第一話 渡辺風花は園芸部の部長である ④

『一年B組、渡辺風花さん』



 翌週明け月曜日の全校朝礼。


自分の目の前にいるクラスメイトの名が呼ばれ、行人は自分が呼ばれたわけでもないのに緊張で身を固くした。



「はい」



 控えめな返事とともに、目の前にいた小柄で背筋が真っ直ぐ伸びた同級生女子がぴょこりと動き、壇上へと上がってゆく。


 渡辺風花は目立たない生徒だ。出席番号が行人の一つ前なので、入学直後の座席は近かったのだが、特に会話をした記憶が残っていない。

 だが間違いなく一昨日の菊祭りでカメラが示した輝く被写体たる菊の傍らには『南板橋高校 渡辺風花』の名札が掲示されていた。



『南板橋高等学校一年、渡辺風花さん。あなたは本年度の板橋区菊祭り厚物あつもの・切り花の部に出品し、敢闘賞を受賞いたしました。その努力をここに表彰いたします』



南板橋高校は、東京の板橋区。東武東上線上板橋駅から徒歩十五分ほどの場所にある。

公立高校ながら特定の分野の部活で伝統的に実績を出しており、この日もバスケ部の秋季大会優勝と映画研究部の全国大会金賞という分かりやすい表彰が先行していた。


そのため、菊祭りの厚物の部という聞き慣れない単語の並びに、全校生徒の空気はやや弛緩していた。

 言ってしまえば耳馴染みのないジャンルの個人表彰に興味を失っていたのだ。


 だが当の渡辺風花はそんな空気は意に介さず、義務的な拍手の中で瞳を輝かせ、高揚した笑顔でクラスの列に戻ってきた。



「お、おめでとう。渡辺さん」

「!」



 行人は、自分が何故そんなことをしたのか分からなかった。

 だが自分の目の前に戻ってきた、普段ほとんど交流のない女子の誇りに満ちた空気と笑顔を見て、行人は思わず小さく祝福の言葉を呟いていたのだ。


 流石に真後ろでのこと。呟きもはっきり耳に届いたらしく、渡辺風花は驚いた表情で行人を振り向いた。



「実はね、これ、出品したら必ずもらえる賞なんだ、ふふ」



 賞状で顔を半分隠しながら、渡辺風花は照れくさそうに、だが誇らしげに微笑んだ。



「でもありがとう、大木君」



 そして、ほとんど交流の無い行人の名を呼んでまた小さくはにかんだ。


 はにかむ、という普段馴染みのない言葉を、よくぞ思い出せたものだと思う。

 だがそうとしか表現しようのない穏やかで驕りの無い笑顔が、まるで視界の中で弾けたような錯覚を覚えた。


 まるで、あのカメラで輝く被写体を見つけたときのようだった。



「……のさ」

「え?」



 その声は、もはや気づかれたことが奇跡と思えるほど、喉に引っかかった囁きのような音量だった。

 だが、目の前の渡辺風花はきちんと聞き取り、また振り返ってくれた。

 前髪に隠れそうな大きな瞳がこちらを見上げ、その瞳の色を見て、また行人の視界は煌き爆発する。



「あの……っと……」

「うん。何?」

「あ、っ…………アツモノキリバナって、何?」



 その疑問は、衝動的にかけた祝福の呼びかけとは違い、意識して絞り出したものだった。

 渡辺風花の目が、きょとんとして、その後しっかりと見開かれる。


「あ、あのね! 薄い厚いの厚い物って書いて厚物なんだけど、菊の代表的な種類なの! 丸くてふんわりした大きい花の菊って見たことない⁉ 菊祭りのエントリーって色々なカテゴリーがあるんだけど、切り花はカテゴリーの一つで、他にもボンヨウとかオオヅクリとか色々あって、その中でも厚物はいかにも菊っ! ていう分かりやすい形をした一本はっきりと大きい菊を……」


 そしてまだ朝礼が終わっていないのに、しっかり行人に向かって振り向いて賞状を握りつぶさんばかりの勢いで一気呵成に喋り始める。



「え、あ、ええと」



 絞り出したあやふやな問いに思わぬ熱量で打ち返されて行人は狼狽え、



「おーい渡辺、嬉しいのは分かるがうるさいぞー」



 周囲にもその早口は聞こえていて、近場に立っていた担任教諭から渋い声で注意が飛ぶ。



「あ、ご、ごめんなさいっ」



 渡辺風花ははっとなって話を中断し、フィギュアスケートのジャンプもかくやという勢いで前に向き直る。


 だが少しして、わずかに振り向きながら、少しもじもじして、言うのだった。



「後で少し時間もらえますか? そうしたらもっときちんとお話しできるから」

「う、うん!」



 この返事は、声こそ小さな子供のようだったが、明確に意思を持ったものだった。

 この後、渡辺風花と話す約束をする。

 それがたとえようのないほど魅力的な提案に思えたからだった。



「ふふ、よかった。ありがとう、大木君」



 今度ははにかむ微笑ではなく、はっきりと笑顔だった。

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