1. 灯る夢
鯨の夢を見た。
とはいえ、本当にそれが鯨だったのかはわからない。波間から頭を突き出し潮を噴き上げる様子をこの目で見たことはないし、浜に打ち上げられて不気味に膨らんだその亡骸を見たこともない。ただ、話として聞いたことがあるだけだ。
鯨は、何か思いもよらない力を利用しているかのように水中を静かに、そして滑らかに進んでいき、ときおり優雅にその身をくねらせたかと思うと、道なき道の曲がり角を正確に見極め、また滑らかに進んでいった。
そんな姿をはっきりと間近に見ることができたということは、その夢の持ち主も海の中にいたということで、実際、その巨大な生き物のすぐそばには、人間もいた。
周囲には、その男以外に人はいない。そして、彼がこちらへ話し掛けてくるようなこともなかった。
あちらこちらへ動き回り、何かについて考えを巡らしているようなそぶりを見せる自分を夢の中で観察することは、そう珍しくない。けれども、そのときは違っていた。鯨と一緒に泳いでいた――あるいは、お互いがすれ違うひとときの間を鯨と共有していたその男の顔は、記憶にないものだった。
彼はどこから来たのだろうか。道端で見掛け、その後一度も顧みられることなく、頭の片隅にじっと隠れていたのだろうか。それとも、混じり合った顔料が思いもよらない色を垣間見せるように、いままで知り合ってきた人たちを素材として作られた、既知でありつつも未知なる人物なのか。
どこか気になる、不思議な夢。
とはいえ、その鯨と男の出会いの一幕自体は、なんら奇抜なところのない、むしろ穏やかな気持ちになれるような、のどかな光景であるといえた。
……そこまでは。
鯨に続いて登場してきたのは、象だった。
象は実際に見たことがある。大きな体。大きな耳。大きな鼻に大きな足。それはどこからどう見ても象だった。けれども、水中に?
夢の中でもそう思った瞬間に、周囲の光景は海から陸へと変化していた。
乾いた土。暑い気候を思い起こさせる細長い木々。遠くにはさきほどまでいた場所なのかもしれない海と砂浜が見えていて、そういう点では切れ目のない場面転換といえたけれども、陸には象だけでなく、鯨も一緒に移動してきていた。ごく当たり前のように。濡れた体を陽の光に輝かせて。
象たちはその数を増していて、ひとところに集まり後ろ足で立つと、前足と鼻で鯨を持ち上げ始めた。まるで一つの演目のような光景だったけれども、驚きの声を上げ騒ぎ立てる観客はなく、厳かといってもいい、静かな雰囲気だけが周囲に満ちていた。
そして、夢はそこで終わった。
何故、そんな夢を見たのだろうか。
原因の一つは、ここへ訪れるのに利用した乗り物――土竜にあるかもしれない。土竜とは旧時代の遺物の一つであり、それを利用しているときの、暗く狭く、そしてくぐもったかすかな音の続く時間が、海の深いところに広がる無辺の空間を思い起こさせた可能性はある。とはいえ、象は――。
「あの……」
そう呼び掛けられて、衛生士アユースは目を開いた。揺れている馬車の内装。上部へ折り畳まれた幌の襞。その下から見渡せる種々様々な自然。そして席に座っている衛兵。
「お休みのところすみません、導師様。もうすぐ着きますので……」
「うん、ありがとう」
目的地は遠くないと言われていたのに、ほんの少し目を瞑った瞬間に寝てしまっていたのだ。やはり、少し疲れているらしい。
アユースは外へ目を向けた。夕暮れの赤い陽。茶色の山肌。けれども草木の緑は瑞々しい。このあたりはそれほど起伏が激しくなく、斜面と川を挟んだ向かい側にも同じように道が通っていた。そこを進んでいく馬と人の一団。隊商だろうか、荷物が多い。いや、馬と思ったが騾馬かもしれない。あるいは驢馬か。
「衛兵さん」アユースは彼に顔を向けた。「お手数を掛けます。こんなところまで一緒に来ていただいてしまって」
「い、いえいえ、とんでもありません」首を何度も振る。「導師様と一緒の馬車に乗れるなんて、光栄です」
この若い衛兵の乗車は予定になかった。本来は派遣された護衛がその席に座っているはずだったのだが、土竜の運行の乱れにより到着の時間がずれ、しかもその護衛はいち早く目的地――この道の先にある村へ向かってしまい、結果として彼がその代わりを務めることになったのだ。
「導師様はどうしてこちらへ?」衛兵が会話を続ける。「視察でしたら海辺のジェルムのほうが栄えていますし、色々なものを見られると思いますが……」
「この近くにあるという古い教会に行ってみたいんです。以前、文献で読んだときに興味が湧いて」
「ははぁ」何故か大きく頷く。「研究のために、ということですか?」
「そんな、立派な目的ではありませんが」思わず苦笑い。「……村の名前は何と?」
「え……」口が半開きになっている。聞き間違えをしたと思ったのだろう。
「すみません。その教会があるということ以外は、何も調べていなくて」
「いえいえいえ」またもや首を何度も振る。今度は手も一緒だ。「あの、ウィラーフィルです」
「囀り村、という感じでしょうか」
「あぁ」感心したような表情。「さすが導師様です。エリアナ語をご存じなのですね」
「少しだけですよ」指で小さな隙間を示す。
「
「いえ、ほとんど初めてです」
新天地とは、ここエリアナ大陸の新しい呼び名である。荒涼とした乾燥地帯が土地の多くを占め、過去には山岳部やわずかな湿潤地帯にいくらかの人々が細々と暮らすだけの静かな地だったが、現在は他国から海を渡って移住してくる者が増え、まさしく新天地という名に相応しい場所となりつつある。
「どんな村なのか、もし宜しければ教えていただけませんか?」アユースは尋ねた。
「も、もちろんです」息を整え、背筋を伸ばす。「もともとは、山間に自然と出来上がった小さな集落だったようです。地滑りや流行り病、作物の不作など、苦しい生活をずっと続けてきた村でしたが、政府の援助もあって段々と生活が安定し、近頃はジェルムの発展とともに、内陸側の交易路、その拠点の一つとして栄えてきているようです」
「なるほど」
「あとは……名物は鯰の香味揚げ……です」
「美味しそうですね」
しばらく馬車に揺られていると、道の脇に建てられた小屋が見えてきた。少しのあいだ、御者がその横で誰かと話をしていたので、もしかしたら守衛所のような場所なのかもしれない。
その考えは当たっていたようで、道に覆いかぶさるように茂っていた木々は段々と少なくなり、代わりに木造家屋が姿を現し始めた。道行く人も多くなり、行商人や農民、そして客引きだろうか、こちらをちらりと見てすぐに諦めたような顔を見せる者もいた。
村の広場に当たる開けた場所に行き着くと、馬車はそこで動きを止めた。衛兵は、どこかにいるはずの護衛が来るまでそばにいると申し出たが、あまり任務外のことをさせるのも悪いと思い、丁重に断った。
「それでは導師様、道行きに慈しみがありますよう」
そう言うと、衛兵は胸に両手を当て、指を交差させた。慈愛の民――慈教が用いる礼だ。
去っていく馬車をしばらく見続け、そして一つ大きく息を吐くと、アユースは周囲を見渡した。賑やか、とまでは言えないが、小さいながらも確かな活気がそこにはあった。外壁に設えられた、あるいは庇から飛び出ている色鮮やかな看板がいくつか目につく。村の者よりも、外から来た者を誘うためのものだろう。
もちろん、自分もその一人に当たる。
自由か、と思わず独り言が漏れた。
何をしても良い。それは素晴らしいことのように思えるかもしれないが、いざそれと相対すると、なかなかに手強い相手であることが多い。少なくとも、経験上はそうだ。
そんなことを考えていると、思わず心が身構えそうになったが、周囲のささやかな喧噪は、その緊張をほぐしてくれた。
アユースは小さく微笑むと、背伸びをした。
良い滞在になりそうだ。
そう思ったそのとき、背後から呼び声が聞こえた。そちらを振り向くと、帽子を被った髭面の男がこちらへ走り寄ってきていた。
「導師様、ああ導師様。どうかお助けください」
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