第39話 契約婚約
「待ってください、ロシェル公!」
「皇女殿下?」
「コライユ国王のご命令に背いて大丈夫なのですか? ロシェル公のお立場が悪くなってしまうのではありませんか?」
前世のジュリエットの記憶では、ナタンは思い込みが激しくて狭量な男だった。
国王になったからといって、そう簡単に性根が変わるわけではないだろう。
ナタンの苛烈な処断で命を落とした過去があるだけに、リオネルにどんな理不尽な処罰が下るかを考えたら不安でならない。
アンジェラは本気で心配したが、リオネルは平然と答えた。
「多少、兄の勘気に触れるかもしれませんが、殺されはしないでしょう」
失敗は不名誉だが、犯罪ではない。
ナタンは鬼の首を取ったようにリオネルを
「でも、王命の不履行を理由に領地や爵位を取り上げられるかもしれません。ロシェル公はそれでもいいのですか?」
「それは……」
領地について言及されて、リオネルは初めて口ごもった。
ロシェルの地も、公位も、リオネルが望んで得たものではない。
だが幼い主君に不平も言わずついてきてくれた家臣たちや、不遇の中をけなげに耐え忍んでくれた領民たちは、すでにリオネルにとってかけがえのない存在になっていた。
ナタンは王命の失敗を理由にいともたやすくリオネルを
ナタンの息のかかった新領主が、家臣や領民を守ってくれる保証はどこにもない。
「……」
リオネルは自ら爵位は一代きりで終わると公言してはいたものの、現在取り組んでいる公共事業には道半ばのものも多くある。
いずれ手放すことに異論はないが、今はまだ時期尚早だ。
自身の爵位の剥奪は甘んじて受けても、せめて領民は信頼できる者に委ねたい。
リオネルが苦悩していると、アンジェラは重ねて尋ねた。
「コライユ国王の下した王命は『皇女の降嫁』なのですよね?」
「はい」
「それなら……私はあなたに嫁ぎます!」
アイスブルーの瞳が
「ロシェル公も王族でしょう? ですから私があなたに降嫁すれば、王命を叶えたことになります」
とんでもないことを言っていると、アンジェラは自分でもわかっていた。
自身のこととはいえ、皇女の結婚を意思ひとつで決められるはずがない。
しかしリオネルが処断されるとわかっていて、みすみす一人で国に帰すことはできなかった。
前世の自分を殺したナタンの妃には死んでもなりたくないが、ジュリエットを慕ってくれたリオネルの危機は何としても救いたい。
「そのようなこと……皇女殿下にしていただく理由がありません」
「あります!」
アンジェラは勢いよく答えてから、まごまごと言葉を探した。
前世でリルを知っているから放っておけない──とは言えない。
「そ……その、私はコライユ王国に興味があって……一度行ってみたいと常々思っていたのです。そう! これは私の願いでもあるんです!」
王国への渡航をずっと希望しているのは事実だ。何度頼んでも兄たちに認めてもらえずにいるが。
「あなたが……我が国を見たいと願っておられる……?」
リオネルが本気で驚いた顔をするので、アンジェラはどぎまぎせずにはいられなかった。
「そ……それに私は両国間に波風を立てたくないのです。コライユ国王の命令をお断りするのは心苦しいですが、王妃様がいらっしゃるのに国王陛下に嫁ぐことはしたくありません。長年連れ添った王妃様を離縁するなんて人道に
本当はただナタンという男が嫌なだけなのだが、王妃に同情するふりをして、嫁ぎたくないとアピールしておく。
「なるほど。お気持ちはわかりました」
リオネルは納得したようにうなずいた。
王命を
「さらに私の処遇まで
リオネルは鋼のような体躯を
「皇女殿下。私と婚約していただけませんか?」
まっすぐな求婚の言葉に、アンジェラの心臓はドキッと跳ねた。
「もちろん契約婚約です。そのつもりで提案してくださったことはわかっております」
「契約……婚約……」
アンジェラは茫然とくりかえした。
(そうよね。今の私はリルより十歳も年下なんだもの……)
リオネルはすっかり大人の男になっている。精悍でたくましくて、どんな女性も惚れ惚れしてしまうような美丈夫に。
そんな彼が十も年の離れたアンジェラを恋愛対象として見るはずがない。
アンジェラから言い出した降嫁も、あくまでも仮の関係だと捉えているのだ。
「皇女殿下の望む時に、速やかに婚約解消するとお約束します」
王命である「皇女の降嫁」を叶えれば、リオネルが処罰されることはなくなる。
アンジェラもナタンとの結婚は回避した上で、念願のコライユ王国に渡ることができる。
「ですが……こんな
リオネルは心苦しそうに眉根を寄せた。
いくらアンジェラ自身が望んでいるとはいえ、斜陽化の進むあの国に彼女を連れていきたくない。愚かな兄の目になど彼女を触れさせたくはない。
「──いいえ」
アンジェラは柔らかくかぶりを振った。
「私は少しも怖くはありません。茨とは薔薇のことですから」
(……!)
リオネルは刮目した。
『茨って……薔薇のことよね?』
そう言って笑ったジュリエットの姿を、まるで昨日のことのように鮮やかに思い出す。
『それなら少しも嫌じゃないわ。私、薔薇の花が好きよ』
(ジル……!)
忘れようもない笑顔がよみがえって、リオネルは喉を詰まらせた。
(リル? どうしてそんなに泣きそうな顔をしているの……?)
アンジェラが息を飲むと、リオネルは深々とひざまずいた。
「……必ず、お守りします」
真摯なまなざしがアンジェラを射る。
「皇女殿下、女神にかけて誓います。どんな棘にも決してあなたを傷つけさせはしません」
女神にかけて、とはコライユ王国に伝わる誓言である。決して破ることのない固い約束に用いられる言葉だ。
女神にかけた誓いを
アンジェラはうなずいて、リオネルの手を取った。
「ええ、信じます」
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