第二章 真雄くん一人ぼっち。

「健康な子どもって、そんなに、夏央くんに期待を寄せているんですか?」

香里さんは、思わずそう美佐江さんに言ってしまった。

「そういうことではないと思うんですけどね。真雄くんのことは、どうでもいいのですか?」

いくら香里さんが一生懸命訴えてもだめだった。美佐江さんの関心は夏央くんにしか向けられていない。それもまた事実なのである。

仏教では、人間ができることは、事実に対してどうするのかを考えることだけだと教えられているという。香里さんは特に宗教を信じているわけではなかったが、なんだかそう考えてしまわざるを得なかった。

香里さんは、一生懸命ピアノを教えている、美佐江さんと、疲れた顔をしてピアノの練習をしている夏央くんを見た。それと同時に、部屋の片隅でぽつんと本を読んでいるしかできない真雄くんを見た。もう特別支援学校に通っている真雄くんは、健常児の学校でも無いのだし、上級学校にも進学は望めないのだ。そうなると、頼みの綱は、健康な夏央くんとなってしまうということは、まあ、普通にあるのかもしれないが、、、。それにしても度が過ぎている。

香里さんは、ある一つの決断を下すことにした。こうでもしなければ、美佐江さんの視線は絶対真雄くんに向かれない。

その日は、冬にしてはやけに暖かい日で、のんびりと、道路を車や歩行者が歩いていた。なんだか、そういうおかしな気候が続いているから、人間の考え方も変わってきてしまうのだろうか。

美佐江さんは大学に行っていた。音楽学校で、ピアノの個人レッスンするのが、美佐江さんの仕事だった。音楽学校だから、演奏家を育てるというのが一番の目的なのだろうが、それ以外になんの目的があるんだろうかと思われる学科も結構ある。

その日の二時過ぎ、香里さんは、夏央くんを連れて、公園に行っていた。いつも、ピアノでがんじがらめにされている夏央くんには、こういうところで遊ぶなど、めったになかった。なので、公園に行っても、誰か友達と関わろうとか、そういうことはなく、香里さんのそばを離れなかった。

「こんなところに、いても仕方ないよね。」

と、香里さんは夏央くんに言った。

「そうだねえ。」

と、夏央くんは小さな声で言った。

「じゃあ、おばちゃんの家に行く?お菓子もあるし、カレーもあるよ。それでは、言ってみようか。」

香里さんは、にこやかに笑った。

「ウン、おばちゃんの家に行くよ。」

夏央くんは素直に応じてくれた。そこで、香里さんは、夏央くんを連れて、公園の駐車場へ行った。そして、夏央くんを車に乗せて、夏央くんの家とは、全く違う方向へ、車を走らせた。

それから、夜の18時近くになって、やっと大学から美佐江さんが帰ってきた。何でも会議があつて、大変だったらしい。でもそれも、自分たちがやっていくのと、真雄くんと、夏央くんを食べさせるためだと、美佐江さんは勝手に納得していた。

「ただいま。」

と、美佐江さんが家に入ると、真雄くんが車椅子でお母さんの美佐江さんを迎えてくれたのであるが、美佐江さんはそれを無視してしまった。そして、夏央くんにピアノのレッスンを始めると言ったのであるが、夏央くんの返事は来なかった。真雄くんに夏央はと聞いても、知らないと言うだけである。おかしいなと思った美佐江さんは、香里さんに電話をかけてみたが、何も繋がらなかった。いつも行っている公園にも行ってみたが、夏央くんの姿はない。不審に思った美佐江さんは、夏央くんがよく行く場所に、電話をしてみることにした。

杉ちゃんたちが、今日も利用者さんたちは、元気だったねえとか、話をしていると、いきなり、製鉄所の固定電話がなった。製鉄所と言っても鉄を作る施設ではない。ただ、居場所のない女性や、行くところがない女性たちが、勉強や仕事をするための、部屋を貸し出している福祉施設であった。中には、水穂さんのように、間借りをする人もいるが、大体の製鉄所の利用者は、自宅から通所で通っている。現在の利用者は3名で、一人は通信制の高校へ通い、もう一人は、銀行で事務の仕事をしている。そして最後の一人は、小説家を目指して、原稿を書いていた。

利用者たちの年齢は、どの女性も、20代から50代前後であるが、特に、年齢に上限も下限も設けられていないので、時々幼いこともが利用することもあるし、80代のおばあさんが利用していたこともある。そういうわけで、宮川夏央くんが、田沼武史くんと一緒に、宿題をやったりすることもあった。それで、夏央くんのことは、製鉄所を管理している法人の理事長のジョチさんこと曾我正輝さんも、影山杉三こと、杉ちゃんも、よく知っていた。製鉄所の固定電話はナンバー・ディスプレイを導入していたため、番号は、宮川家からのものであると、すぐわかった。

「はい。曾我でございます。」

ジョチさんは、受話器を取った。いきなり、女性の声で、

「お宅に、夏央が行ってない?」

と、聞こえてきた。ナンバー・ディスプレイがあったから、宮川さんからの電話だとわかっていたけれど、

「なんですか。まず初めに、自分の名前を名乗るのが、マナーでしょう。」

とジョチさんが言うと、

「ああ、すみません、宮川です。それよりも、夏央がお宅に製鉄所に行っていませんでしょうか?」

宮川美佐江さんは、えらく慌てて言った。

「それでは、姿が見えなくなったんですか?」

とジョチさんが言うと、

「はい。公園に遊びに行ったきり、帰ってこないんです。」

宮川美佐江さんは言った。

「はあ、この時間になっても帰ってこないというのは妙ですね。」

とジョチさんは、すぐに言った。近くで、縫い物をしていた杉ちゃんも、布団の中に寝ていた磯野水穂さんも心配そうな顔をしていた。

「それで、夏央くんからは何も連絡は無いんですね?」

ジョチさんが言うと、

「なんだか、事件が起きたようだね。心配だから、宮川さんのお宅へ行ってみるか。」

杉ちゃんがそういったため、杉ちゃんとジョチさんは、小薗さんに頼んで車を走らせてもらい、宮川さんの家に行った。

「宮川さんどうしたんです?夏央くんが帰ってこないって。」

ジョチさんは、宮川さんのお宅に上がり込んだ。杉ちゃんもそれに続いた。

「夏央が本当に帰ってこないのです。もしかしたら、なにかあったのかもしれない。」

と、美佐江さんは、ちょっと落ち着かない感じの顔で言った。

「まあよく考えてくださいよ。友達と遊んでいるとか、そういうことは無いんですか?」

ジョチさんがそう言うと、

「だってあの子は、さほど友達が多かった訳では無いし、田沼さんのところに電話しても、何も反応はありませんでしたわ。」

と、美佐江さんは言った。

「そうなんですか。まずは落ち着いてください、そうでなければ何も始まらない。」

ジョチさんがそう言うと、電話代においてあった、FAXが音を立ててなった。

「おいこれ、なんだろう?」

と、杉ちゃんが出てきたA4サイズの紙をジョチさんにわたすと、ジョチさんは女性の筆跡だと言って、内容を読んでみた。

「宮川夏央くんを預かった。身代金として、3000万用意しろ。受け渡しは、明日の一時。場所は富士市総合運動公園。」

杉ちゃんとジョチさんは、顔を見合わせた。

「ということはつまり、これは誘拐事件ですね。つまり、夏央くんが、誘拐されて、身代金として、3000万ということですか。すぐに、警察へ電話したほうがよろしいと思います。」

そう美佐江さんに言ったのであるが、美佐江さんはショックが大きすぎて何もできない様子だったので、ジョチさんは、固定電話を借りて、自分で警察に通報した。それからしばらくして、警視の華岡が率いる捜査隊が宮川家に入ってきた。誘拐事件ということで、テープレコーダーとか、携帯電話とか、刑事たちが、いろんな設定をしている。華岡が、お父さんにも戻ってきてほしいと言ったが、国会の仕事で忙しすぎて帰れないという返事だった。この父親の無関心も、ある意味では問題なのかもしれなかった。

「しかし、この脅迫状が、手書きで書かれているのなら、犯人が早く見つかるかもしれません。女の書き方であることもはっきりしていますから。」

と華岡が言った。美佐江さんは、そんなことも聞き入れることはしないで、

「どうか、早く、夏央が戻ってきてくれるのを願っています!」

と泣き腫らすだけであった。その言い方があまりにも感情的なので、

「ご主人を呼び出したほうがいいですね。」

とジョチさんは冷静に言った。すぐに華岡がスマートフォンで、父親である、宮川義男代議士のところへ電話をした。もう奥さんではどうにもならないと話をすると、宮川代議士は、帰ってきてくれるということであった。30分ほどして、宮川義男さんも帰ってきた。

「とりあえず、まず初めに金を用意しよう。夏央のためだから。」

と、義男さんは、すぐに銀行に電話をかけ始めた。そして、銀行員にお願いして、3000万を持ってきてもらうことができた。それがあまりにもスパッとできたので、宮川家は、相当な金持ちなんだなということがすぐわかる。

「身代金の受け渡しは、俺が行く。お前は、夏央が無事にいてくれることを祈っていてくれ。」

義男さんは、美佐江さんに言った。美佐江さんは、それしか無いという顔で、義男さんを見た。

それと同時に、またFAXがなった。今度は、義男さんがそれを取った。

「金は明日の一時、富士総合運動公園の、正面入口。人は置かないので、金だけ入口においておくように。」

ということは、誘拐犯が、取りに来るということだろうか?華岡がとりあえず、明日の一時に、金を持って、総合運動公園に行ってくださいといった。華岡たちも追いかけるという。

「上のお兄さんはどうされたんですか?」

と、ジョチさんは、宮川夫妻に聞いた。

「上のお兄さん。誰のことですか?」

と、混乱した顔で、宮川美佐江さんが言う。

「だから、宮川真雄くんのことですよ。彼だって、お二人の子供さんなんですし、今は常の場合では無いのですから、真雄くんのことも気にかけてあげたらどうですか?」

ジョチさんは、そう言うが、

「ええ、そんなこと、もうどうでもいいんです!」

と美佐江さんは言った。

「お前さんは、本当に、歩ける夏央くんのことしか見ていなかったんだね。それでは真雄くんが可哀想だと言われても仕方ないわ。それでは、どうする?」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。

「ご両親は、真雄くんのことは眼中にないみたいだし、真雄くんは、この家で一人ぼっちになるのも可哀想ですから、製鉄所で預かってやってくれるか?」

と、華岡がそういったので、ジョチさんと杉ちゃんはそうすることにした。

「そうか。じゃあ真雄くん、僕らと一緒に製鉄所に行こう。おはじきもあるし、お手玉もある。それにカレーもあるから、しばらく、事件が解決するまで、行ってようね。」

と、杉ちゃんが、部屋の隅で本ばかり読んでいる真雄くんに行った。真雄くんは、車椅子の杉ちゃんがそう言ってくれたので、助かったと思ったのだろう。杉ちゃんたちについてきた。両親の、宮川美佐江さんも、宮川義男さんも、気を付けて行ってねとか、そういうことは一切言わなかった。とりあえず、杉ちゃんが真雄くんを製鉄所へ連れていき、ジョチさんは事件の関係者として、宮川家に残った。

とりあえず、杉ちゃんは、小薗さんの運転する車で、真雄くんを連れて製鉄所に行った。もう真っ暗になっていたけど、連絡を受けた水穂さんが、真雄くんのために、牛乳寒天とカレーを用意してくれて待っていた。

「ほら、カレーだぞ。それに、牛乳寒天もあるぞ。手作りだから、うまいぞ。たっぷりたべろ。」

杉ちゃんにお匙を渡されて、真雄くんは、食べるのを最初は渋っていたようであるが、カレーのうまそうな匂いに我慢ができなくなってしまったようで、ついにお匙を受け取って、ガツガツと食べ始めた。

「すごい食欲だね。」

と、水穂さんが言うと、

「だって、カレーなんて、なかなか食べさせてもらったこともなかったもん。」

と、真雄くんは言った。

「はあ。それでは何を食べてたの?」

杉ちゃんが聞くと、

「カップラーメン自分で作ったりとか。あとは、おばちゃんが作ってくれた肉じゃが。」

真雄くんは答える。

「はあ。おばあちゃんと言うと、ああ、あの赤毛の女中さんだな。あのおばちゃん、結構頼りなさそうに見えるけど、意外にそうでもなかったの?」

杉ちゃんはすぐに聞いた。

「あんまり力持ちでもなさそうだし、ちょっと、きつそうな顔をしてたなと思ってね。」

「そんなこと無いよ。おばちゃん、優しいし、いい人だよ。料理も上手だし、掃除も得意だった。髪の毛が赤くなったのは、ペンキがかかってそうなったって言ってた。」

真雄くんがそう言うと、

「そうかも知れないですけどね。髪が赤くなるのは、ペンキがかかっただけではありません。薬の副作用でそうなってしまうこともあるんです。だから、それほど、良くしてくれたんだったら、そういう事を経験した方だったのかもしれません。」

と、水穂さんが言った。

「そうなの?」

真雄くんは、驚いて言った。

「ええ、そういう症状の方も何度か見たことありますよ。そういう経験している女中さんだから、一生懸命あなたの世話をしてくれたじゃないですか?」

と、水穂さんが言った。

「そうなんだ、おばちゃんも、悲しい思いをしてたんだね。だから僕のことわかってくれたんだ。おばちゃんは、僕の話も聞いてくれたし、ご飯を作ってくれたり、僕が歩けなくても、車椅子で動物園連れて行ってくれたし、日帰りで、温泉に連れて行ってくれたこともあった。夏央は誕生日に、すごいお祝いをしてもらってたけど、僕は、おばちゃんと一緒にお祝いしたんだ。夏央みたいにいちごのショートケーキは食べられなかったけど、おばちゃんが、チーズケーキ買ってくれた。」

真雄くんは、可愛い声で、おばちゃん、つまり、小栗香里さんとの思い出を語った。

「それでは、親代わりでもあったわけか。そういうことなら、実のお母ちゃんや、お父ちゃんは、何もしてくれなかったのか?」

杉ちゃんが聞くと、

「ウン。だって、夏央は、僕の代わりなんだもん。僕が歩けなくなって、ピアノが弾けなくなったからそれで夏央を代わりに作ったんだ。だから、夏央は僕の代わりに、一生懸命ピアノの練習してるんだ。だから、パパもママも夏央のことばかりでも、仕方ないよ。」

と、真雄くんは言った。

「それだったら、おばちゃんに見てもらっている方がずっと良いよ。」

「そうなんだねえ。でもね真雄くん。お父さんやお母さんに、僕のことちゃんと見てっていうのは、悪いことでは無いんだよ。いくら君が歩けなくなって、ピアノが弾けなくなったからと言って、愛されなくなってしまうのとは、別の問題だから。」

水穂さんが優しく真雄くんにそう言うと、

「でも僕は、おばちゃんに見てもらったほうが良いんだ。」

と、真雄くんは言った。

「うーん、それはねえ。半分虐待というものにあたってしまうのかもしれないねえ。だって、本人はネグレクトして、お手伝いさんがずっと、お前さんの側にいるわけでしょ。それは、もしかしたら、法律違反に当たるかもしれないよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そんなこと無いよ。僕は歩けないし。」

と、真雄くんははっきりといった。

「本当は実のお母さんや、お父さんから、愛されて、ちゃんと育ってくれるのが一番いいのですけどね。それができないってのは、やっぱり、可哀想だと思うんですよね。」

水穂さんが、ちょっとため息を付いた。とりあえずその日は、もう遅かったので、カレーを食べさせて、お風呂に入らせて、あいている製鉄所の居室で、真雄くんには寝てもらった。真雄くんは眠れなさそうだったので、水穂さんが、子守唄を歌ってあげたくらいだ。

その次の日。真雄くんは、朝食を食べさせてもらって、ずっと水穂さんのそばにいた。水穂さんは、体調が良ければピアノの練習に費やすが、それを真雄くんはずっと聞いていた。

「この曲、弾いたことあるんだ。」

真雄くんは言った。

「まだ、主題しか弾けないけど。」

「そうなの?シューマンの交響的練習曲を弾いたことがあるんだね。」

水穂さんはピアノを弾くのを止めて、真雄くんに言った。

「でも、もう足が悪いから弾けないかな?」

「そんなことはない。足が悪くてもピアノを楽しんでいる人はいっぱいいる。だったら、真雄くんも弾いてみてご覧。」

水穂さんは、真雄くんをピアノの前に座らせた。真雄くんは交響的練習曲の主題を弾き始めた。それは、大変上手な演奏で、ちゃんと上の音が響いていたし、音のバランスもちょうどよかった。確かに、ペダリングができないのは不自由だけど、それでもちゃんと曲になっていた。

「上手だよ。じゃあ、第一変奏をやってみようね。」

水穂さんは真雄くんの前に、第一変奏の楽譜を差し出した。ちなみに、交響的練習曲は主題と、12の変奏で成り立つ曲である。真雄くんは真剣な顔をして、それを弾き始めたのであった。

一方、宮川家にいたジョチさんは、夏央くんの行方を、スマートフォンのGPSなどで調べていたのであるが、何故か電源が切られているようで、その特定はできなかった。まもなく、身代金受け渡しの時間が来たので、宮川さんたちは、総合運動公園に向かった。一応、公園の入口にいた受け子を捕まえることができたのだが、受け子は、ただ、落ちていたカバンを拾うようにしか指示を出されていなかったらしく、誰が犯人なのか聞き出すことはできなかった。

宮川義男さんが、身代金を払って戻ってきた直後、華岡のスマートフォンがなった。

「はいもしもし。ああ俺だ。何?早川の土手で子どもが倒れているって?わかった、すぐ行く!」

また宮川さんたちに緊張が走った。とりあえず、美佐江さんは宮川家に残り、義男さんだけが、身元を確かめに行くことになった。美佐江さんは、祈りの姿勢になっている。まあ、こういうときなので仕方ないといえば仕方ないが、人は弱いなと思うのであった。


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