第45話 忘れられない人
食後はアンジェラのために用意された部屋で休むことができた。
古い部屋だが絨毯には
ゆっくりと
「まさか旦那様が帝国の皇女様と婚約するなんてねぇ」
「ほーんと、腰を抜かすかと思ったわぁ」
壁が薄いせいで、廊下での会話が聞こえてしまうようだ。室内まで洩れているとは思いもしていないらしく、メイドたちは明るく笑っている。
「旦那様は今まで、どんなご令嬢から恋文が届いても見向きもしなかったけれど……」
「やはり相手が皇女様ならその気になるわよね。本当によかったわ」
(えっ……!)
アンジェラの心臓は早鐘のように打った。メイドたちが安堵のにじむ声で、しみじみとささやいたからだ。
「旦那様は一生結婚することはないなんて言っていたけれど……あれは忘れられない女性がいたのよね」
「それは間違いないわ。でも皇女様との縁談ともなれば、過去の女に
アンジェラは茫然とした。
まるで殴られたように頭が揺れて、くらくらとめまいがする。
(忘れられない……女性……)
リオネルは独身主義ではなかった。想いを寄せる相手がいたのだ。
(リルに……恋した人がいた……)
ジュリエットが死んで十五年の月日が経つ。リオネルだって恋愛のひとつやふたつ経験していても不思議ではない。
なぜリオネルがその女性と結婚しなかったのかはわからない。
身分の差なのか、他に理由があるのか。あるいは何とかして結ばれようと努力している最中なのかもしれなかった。
(私、リルと愛する人を引き裂いてしまった……?)
皇女であるアンジェラが婚約を申し出たら、リオネルだって逆らえない。
いくら契約関係とはいえアンジェラが婚約者の座にいたら、本命の女性にとってはさぞ目ざわりだろう。
(早く……私から解放してあげなきゃ……)
穏便に自分との婚約を解消しなくては、とアンジェラは改めて心に誓った。
リオネルはあんなに格好良くて紳士的な人なのだから、どんな女性だってきっと彼を好きになるはずだ。──邪魔者さえ消えれば。
(リルには誰よりも……幸せになってほしいもの……)
ジュリエットを慕ってくれた優しくて可愛いリルには、本当に想う相手と幸福になってほしい。
心からそう願っているのに──どうしてこんなに胸が痛むのか、アンジェラは自分でもわからなかった。
◇◇◇
「よし!」
この日のために仕立てた最高級のジュストコールに袖を通して、コライユ国王ナタンは胸を張った。
何年もこの国を悩ませていた異常気象は、アンジェラ皇女の来国が正式に決定した時から、ぴたりと鳴りをひそめた。
暗雲は去り、太陽が昇り、いつになく明るい
どこまでも清々しい、晴れやかな青天白日。こんな落ち着いた気候は久しぶりだ。
(天の
ナタンは満足そうにほくそ笑んだ。
帝国の皇族にこの国の現状を見られることを恐れていたが、実にツイている。
幸先がいいとはこのことだ。これも日頃の行いだろう。
(やはり神はこの私に味方している!)
異母弟のリオネルをサフィール帝国に向かわせた時は、せいぜい難儀しろと願っていた。
果たせるはずもない王命を背負って苦心
そのリオネルから「王命の通りアンジェラ皇女殿下との婚約が叶いました」と報告が入った時は、思わず玉座から立ち上がって
「役立たずのくせにやるではないか!」と、初めてリオネルを褒めてつかわしたくなったほどだ。
しかしその後「皇女殿下におかれましては、この私にご降嫁いただくことになりました」と続いた時は、頭の血管が切れて憤死しそうになった。
皇女の降嫁は望んだが、結婚相手はナタンに決まっている。それを図々しくも横取りしようなど、僭越としか言いようがない。
「ふざけるな! 下賤なメイドの子の分際で、なんと身の程知らずなのだ!」
リオネルは己が卑しい不貞の子であることを皇女に話していないのだろう。
巧言を弄し、舌先三寸に言いくるめて、無垢な少女を丸め込んだに決まっている。
「なんと強欲な男だ! 厚顔無恥とはこのことだ……!」
憤慨したナタンだが、リオネルは婚約の披露目を兼ね、アンジェラ皇女を伴って帰国するという。
異母弟の不遜な行動は憎たらしいが、皇女と直接対面できるのなら願ってもない。
何しろナタンはこの国の国王なのだ。ナタンと直に相対すれば、皇女とて目が覚めるだろう。
皇女はナタンという本物の宝石のオーラに魅せられ、リオネルのような
そしてナタンは今度こそ自分にふさわしい妃を手に入れる。高貴な皇女を伴侶にすれば、王室の支持率も回復するだろう。
アンジェラ皇女は若い。すぐに子もできるはずだ。
皇女がナタンの子を産み、皇帝の血を引く後継者に国民が熱狂し、王家の求心力がさらに高まるシーンまで想像して、ナタンは期待に胸をふくらませた。
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