第46話 分水嶺

 ロシェル公領の南部には、急峻な山岳が横たわっている。


 城下に広がる街は、どこからでもこの山脈が見える。国内でも屈指の標高と堅牢不抜な絶壁を誇るこの巨山は、ロシェル領と他領とを分ける分水嶺ぶんすいれいである。


 この山の頂上にかかる厚い雲がコライユ王国に相次ぐ厄難を塞き止め、ふもとに流れる濃い霧が災禍を遮断している。


 王国内に絶え間なく吹き荒れる天変地異は、あたかも天然の要塞のようにそびえ立つこの連峰に阻まれて、ロシェル領にはほとんど届くことがない。


 だから厳重な警備に守られて峠を越え、他領に足を踏み入れた時──アンジェラは愕然と震えた。


「……そんな」

 

 ロシェルの領内はあんなに緑に満ちてのどかだったのに。領境を越えた後から、にわかに瘴気が濃くなっていった。


 砂ぼこりが目立つ地面はからからに乾いている。放擲ほうてきされた畑には、くわすきが錆びたまま転がっていた。まるで人々にはもう畑を耕す力さえ残っていないかのようだ。


(たった十五年で……ここまで変わってしまうなんて……)


 皇室の紋章を隠しているとはいえ、アンジェラを乗せた馬車が通る道でこれほど荒れているなら、もっと奥地の荒廃はいかほどだろう。


 気候は温暖だが、快晴だからこそはっきりと粗の目立つ景色に、アンジェラは心を痛めずにいられなかった。


 やがて入った王都は、どこよりも空気がよどんでいた。


 多くの窓の玻璃はりにはひびが入ったままで、治安の悪さを物語っている。道には失業者のような人々がふらふらと浮浪し、まるで街全体が疲れ果てているかのように暗い。


 堆積したゴミには無数のハエがたかっている。衛生状態も劣悪としか思えないし、疫病が蔓延しているのではないかと心配でならない。


(酷いわ……。ナタン殿下はどうしてもっと手を打たないの?)


 今のナタンは国王なので殿下ではなく陛下なのだが、前世のジュリエットにとっては王太子だったため、つい殿下と呼んでしまう。


 その元殿下で現陛下である男は、アンジェラの到着を今か今かと待ちかまえていた。自ら王宮の門前に立って、庭園を進んでくる馬車を出迎えるほどに。


(おおお!)


 馬車を降りてきたアンジェラを見て、ナタンはごくりと生唾を飲んだ。


(う、美しい!)


 陽光を紡いで織りあげたようなシャイニーブロンドの髪。紫水晶アメジストのような大きな瞳。長い睫毛が目頭をふちどり、形の良い鼻は筋が通っていて高い。なめらかな純白の肌はきめが細かく、まるで精巧に作られた人形のようだ。


 まさに花のかんばせ。いや、いかなる花がほころんでも、これほどまでに愛らしくはないだろう。


 絶世という形容詞が少しも誇張ではないほどの、可憐な美少女。


 名は体を表すというが、本当に天使のような美貌の持ち主だ。


(まだ幼いが、これはいい! 数年後には極上の美女になることだろう!)


 ナタンの妻オルタンスは三十代を過ぎて衰える一方だが、アンジェラはまだ十代半ば。


 若さといい美しさといい高貴な身分といい、とうが立ったオルタンスとは比べ物にならない。


(この皇女こそ私の王妃にふさわしい!)


 そう確信し、ナタンはきらびやかなジュストコールの襟を正した。


 最高級の絹で織らせた衣には全体に金糸の刺繍ししゅうを施し、袖口には繊細なレースをあしらってある。


 皇女と並んでも見劣りしないよう、豪奢に仕立てさせてよかった──とほくそ笑みながら、ナタンは上機嫌に歓迎のあいさつを述べ、軽快な世間話を続けた。


「皇女殿下。私の名はあなたのお父上にあやかって付けられたのですよ。いやはや、浅からぬ縁を感じますね」


 アンジェラの父である皇帝の名はナタナエル。ナタンは皇帝にちなんで、同じ意味を持つ"Nathan"と命名された。


 アンジェラ皇女は父とナタンの縁に感銘を受け「まぁ、運命ですわね!」と愛らしい顔を笑みでいっぱいにすることだろう。


「……そうですか」


 思いのほか薄いリアクションを返されて、ナタンは固まった。


 笑顔どころか、皇女の表情筋は死んでいる。


(お、おかしいぞ……! ここから話が弾むはずだったのに……?)


 当てがはずれたナタンは、挙動不審に視線をさまよわせた。


 残念ながらアンジェラにとって、父はジョゼフィーヌがいながらアンナを妊娠させた上、後ろめたさから娘を無視し続けるような人なのだ。皇帝としては敬うし、憎いとまでは言わないが、好感は持っていない。


 そして何よりも、ナタンは前世でジュリエットを殺した相手だ。


「偽聖女」「弑逆者」「大罪人」と断罪され、命まで理不尽に奪われた過去は忘れられない。


 ここまでの道中で国内の惨状に心を痛めていたこともあって、どうしてもアンジェラの表情筋は仕事をしない。猛烈な不快感が上回って、ついナタンに冷たい態度を取ってしまう。


「な、長旅でお疲れなのですね、皇女殿下! すぐ休める場所に案内し──」


 強引に手に触れようとしてくるナタンに嫌悪感を感じた瞬間、アンジェラは反対の手を優しく引かれた。


 先ほど馬車を降りる時、リオネルが手を取ってくれたのだ。タラップを降りた後もそのままずっとつないでいた手が引き寄せられて、アンジェラは彼の厚い胸板に抱き留められる。


「な、何をする!」


「婚約者をエスコートして何か問題でも?」


 ナタンは怒るが、リオネルは涼しい顔つきで答えた。


 白いシャツに黒いジレ姿のリオネルは、着飾ったナタンよりもずっと質実剛健なのに、とても頼もしく見える。


 たくましい腕の中にしっかりと守られながら、アンジェラは胸の鼓動が早まるのを感じた。

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