交響的練習曲 長編版

増田朋美

第一章 健康であったら。

秋が深まり、もう冬だなあと思われる気候であるが、どこか南の島では台風が4つもできてしまっているので、甚大な被害が出ているようであった。どこかで被害が出ている地域もあれば、のんびりと、楽しく生きている地域もある。そううことができることに感謝して生きていることができるのなら、奢らずに生きていけるのであるが、そうではなくてやってやっていると解釈してしまうと、人間は困った生物になる。

「夏央くん。」

一年生の田沼武史くんは、隣の席に座っている、宮川夏央くんに声をかけた。

「今日一緒に宿題やらない?」

ところが、夏央くんは、嫌そうな顔をして、

「それが今日は、習い事があって行けないよ。」

と、武史くんに言った。

「また何かやってるの?」

武史くんが聞くと、

「今日はピアノのお稽古をしなければならないんだ。サボったら、また怒られちゃうから、今日は、宿題は無理だよ。」

と、夏央くんは答えた。

「そうなんだ。そんなにお稽古して疲れたりしないの?」

と武史くんが聞くと、

「でもママの命令だから仕方ないじゃないか。」

そう言って夏央くんはランドセルを背負って、帰って行ってしまった。武史くんは、寂しそうに夏央くんが帰っていくのを見送った。しかし、夏央くんが、国語の教科書を忘れていったのに気がついた。武史くんはそれを持って、夏央くんを追いかけようとしたが、夏央くんの姿は見えなかった。

武史くんが、仕方なく夏央くんの教科書を持って、学校の正門を出ると、ジャックさんが、ちょうど学校の前を通りかかった。武史くんはすぐに、

「夏央くんが忘れて帰って行っちゃったんだ。」

と言うと、

「そうなんだね。じゃあ、今から夏央くんの家に、届けに行こうね。武史、夏央くんの電話番号か住所は覚えているね?」

とジャックさんは言った。やはり、学校の連絡網はこういうときに役に立つのだ。ジャックさんは、武史くんからもらった連絡網に書かれている電話番号に電話した。最近は固定電話を置かないお宅も多い中で、宮川さんの家は、固定電話ばかりではなく、FAXまで設置されているという、いろんなものが揃う家だった。

「あ、もしもし。宮川さんのお宅ですか。あの、宮川夏央くんのお宅ですよね?」

「はい、そうですが。」

応答したのは中年のおばさんだった。一年生のこどもがいるのでは、まだ若いお母さんであるはずなのに、中年のおばちゃんではちょっと、合わない気がする。

「実はですね。夏央くんが、国語の教科書を学校に忘れていったそうです。それで、家の武史が、夏央くんの教科書を預かっているそうなんですが、今から届けてもよろしいでしょうか?」

ジャックさんがそう言うと、

「わかりました。そういうことでしたら、夏央くんは、ピアノのお稽古をしていますので、私が伺います。」

と、中年のおばさんは言った。

「できれば、本人が出てほしいんですけどね。」

ジャックさんが言うと、

「それは無理だと思います。夏央くんはこれから、音楽学校へ進むために、今でも一生懸命勉強しているのですから。こちらへの道順はわかりますか?」

と、中年のおばさんは言った。

「そうなんですか。まあ、大体の道順は知っていますので、こちらで伺いますが、でも、たまには息抜きもさせてあげたほうがいいのではないかと思いますけどね。では、今から伺いますので、今しばらくお待ち下さい。」

ジャックさんはそう言って電話を切り、武史くんを連れて車で夏央くんの家に行った。なんでも、すごい背丈の大屋敷という言葉がピッタリのお宅であり、こんな大屋敷に住んでみたいという、気持ちを持ってしまうのもわかるような気がした。

「こんにちは。」

ジャックさんがインターフォンを押すと、

「お待ちしておりました。」

と、先ほどの電話を受けてくれた女性だろうか、中年の女性が現れた。それと同時に、屋敷の中から、やたら難しいピアノ曲を弾いている音が聞こえてくる。時折、きつい声で、違うでしょ!とか、言っている声も聞こえてきた。

「あの、田沼と申しますが、夏央くんが学校に忘れていった国語の教科書を、届けに参りました。」

とジャックさんが言うと、

「ありがとうございます。それでは、受け取っておきます。」

と、中年の女性は頭を下げて、丁寧にそれを受け取った。多分、この家の女中さんだろうか。まあ、こんな大屋敷であれば、女中さんを雇って置いても不思議なことではないだろう。

「何をやっているの!」

と、奥から声が聞こえてきた。

「夏央くんが、ピアノのお稽古をしているのかなあ?」

武史くんが思わず言ってしまう。

「それにしてはちょっと、感情的になりすぎているような。」

ジャックさんは、そう言ってしまったのと同時に、

「コンクールまであと、一週間なのよ。そういうときはどうするの?こんな演奏で、一位を取れると思う?もっと練習してうまくなりなさい。さあもう一度、始めから!」

と、わかい女性の声でそう言っているのが聞こえてきた。

「す、すみません。時々、ああして、奥様も、言うんですよね。それでは、夏央くんが、可哀想だと思うのに。いつも、学校から帰ってきたら、ピアノの前に座らされて。たまには、夏央くんも、外で遊ばせてあげたらいいのに、、、!」

女中さんは、そうなんだか憤りを隠せないような顔で言った。なんだかこの女中さん、感じたことをうまくコントロールできないと言うか、湧いてくる感情を自分の中で処理するのが難しい人みたいだった。

「なんか夏央くんは可哀想だね。」

武史くんがジャックさんの方を向いた。

「人のうちだから、あまりどうのこうのは言えないけど、ちょっとやりすぎと言うか、そういうところはあるような。」

ジャックさんも思わず言った。

それと同時に、一台のワゴン車が、この大屋敷の前で止まった。そして、後部座席のドアが開いて、若い男性といっしょに、一人の少年が屋敷の入口にやってきた。

「只今戻りました。」

まだ変声期前のあどけないところがあるが、でも、夏央くんのお兄さんであることは間違いなかった。お兄さんは、足が悪いようで、車椅子に乗っていた。

「お帰りなさい、真雄くん。」

と、先程の中年の女性が彼に声をかけた。真雄くんと言われた少年は、中年女性に手伝ってもらって、屋敷の玄関のドアを自分で開け、屋敷の中へ入った。

「お兄さんがいたなんてちっとも知らなかった。夏央くん、そんな話なんにも聞かせてくれなかったよ。」

と武史くんが、思わず言ってしまう。

「ああ、夏央の同級生の方ですか。夏央の兄で真雄と申します。そして、こちらは、家を手伝ってくれている、女中さんで、」

真雄くんがそう中年の女性を紹介した。女性は、にこやかに笑って、

「小栗香里と申します。よろしくどうぞ。」

と、ジャックさんと武史くんの前で、名前を名乗った。

「あ、ちなみに、この赤い毛は、かつらではありませんよ。よく火事みたいと言われるんですけれども、これは、ペンキがかかってしまいまして、どうしても落ちなかったのでこうなっています。」

香里さんの髪の毛は鮮やかな赤だった。なんでかなとジャックさんも武史くんも思ったが、そういう理由だったのか。

「じゃあ、夏央くんの教科書は確かに受け取りましたので、夏央くんにはもう学校へ忘れ物をしないように言っておきます。」

と香里さんはにこやかに言った。ジャックさんはお願いしますと言って、武史くんを連れてその大屋敷を出た。なんだか羨ましそうに真雄くんが、二人を眺めているのが名残惜しいと言うか、なんだか変だった。赤毛の香里さんが、夏央くんの忘れた教科書を持って、いつまでも二人を眺めているのも変だった。

ジャックさんたちは、いつも通り自分たちの自宅へ帰った。よる、武史くんが寝てしまったあと、少し時間があったので、ジャックさんは、宮川さんというお宅の事をインターネットで少し調べてみた。すると、宮川さんの奥さんである、宮川美佐江さんは、東京の音楽学校で講師として勤務しており、かなり高度な演奏技術を持っているピアニストであることもわかった。そして、宮川さんのご主人である、宮川義男さんの方は、政治家として将来を嘱望されているようなのだ。まあ、自分たちとは比べ物にならない、エリート一家ということだ。僕達は、そんな一家に、足元にも及ばない。でも、小さな幸せを大事にしようと思って、ジャックさんは、パソコンの電源を切った。

その頃、その宮川家では、とても深刻な問題が起きていた。

「どういうつもりなの!」

美佐江さんは怒鳴っていた。怒鳴られていたのは、香里さんだ。

「どういうつもりって言ったとおりですよ。今日、忘れた教科書を届けてくれたような、お友達が、夏央くんにも真雄くんにも必要なんです。もし、子どもがそういうことができないんだったら、親がそうなれるように、誘導してあげるのも、大事なことだと私は思ったんです。」

香里さんは美佐江さんに言った。

「コンクールが近いからと言って、一日何十時間も、夏央くんを、ピアノの前でがんじがらめにするのは、良くないんじゃありませんか?」

「そんなことありません!夏央は自分の意思で、ピアノを習いたいと私に言ったのよ。それだから、一生懸命こっちも指導しているんじゃないの!」

美佐江さんがそう言うと、

「本当にそうでしょうか?」

と香里さんは言った。美佐江さんは思わず香里さんを見て、

「何なの?その目は。」

と言ってしまう。

「その目って。」

「だからその反抗的な目は何?私達で雇ってあげてるのに、それが嫌だっていうの?代わりの家政婦は、事務所に頼めばいくらでもいるのよ。あなたはどうせ、こういう仕事にしかつけなくて、とても悔しい思いをされているんでしょう?それなら、精神科とか、そういうもので、自分の心を強くするように、訓練しなさいな。」

香里さんが言うと、美佐江さんは言った。香里さんもそれを言われてしまうと辛い。でも、今回は、と思った香里さんは、こういうのだった。

「そうかも知れませんが、学校から帰って、すぐに夏央くんに何時間もピアノの練習をさせるのは、夏央くんが可哀想ですよ。帰ってきたときくらい、おやつを食べさせてあげるとかして、ゆっくりさせてあげたらどうですか?」

「いいえ、少しでも多く練習できるように、夏央には、これからも頑張ってもらわないと。」

香里さんの言葉を美佐江さんは一蹴した。

「なんでそんなに、夏央くんに期待するんですか?」

香里さんはまた言ってしまった。香里さんの発言は、時々言ってはいけないと思われることまで口にするので、ちょっと、目上の人に対して無礼だと思われるところがあった。

美佐江さんは返事をしなかった。

「本当は、夏央くんではなくて、真雄くんにそういう事をさせたかったのではありませんか?でも、真雄くんが、運動会で怪我をして、歩けなくなったせいで、それで渋々、真雄くんに期待をするのを諦めて、代わりに夏央くんを作って夏央くんにそういう事をやらせている。でも、夏央くんには、真雄くんのような腕はない。だから焦っているのでしょう?」

「馬鹿なこと言うのもいい加減にして!」

香里さんがそう話を続けると、美佐江さんは、すぐにそれを遮った。

「でも、事実は、事実でもありますから、それは受け止めないと。」

香里さんはすぐに言った。

「何を言っているの。あなたもわからない人だわね。そういうことばっかり言っているようでは、別の女中さんを探さないとだめみたいね。」

美佐江さんは、そういったのであるが、

「でも本当に夏央くんが可哀想ですし、真雄くんも可哀想です。」

と、香里さんはきっぱりといった。

「大丈夫です。夏央は、自分の意思でピアノを習いたいといったわけだし、真雄だって、養護学校の中学部に進学すれば、また変わってくるはずです。」

美佐江さんはなんだか理想の母親のようなセリフを言ったが、

「でも、このままでは何も変わらないと、真雄くんは言ってますよ。」

香里さんは言った。

「本当は、真雄くんが、運動会で怪我をして、ああいう体になったので、代理で健康な子どもが欲しかったから、夏央くんを作ったのではありませんか!」

しばらく沈黙が走った。時々香里さんという人は、そういう爆弾発言をしてしまうことがあるというのは、宮川家の誰もが認めている。それは、香里さんが持っている、障害というものかもしれない。多分、発達障害とか、そういうことなのだろう。だけど、いざとなると、彼女の障害について、忘れてしまうこともあるのである。そういうときに限って、彼女の発言は癪に障る。

「それは、仕方ないことだってわかってるわ。」

美佐江さんはそういった。

「誰だって、人生順風満帆にイケる人ばかりではないわ。それはわかってるわよ。だけど、ピアノをやりたいと言ったのは、夏央の意思なのよ。それは私が無理矢理言わせたわけじゃないわ。」

本当は、もし、もう少し、香里さんが力があったら、言い訳無用とか、そういうことを言ってもいいはずである。この言葉は、美佐江さんが最終的に逃げようとしているしか見えない事を示している言葉でもあるからだった。

「でも、そうだからと言って、学校から帰ったときくらいゆっくりさせてあげないのは、可哀想だと思います。」

香里さんも、結局それしか言えないのである。もちろん、女中という立場だからとか、いろんな理由がついて回るけれど、彼女も、決定的なセリフは言うことができないのだ。

「まあ、この喧嘩はおしまいにしましょう。それより、真雄の面倒を見てあげて。真雄最近、あなたに懐いているみたいじゃないの。そういうことなら、より真雄はあなたの側にいさせてあげたほうがいいんじゃないの?」

美佐江さんがそう言ったので、香里さんも、苦虫を噛み潰すような気持ちになりながら、真雄くんのところにいった。香里さんにしてみれば、なんだかこの家には問題がありすぎると言うか、真雄くんが可哀想すぎる気がするのである。それと同時に夏央くんも、なんだかちゃんと愛されていないような気がしてしまうのだ。

いつも、香里さんにしてみればこういう日々なのである。香里さんの任務といえば、普段美佐江さんが、忙しくてすることができない、家事を行い、真雄くんと夏央くんの面倒を見るのであるが、夏央くんは最近コンクールに出場させられるためにピアノに縛られたままだし、真雄くんの方は、相手にされず、一人で勉強をしているだけである。香里さんは、そんな家では子どもが正常に育たないのではないかと不安になってしまうのだ。感情の処理がうまくできない彼女は、そうおもってしまうのだった。もし、彼女がそういう性質がなくて、雇われているお家のことにあまり敏感な女性ではなく、普通の女性であったら、こんなことは怒らないかもしれないけれど、香里さんは、どうしても、真雄くんと、夏央くんのことが気になってしまう。

その次の日は、日曜日だった。朝から、夏央くんは、着飾ったスーツに着替えさせられ、美佐江さんといっしょにコンサートホールに言ってしまった。香里さんは、今日も真雄くんの世話をすることになったのだが、真雄くんは、車椅子に乗ったまま、一人でがらんどうのような家の中で、ぼんやりと本を読んでいた。確かに、本は面白いものがあるが、友達のところに遊びに行くこともできず、テレビゲームなども与えられず、本ばかり読んでいる真雄くんは、本当に一人ぼっちなんだなと、香里さんは感じていた。せめて、学校の同級生とでも遊んでくれたら嬉しいのであるが、真雄くんの同級生は足が悪いとか、そういう障害を持っている人ばかりだから、とても一緒に遊ぼうなんて言うことはできない。香里さんは、真雄くんに寂しくないの?と聞いて見たけれど、真雄くんは、いつものことだからとしか言わなかった。

夕方になって、夏央くんと、お母さんの美佐江さんが帰ってきた。にこやかにして帰ってくるかなと思いきや、夏央くんはしょんぼりとしており、美佐江さんのほうは、なんであんな簡単なフレーズを間違えたのとか、そういうことを言っている。香里さんは思わず、

「でも、夏央くん頑張ったんだからそれでいいにしてあげたらどうですか?」

と、美佐江さんに言ったのであるが、

「いいえ、夏央はまだ可能性がある。だから、もっと、良いところに、進ませて上げるために、こんなところで敗北してはだめなのよ。」

と、言われてしまった。

「そうかも知れないですけど、夏央くん、疲れているみたいだし、休ませてあげたらどうです?」

香里さんは床を掃きながら言うと、

「いいえ、休んでいたら練習が溜まってしまいますし、もっと大変になるわよ。それなら、休まないで練習させます。」

と、美佐江さんは言うのであった。これを聞いて、香里さんは、なにか、を、感じ取った。なにか、とは、言葉では言い表せないなにかである。言葉というのは不完全なもので、いろんな事を表現してくれるけれど、十分な表現には程遠いものもある。

「そういうことなら、私、なにかしなくてはいけませんね。」

香里さんは、そう言ってしまった。美佐江さんの方は、何を言っているのと言って笑っていたが、香里さんの考えていることは本気であった。香里さんは、それ以上言わなかったが、心の中ではあることを決断していた。それはもしかしたら、犯罪というものに近づいてしまうのかもしれないが、夏央くんたちを、可哀想な生活から出してやるには、そうしてやるしか無いと香里さんは思った。

一方、夏央くんは、コンクールで敗北したばかりであっても、またお母さんの美佐江さんにしごかれながら練習を続けていた。こんなもので負けては行けないと、美佐江さんは、彼を急かしていた。その時、決め台詞のようなセリフが、香里さんの耳に聞こえてきた。こんな言葉を真雄くんの前で言ってしまったら、本人はものすごく傷つくに違いない。香里さんは止めようと走ったが、床の段差に躓いて転んでしまった。幸い怪我はなかったが、それがより香里さんの決意を強くした。彼女の耳にはこう聞こえたのである。

「あなたは、家の唯一の健康な子どもなんだから。」



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