第33話 遺髪
城内に戻ったリオネルは脱いだ上着を自ら片付け、何もないに等しい私室へ向かった。
ロシェル領がどれほど復興し、活気を増しても、領主の城はあいかわらず古びて、華やかさに欠けたままだった。
リオネルが入城した時、ことごとく売り払った調度品は今も買い足されていないし、剥いだ敷石さえ直ってはいない。
「ジル……」
リオネルはつぶやいて、私室にある唯一の宝物にそっと触れた。
片手に乗るほど小さな箱に収められているのは、死んだジュリエットの髪。
死刑執行人が無造作に切り落とし、捨てた髪を拾って取っておいたのだ。
わずかな遺髪は彼女の瞳と同じ紫色のリボンで束ねて、ずっと大切に保管してある。
聖女であるにも関わらず、過剰なほどの質素倹約を強いられていたジュリエットは、遺品など何も残らなかった。
「……ジル」
心ない者たちが「老婆のようなくすんだ色」「ネズミのような薄汚い灰色」と嘲笑していたジュリエットの髪は、リオネルの目には
『リル!』
目を閉じれば今も、清らかなジュリエットの笑顔が浮かぶ。
『ジル、本当に?
『大丈夫よ、リル。毒があるのは芽と、緑色に変色した実なの』
ジュリエットはそう説明して、ナイフで皮を剥いて芽を取ってみせてくれた。
『ほら、これで問題ないわ。私のいたような寒い地方でも育ってくれる、とても優秀な食材なのよ』
ジュリエットは極貧の孤児院で育ったため、パンのかわりに馬鈴薯で飢えをしのいでいたそうだ。
緑色になった馬鈴薯は食べてはいけないだとか、ベラドンナの実はブルーベリーに似ているが有毒だから気をつけるようにとか、リオネルは様々なことをジュリエットから教わった。
……食べ物のことばかりのような気がするが、神官たちがろくに食事を与えてくれないせいで二人ともよく腹を空かせていたのだから仕方ない。
「ジル……」
リオネルは苦しげに目を伏せた。決して消えることのない痛みを、胸の奥に抱きしめながら。
ジュリエットの遺髪を再び箱に納め、蓋を閉じた時。
「旦那様、お帰りなさいませ」
若いメイドが部屋に茶を運んできた。盆の上には手紙の束も乗っている。
「お手紙がたくさん届いていますが、目を通されますか?」
「目を通した方がいいものがあるのか?」
メイドはいたずらっぽく微笑んだ。
「すべて今をときめくロシェル公の妻になりたいというお嬢様方からのお手紙ですわ」
「……それは見ても仕方ないな」
「まぁ、もったいない。皆様申し分のない家柄のご令嬢ばかりですのに」
リオネルが苦笑いすると、メイドはからかうように片目をつぶった。
「ロシェル公は今や国王陛下よりも人気なんですわよ?」
「そういうことを言うものではない」
先王の隠し子であるリオネルの方が人気が高いなど、狭量なナタンには到底許しがたいだろう。
あの異母兄に嫌われようと一向にかまわないが、ロシェルの民に憎悪の矛先が向けられるのは避けたい。
「では、お手紙は封を開けずに送り返しますわね」
メイドが言い、そうしてくれ、とリオネルも応じた。
「私は一生、妻を迎えることはないからな」
愛した女性はもういない。彼女を殺したのはこの国だ。
ジュリエット以上に大切に想える女性など、一生現れるはずはない。
「この爵位も一代限りで終わる。富など蓄えても継がせる者もいない」
それが領地がいくら栄えようが、自城に釘一本さえ手入れさせようとしないリオネルの言い分だった。
(……ジル……)
心臓を貫いて走る、永遠に癒えることのない傷。
この痛みはもう、リオネルの一部になってしまった。
癒す気などない。傷は傷のままでいい。
リオネルの生涯が続く限り、ずっとこの痛みを抱えて生きていくのだから。
「──だ、旦那様!」
メイドが立ち去った直後。焦った顔で走り込んできたのは執事だった。
「旦那様! 大変です!」
「どうした?」
執事は震える手で書状を広げた。封蝋に
「国王陛下からの勅令です!」
国王直々の命令が下されるなどめったにない。
ナタンはとにかく異母弟のリオネルが目ざわりらしく、何かにつけて力を
あの兄がわざわざリオネルによこす王命など、嫌な予感しかしなかった。
「我が国とサフィール帝国の親交を深めるため、帝国の皇女の降嫁を叶えろとのことです……」
「は?」
ナタンと王妃オルタンスには子がいない。だからナタンが再婚を考えていることは知っていたが、義父であるテュレンヌ公の手前、離婚には踏み切れないだろうと思っていた。
確かに再婚相手が帝国の皇女なら、テュレンヌ公とて太刀打ちできないだろう。だがそれ以前の問題だ。
「まさか皇女を
リオネルは唖然とした。
アンジェラ皇女は皇帝の第四子にして初めての娘。上の三人の皇子たちからこよなく愛されていると評判の姫君だ。
掌中の珠といっていい大切な皇女を、帝国が手放すはずもないことは容易に想像がつく。
国力の差を考えても、帝国に利のないことを考えても、到底不可能な話だ。
「旦那様! お断りになってください!」
執事はすがるように叫んだ。
「国王陛下とて無理はご承知のはず! 陛下はただ旦那様を貶めたいだけです。お受けになってはいけません!」
ロシェル公は名君と名高いが、兄の望みひとつ満足に叶えられなかった──ナタンはそう蔑みたいだけだ。
「……」
ナタンの愚考はわかっている。だがリオネルは静かにかぶりを振った。
「旦那様? まさか……」
執事は目を白黒させたが、リオネルは書状を正視したまま動かなかった。
(サフィール帝国……!)
その国名に、不思議なほど心惹かれる。
「おまえたちには悪いが……留守を頼まれてはくれないか」
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