話 これは、涙?

 「あのなぁ」戸惑いながらも、俺は言葉を探す。


「タカキ軍曹……ああ、二階級特進だからタカキ准尉か。あいつの発案だってことも分かっている。だからこそ、この場に居るお前に話をすべきと思って声をかけたんだ」

「ぜひ入りたい?」

「そこから離れろ! ……お前は、この読書会を一人でも続けるのか」


 イリエスがほんの少しだけ、眉を曇らせた。


「――読書会この活動が、軍規に違反する類のものではないと認識しています。リラクゼーションを兼ねた円滑なコミュニケーションの一貫であるとタカキ君、いえ、タカキ准尉から教わりました。ですが、少佐としては問題に当たるとお考えなのでしょうか」

「問題はない。だがシンヨウが居なくなっては、コミニュケーションを取る相手がいないだろう。続ける名目が無くなる」


 イリエスは迷う素振りのあと、ややあって、答える。


「これはタカキ准尉の発案で、定例として設定されました。解散命令がない限りは指定時間に来なければいけません」

「その命令を出した人間は、もう居ない。継続も解散も決められない。だから、お前がどうしたいかによると俺は思う」

「私が、どうしたいか?」


 イリエスはキョトンとしていた。まるで腑に落ちていない様子だ。

 やはりか、と俺は心中でため息を吐く。

 彼女はまだ、この会のことを義務としか認識していない。

 亡くなった飼い主の言う事を聞いて待ち続ける犬のようだ。

 ただ縛られ続けるのは、憐れなことだ。

 この場は俺がなんとかしてやるべきだろう。


「お前がこの会を大切にしたいのなら止めない。だが、単に命令だとしか思っていないのなら、もう来なくていい」

「ですが、タカキ准尉からの指示です」

「あいつよりも上官の俺が解散しろと言っているんだ。承認レベルは俺が上になる」

「そう、ですか。分かりました」


 イリエスは素直に従った風に見えた。

 これで一人だけの読書会が開催され続ける不憫な光景は見なくなるだろう。

 俺は椅子から立ち上がる。だが、肝心のイリエスがその場に止まったままだった。


「どうした。もう戻っていいぞ」


 イリエスは反応しない。

 本を持つ手にギュッと力がこもっている。


「イリエス准尉」

「……わかりません」


 ポツリと呟くイリエスの瞳は、どこか虚ろだった。


「解散は理解しました。ですが、動けません。どうしてなのか、分かりません」


 錆びついたような動きで、彼女は見開きのままの本に目を落とす。


「これは、彼が好きだった本です」


 ぽつりと呟き、長い睫毛を伏せる。


「私は、好きという感情が、よく理解できません。この本を読んでも、何が面白いのかがよく分かりません」


 独白のような言葉を、俺は黙って聞いていた。


「だけど、彼が面白いと語るその姿を見ていると、私の中の何かが暖かくなるような気がしました。はじめは、どうして物語を読もうなんて誘われたのか理解できませんでしたが、私は彼のその姿を見ているのが心地よくなっていきました」


 淡々と、抑揚のない声だ。

 それでも俺には、彼女の寂寥がありありと感じ取れた。


「はじめは簡単な絵本を読んで、面白い、という感情がどんなものなのか、少し分かりました。次に児童文学を読んで、物語に引き込まれるという感覚を味わいました。タカキ君は私に色んなことを教えてくれた。これからもずっと、そんな日々が続くのだと、漠然と考えていました。でも……」


 ぽたぽたと、見開きの本に雫が落ちて染みこんでいく。


「もう彼から教わることがないのだと思うと、とても残念です。少佐、これは、この感情は、どう呼べばいいのでしょうか」

「――未練だよ」

「みれん」


 復唱したイリエスは、ハッとして自分の目元を指先で触る。


「これは、涙?」


 濡れた指先を見つめたイリエスは、それを初めて知ったというような表情だった。

 いや、文字通り初めての経験なのだろう。


「タカキ君は、最後に教えてくれたのですね……未練と、泣くということを」


 本を閉じ、そっと抱きしめたイリエスは、辛そうに眉根を寄せていた。


「少佐。私はまだ、自分の気持ちがよくわかりません。でも、読書会を失うことは寂しいことなのだと、思います」

「……お前が続けたいなら、止めはしない」

「ありがとう、ございます」


 俺は頷き、足早に食堂を出ていく。

 離れたところで、廊下の壁をダンと拳で叩く。

 胸の中に怒りがこみ上げていた。

 それは、自分自身に対してだ。

 本来ならイリエスが自分の涙や感情を自覚するイベントが、もっと後に来るはずだった。

 それを見るのはシンヨウの役目だったし、こんな悲しい話で発生するやり取りじゃなかった。

 何より、イリエスの心の成長が確かに感じられたからこそ、それを止めてしまった自分の所業が許せなかった。

 親しい人の死を嘆き思い出の場所に縋ろうとするのは、人として当たり前の姿だ。彼女は人間らしくなってきている。

 なのにシンヨウがいなければ、その成長もここで止まってしまう。

 俺はアサミも、イリエスも不幸にしてしまった。


(こんな改変を俺は、引き起こしてしまったというのか)


 奥歯を噛みしめ、拳を強く握りしめる。

 爪が食い込み、血が出るほどに。

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