第10話 初めての言葉

 アンジェラは紫色の瞳をまたたいた。


(……今の家族はどうしてこんなことで喜んでくれるのかしら?)


 ジュリエットがコライユ王国の聖女だった時、褒められたことはほとんどなかった。


 親もわからない孤児だったせいで、出自不明の卑しい聖女だと陰口を叩かれたジュリエットは、神殿に入った当初からずっと冷たい視線にさらされていた。


 王太子ナタンからは「平民出の聖女など敬う気になれるか!」と蔑まれ、「私と並び立つのはもっと高貴な女がふさわしいのに……!」と嘆かれた。


 日々の務めである女神への祈りを捧げていれば、祈っているふりなどして小賢しいとわらわれた。


 治癒の力を使った反動に苦しんでいれば、奉仕活動をさぼろうと仮病を使っていると非難された。


 懸命に力を注いで傷や病を癒しても、相手からは礼を言われるどころか、このくらいさっさと治せとなじられた。


 聖女といえど多くの人々を一度に治療はできない。治癒の施しが許される対象者は神殿が選定していた。


 今さらながら思うが、あの治療の前後、神殿は患者から金を取っていたのかもしれない。


 病や怪我を治してほしいと訴え出た患者に、神官が布施ふせの名目で金銭を要求していたとしたら──彼らの不機嫌な態度にも納得がいく。


 患者側には法外な謝礼を積んだのだから治して当然だという認識があったし、聖女のくせに見返りを要求するなど強欲だと忌々しく感じたのかもしれない。


 高額な献金を用意できず、治療を受けられない人々にとっては、金持ちしか相手にしない高慢聖女だと憎まれていたのかもしれない。


 神官から金銭の授受など世俗的なことには関与するな、聖女は治療にだけ専念しろと厳しく言われていたから、神殿と患者との間でどんなやり取りがあったのかなんて、何も教えてもらえなかった。


(あの頃は何をしても感謝されることなんてなかった……それなのに……)


 今の家族は違う。


 アンジェラがただ這っただけで喜んでくれる。ただ立っただけで手放しで称賛してくれる。


 そう思うと、心の奥がほんわかと温かくなるような気がした。


「あー! うー!」


 この「あー! うー!」は「お兄様たち! ありがとうございます!」の意味である。


 残念ながら意味は伝わらなかったものの、愛らしい喃語なんごに兄たちは全員メロメロになった。


「アンジェラはおしゃべりが上手だな」


「もうすぐ本当に言葉を話しそうですね」


「アンジェラはさいしょになんて言うんだろう? 『ガブリエルおにーさま』だったらいいなぁ!」


(それは難易度が高いわ……)


「私もアンジェラに『ミッシェルおにいさま』と呼ばれたら泣いてしまうな……」


 想像だけで早くも涙ぐみながら、ミッシェルは胸に手を当てた。


「いや、もう『み』でいい。『み』だけでいいから呼んでほしい」


「私も『ら』でいいです。『ら』の一言だけでいいので呼ばれたいです」


 一気にハードルが下がった。


(そのくらいなら……言えるかも?)


「あっ! あっ!」


 アンジェラは回らない舌を懸命に回して、声を出そうと頑張った。


 今日は初めてつかまって立つこともできたし、何だかやれるような気がするのだ。


 通らない喉を必死にこじ開け、まだ歯のない口を全力で動かす。


 苦心と奮闘の末、アンジェラはついに生まれて初めて言葉を口にすることに成功した。


「まま!」


(言えた!)


 膝から崩れ落ちる三人の皇子。


 そんな兄たちの前を無慈悲に通り過ぎて、アンジェラはまっすぐに母のジョゼフィーヌの元へ這っていった。


「まぁ、アンジェラ。なんていい子なの」


 ジョゼフィーヌは優美に笑み、アンジェラを抱き上げて膝に乗せてくれた。


(お母様!)


 母と娘が楽しくたわむれていると、がっくりと膝をついていた皇子たちが歯軋りしながら立ち上がった。


「いや、まだです。まだ初語とは言えません。ただの偶然かもしれませんから」


「ああ、聞き間違いということもあるからな」


「何か言いましたか? ラファエル、ミッシェル」


 負け惜しみをささやく息子たちのことは放って、ジョゼフィーヌはアンジェラの明るい金の髪を撫でた。


「可愛いアンジェラ。このまま健やかに大きくなってくれたなら、他には何も望まないわ」

 

(他には何も……望まない……?)

 

 前世ではどんなに努力しても、報われないことばかりだった。


 ジュリエットが凍えるような極寒の神殿でどれほど長時間祈りを捧げても、感謝されたことはなかった。どんなに身を削って人々を癒しても、褒められたことはなかった。


 それなのに兄たちはただ立つだけで称えてくれ、母はただ健康であればいいと願ってくれる。


 現世の家族が与えてくれる愛情は、不遇な過去を過ごしてきた記憶を持つアンジェラには慣れなくて、不思議な気持ちになってしまう。


(でも……幸せ……)


 見返りを求めない愛が嬉しくて、心がじわりと温かくなる。


 アンジェラが初めて味わう家族のぬくもりに、ほわほわと幸福をかみしめたその日。


「アンジェラ皇女様がつかまり立ちをされた」というニュースはまたたく間に駆け抜け、知らぬ者はいないほど宮殿を席巻せっけんしたのだった。

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