2. 常ならぬ事
駆け寄ってきた帽子の男は、この村の長だった。名はジーソン。
遠くからでもこちらが衛生士とわかったのは、首元につけた装飾品、衛生士の証ともいえる白い布のおかげだろう。
「導師様、御到着早々に申し訳ありませんが、是非お力を貸して頂きたく……」
そう言うと、彼は深々と頭を下げた。背中が丸まり、一瞬にして背が縮む。そんな姿を晒しているからか、あるいは単に村長が広場にいるからか、周囲を行き交う人々が視線を向けてきていた。少し恥ずかしい。
「どうか、どうか……」頭を下げたまま呟くように言う。
「はい……あの、僕にできることであれば」
「おお、ありがとうございます。では、向こうへ」
ジーソンはようやく頭を上げると、顔をこちらにちらちらと向けつつ、広場の奥、村の入り口からは遠ざかる方向へ歩き出した。とりあえず後ろについていく。
「何があったのでしょうか?」アユースは肝心なことを尋ねた。
「はい。酒場をよそ者が占拠しているのです」
「占拠、ですか」
「店の得意先を偶然助けたとかで、無料で酒を振舞ってもらっていたらしいのです。しかし、昼から飲み始めてもう夕だというのに、てんやわんやの乱痴気騒ぎ」そこで首をゆっくりと振る。眩暈の酷さを量るように。「聖人も呆れる有り様です」
「酔っ払いということですね」
「はい」一瞬の間。「い、いえ。もちろん、ただの酔っ払いであれば、導師様のお手を煩わせようなどとは思いません。ただ……その男、転草のようでして……」
転草。
「確かに、それは暴れでもしたら危険ですね」
「そのとおりです」
広場から一つ離れた路地に入ると、酒場らしき建物がすぐに見えてきた。二階建て。椅子がいくつか並んでいる露台。看板には、雲雀亭、と書いてある。
アユースとジーソンは開け放たれている入り口の扉を通り、中へ入った。
やや薄暗い店内。遠慮のない話し声。酒と煙草と食べ物の匂いが入り混じった、なんともいえない空気。まさしく酒場の様相を呈しているが、手入れが行き届いているのか床や机の上は秩序を保っており、それほど如何わしい雰囲気はない。客はまばら。
「あそこです」
ジーソンが指差すほうを見ると、給仕であろう女を侍らせた男が一人、奥の机に着いていた。店内の喧噪は、ほとんどそこから発されている。
アユースは数歩そちらへ近づき、男を観察した。
肌着姿。上着は椅子の背からずり落ちたのか床に蹲っている。脚衣は幸運にもまだあるべき場所にある。どちらも一般の農民や旅人は身に着けることのない厚手の戦闘服であり、簡素ながらも刺繍の施された襟元などは、転草から支給される逸品であることを示していた。そんなことに考えが及ぶと、机の上に無造作に伸ばされた、既にふらつき始めた体を支えている上腕のその太さも、彼の並外れた力を物語っているように思える。
とはいえ、男は人里に迷い込んだ獣のように暴れているわけではない。酔っ払いとして正しく酔っぱらっているだけである。ほかの客たちも、敵意の視線を向けるでもなく、むしろ見世物として楽しんでいる様子だ。まぁ、一人二人は訝し気に見ているけれども……。
とにかく、占拠という言葉は似つかわしくない状況である。
「さぁ、導師様」ジーソンが小声で言った。「何かあの男に訓戒を」
「そのまえに、あの人は名乗ったりはしていませんか?」
「え……あ、確かイスアムと」
「それは僕の護衛の名ですね」
数秒後、二人は外に出ていた。
「いやー、ははは」ジーソンが不意に笑い出した。「まさかまさか、導師様の護衛でいらっしゃったとは」
「あの、何か一言、声を掛けておきましょうか? 飲みすぎですよ、とか」
「いえいえ、それには及びません。存分に楽しんでいってください」
店のほうは迷惑を被っていないのだろうか。とりあえず、給仕は嫌そうな顔をしていなかったが……。
それにしても、護衛対象を差し置いて目的地に向かい、更に酒を飲み始めるとは、豪快な人柄である。こちらは全く気にしていないが、上の者に知られたら事だろう。もちろん、告げ口をするつもりはない。
「導師様」気を取り直したのか、ジーソンが落ち着いた口調で言った。「どこか、このウィラーフィルでご興味を持たれた場所はございませんか? 宜しければ、私が案内いたしますが」
「そうですか。あの、実をいうと教会――」
「あっ」ぱっと笑顔になる。「いまちょうど、この村では祝福調査を実施しております。様子を見に行かれるのはいかがでしょう?」
ジーソンが案内したのは、村の外れにある建物だった。古い牛小屋を改装したものらしく、奥行きのある空間の端に机が設えられているその光景は、奇しくも古い教会を思い起こさせた。
簡素な制服を着た者――判定員が二人、机に着いている。背後には仕立ての良い服を着た村の有力者や軽武装の兵が数人。机の向かいには農民であろう男と女が座っていて、彼らの後ろには十数人が列を作り、前のほうをちらりちらりと窺っている。
椅子に座っている農民二人はどちらも腕を伸ばし、判定員と手を取り合っている。そこに親愛の情が込められていないことは、彼らの不安げな表情が示していた。
…………。
それは、いつこの世界に現れたのか。
それは、どのようにしてこの世界に現れたのか。
人が持つ能力。
その能力を越える、新たな能力。
その原理も、原因も、限界も、何一つわかっていない。
人々はその力を受け入れようとし、手懐けようとした。まるで、それがはじめから存在していたもののように、それぞれの地における言葉で呼び、しきたりに沿って扱い、敬い、あるいは恐れた。
しかし、一部の者は違っていた。
彼らはそれをただ注意深く見つめた。これは何だろう、と。
西の砂漠の地ベリカト、学究の徒が集う天暒院では、それを秘術、あるいは単に能力や力と呼んでいる。なるべく普遍的な言葉を用いることで、偏った考えや印象が付与されるのを防ぐためだ。そして、新しい力が世界中で見られるようになった時期を大変革と名付け、その趨勢を見つめ続けている。
一方、同じくベリカトの衛生省は、それに対して他に類を見ない大規模な調査を発案した。新天地全域におけるその調査は一般的には祝福調査と呼ばれ、いままさに大陸中でおこなわれている……。
アユースとジーソンは建物を出た。外は既に夕闇に覆われている。
「導師様、いかがでしたか?」ジーソンが両手を揉みながら言った。
「ええ、人々の誘導も見事なものでした。しっかりと場を整えていただき、ありがとうございます」
「勿体ないお言葉です」笑顔を見せる。しかしすぐにその笑みは曇った。「ただ、問題がないわけでもないのです」
「何かあったのですか?」
「さきほどの雲雀亭もその一つですが、この村には宿屋を営む一族がいます。そこの一人息子が、二日まえから行方がわからなくなってしまいまして……」
「原因はこの調査にあると」
アユースの返答に対して、ジーソンは一瞬怯んだように見えた。
「……もしかしたら、そうかもしれません」やや俯いた顔。夕闇に沈むその表情は暗い。「家庭のいざこざもあるでしょう。その子はまだ子供といってもいい年齢です。私としても手は尽くしているのですが……」
「……それは大変心配ですね」
その後、しばらく沈黙が続いた。
ジーソンはたどたどしい口調でその問題の家の場所を伝えるなど、明らかにこちらの助力を求めていたが、村長としての自負に関わるのか、なかなかはっきりとはそれを口に出せないように見えた。酒場の件とは大違いの対応だが、そこに彼の性格が出ているような気もした。
結局、具体的な案は出ないままその話は立ち消えとなり、話題は今夜の寝床へと移った。ジーソンは自宅にある来賓用の部屋を勧めたが、アユースはその誘いを華麗に躱し、雲雀亭の二階に泊まることを選んだ。行方不明の一人息子についての情報を早速集めようとしているとジーソンは考えたかもしれないが、実際はそうではなく、単に一人で寝泊まりしたほうが周囲から気を遣われずに済むと判断しただけのことである。
ジーソンと別れ、雲雀亭に戻ると、護衛のイスアムは机に突っ伏していた。寝ているわけではなさそうだ。周囲になんらかの危険があるわけではないので、そのままそっとしておくことにする。
店に何か食事を作ってもらおうとも思ったが、二階に取った部屋に一旦入り、寝台に身を横たえると、すぐに眠気が覆い被さってきた。
柔らかな闇に落ち込んでいくときに考えたことは、至極たわいのないことで、それは村の名前についてだった。
囀り村というくらいなのだから、朝は鳥の賑やか声に迎えられるかもしれない。
しかし次の日の朝に窓の外から実際に聞こえてきたものは、何やら不穏な話し声だった。
どうやら、村で死体が見つかったらしい。
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