第8話 炎

「アンジェラ、はいはいをしたそうですね。私にも見せてください」

 

「ラファエル兄上、ぼくもう見ました! すごーくかわいかったよ!」

 

「よかったな、ガブリエル!」


 ラファエルが優しくアンジェラに話しかけ、ガブリエルが得意げに手をあげ、ミッシェルがそんな弟の頭を撫でる。

 

(はい、お兄様たち! 見ててくださいね)


 期待されていると知って、アンジェラの胸にやる気がみなぎった。


 ふかふかの絨毯の上に置かれたアンジェラは体をひねった。えいっと寝返りをして、腹ばいになる。


 この時点でスタンディングオベーションさながらの拍手が湧き起こった。


(うぅっ……足が重い……)


 赤ちゃんの体はあいかわらず思うように動かなくて、足を持ち上げるのも一苦労だ。


(えっと……右手、左手……)


 右足、左足、と意識しながらアンジェラは交互に手足を前に出す。兄たちは先回りして進行方向にある障害物をよけてくれていた。


 よろよろ。ふらふら。ぺしゃっ。


 最後の「ぺしゃっ」は、アンジェラが絨毯の上につっぷした音である。


 二歩、三歩と前に進んだだけでもう力尽きて、うつ伏せに倒れこんでしまったのだが、兄たちをはじめとする一同は盛大な喝采を贈ってくれた。


「上手だぞ、アンジェラ!」


 ミッシェルが絶賛しながらアンジェラを抱き上げる。


 ミッシェルの手からラファエルの手へ、ラファエルの手からさらにガブリエルの手へと、三人の兄たちにかわるがわる抱っこされながら、アンジェラはひとまず無事にはいはいを披露できたことに胸をなでおろした。


「今日は冷えるわね……」


 小声でつぶやいたのは母のジョセフィーヌだった。


 女主人の言葉を拾って、メイドが丁重に尋ねる。


「暖炉に火をお入れしましょうか?」

 

「そうしてちょうだい。アンジェラが風邪をひくといけないわ」

 

「はい、かしこまりました」


 部屋の隅には立派な煉瓦造りの暖炉が備え付けてある。


 メイドは暖炉の扉を開けて、灰が詰まっていないか、煙突に不具合がないかなどを確かめてから、手際よく薪をくべた。薪の手前に小枝や枯れ葉を置き、火を点ける。


 葉に着火するとすぐに煙が上がってきた。火がめらめらと燃焼しながら薪へ燃え移っていく。

 

「アンジェラ、寒くないか? 暖まりに行こう」


 はいはいに磨きをかけるべく真面目に練習を重ねていたアンジェラに、ミッシェルがそう声をかけた。アンジェラを抱き上げて、暖炉のそばへと連れていく。


「ほら、暖かいだだろう?」


(暖か……い……?)


 アンジェラの未熟な視力でも、はっきりと映し出すことのできる赤い色。


 見開いた瞳を埋め尽くして、炎の赤が広がる。パチパチと火がはぜる音が聞こえて、思わず背筋が粟立った。


 次の刹那。大きな泣き声が部屋に響きわたった。


 それが自分の泣き声だとわかるまで、アンジェラ自身さえも数秒を費やした。


「アンジェラ!?」


 ミッシェルが驚いているが、泣き声は止まらない。


(いやあぁぁーーーっ!)


 異常なほど強い恐怖感に襲われて、アンジェラは絶叫した。


「皇女殿下? どうなさいましたか?」


 侍女たちがばたばたと駆けつけてくるが、返事をすることはもちろん、泣き止むことさえできなかった。


(嫌……嫌……! 火は怖い……!)


 火が上がる。炎がぜる。煙がたちこめる。


 怖い。体がすくむ。動けない。息ができない。


(怖い……怖いよぉ……!)


 燃えさかる火におびえて、アンジェラは震えながら固く目をつぶった。

 

「すまない、アンジェラ。暖炉が怖かったか?」


 ミッシェルは察してくれたのか、アンジェラを連れて暖炉から離れてくれた。

 

「アンジェラがこんなに泣くのは初めて見ましたね」

 

 いつも冷静沈着なラファエルも焦ったらしく、声音に動揺が感じられた。


「びっくりしたんだね、アンジェラ。怖がらなくても大丈夫だよ」


 ガブリエルが手を伸ばして、しゃくりあげるアンジェラをよしよしと撫でる。


 三人の兄たちに慰められて、アンジェラはようやく落ち着きを取り戻した。


(もしかして……前世の私の死因が火だったせい? だからこんなに怖いと感じるの……?)


 前世でジュリエットは死罪を命じられ、火刑に処された。

 

 ジュリエットの命を奪い、その身を燃やし尽くした炎の恐怖が、アンジェラとして生まれ変わった今も色濃く残っているのだろうか?


(どうしよう。現世の私、火が苦手……!)


 思わぬ弱点が判明して、震えるアンジェラだった。

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