第5話 人間、未熟すぎる
生まれたばかりの人間はまだ視力が発達していないらしい。
ジュリエットがいくら目を開けても、周囲の風景は霧がかかったようにぼんやりと濁ってしまった。
明暗はわかるが、色彩はほとんどわからない。認識できる色は白か黒くらいで、人間らしい影が動くのは見て取れるのだが、個々人の顔までは判別できない。
そのかわり聴覚ははっきりしていて、周囲の音や人々の会話はしっかり聴き取ることができた。
毎日世話をしてくれるメイドたちの声。
日に一度は顔を見に来てくれる母の、語りかけるような優しい声。
そして日に何度も様子を見に来る兄たちの、明るくてにぎやかで少し騒々しい声。
ジュリエットは自分に向けられる言葉や、近くでかわされる会話に耳をそばだてて、周囲の人々の名前や立場を少しずつ把握し、何とかこの状況を整理しようと努力した。
その結果わかったのは、ここはサフィール帝国の皇族であるヴァングレーム家の人間が住まう後宮であること。
そして今のジュリエットは現皇帝の第一皇女「アンジェラ・ド・ヴァングレーム」であるということだ。
(ほ、本当に帝国の皇女だなんて……!)
コライユ王国の平民に生まれ、孤児院で育った記憶を持つジュリエットにとって、隣国の皇族などはるか雲の上の存在だ。
(私はやっぱり死んだのね。そして帝国に生まれ変わった……ということ?)
心はとまどうばかりだったが、体は生まれたてほやほやの新生児。
自分の手足なのに自分の意志でうまく動かすことができず、言葉を話そうとすればすべて泣き声になってしまう。
(ね、眠い……。赤ちゃんの体ってこんなに眠いものなの……?)
自分でも抗えないほどの眠気に襲われながら、ふわっとあくびをくり返す。
少しの間起きていただけでもすぐに眠たくなってしまう。特に運動しているわけでもないのに自分でも驚くくらい体力がないのだ。
ひとしきり眠って起きたら、アンジェラのために雇われている乳母に授乳をしてもらい、それだけで疲れてまた眠りに落ちてしまう。
つまり一日のほとんどを寝て過ごしているということになる。
そんな飲むか寝るかの生活をくり返して、二か月ほどが経った頃。
アンジェラの視力も少しずつ発達し、色彩や物の形状がわかるようになってきた。
(色……! 色があるわ!)
最初に認識したのは赤。それから徐々に黄色やオレンジ色といった暖色系が見えるようになって、深く感激する。なお緑や青はまだ見ることができない。
(寒色系を見るのが難しいなんて、思ったこともなかったなぁ)
赤ちゃんの体でなければ知ることのなかった事実である。
やがて生後三か月を過ぎると、追視ができるようになった。
動くものに反応して、自分で上下左右に頭を動かして、対象を目で追うことができるのだ。
逆に言えば、これまでは頭さえも自力で思うように動かせなかったということだ。
そんな状態なため、自分の足で立って歩くなどまだまだ果てしなく遠い偉業に感じる。
(人間、未熟すぎる……!)
ひ弱にもほどがある。野生動物だったらとっくに死んでいる。
しかし幸いにもアンジェラは人間で、しかも皇帝の皇女であるため、自分で動き回れなくても多くの人間が大切に世話をして育ててくれた。
「おはよう、アンジェラ!」
朝一番に元気よく飛び込んできたのは第一皇子のミッシェル。十歳。
「愛しい妹よ! 会いたかったぞ!」
輝くように明るく破願しながら、ミッシェルはアンジェラの寝かされているベビーベッドに駆け寄ってくる。
そんな兄のとなりで微笑んでいるのは第二皇子のラファエル。八歳。
「アンジェラは今日も可愛いですね」
落ち着いた丁寧な物腰で語りかけながら、ラファエルもベッドの柵ごしにアンジェラを見つめる。
兄たちの間から顔を出したのは第三皇子のガブリエル。五歳。
「アンジェラ、だいすきだよ!」
天真爛漫な笑顔を振りまきながら、ガブリエルは背伸びしてベッドの中をのぞきこむ。
三人の兄たちが和気あいあいと末っ子の妹を取り囲む横で、優美なため息をこぼしたのは母の皇后ジョゼフィーヌだった。
「女の子のお洋服はどれも可愛らしいこと。目移りしてしまうわ」
(あ! あれ、私のお洋服なの!?)
ジョゼフィーヌがいるあたりで先ほどから、赤やピンクの布のようなものがちらついていると思ったのだ。どうもメイドたちが色とりどりの生地を広げて、ジョゼフィーヌに披露しているらしい。
「この色もこの柄もいいわね。ああ、やはりこちらも捨てがたいわ」
ジョゼフィーヌは悩んだ末に、さらりと命じた。
「端から端まで、すべてアンジェラのドレスに仕立ててちょうだい」
「かしこまりました」
(全部!? 仕立てすぎじゃない!?)
正確に何着分あるのかわからないが、明らかに多すぎる気がする。
「ずっと男の子ばかりで飾りがいがなかったのですもの。アンジェラが生まれてくれて嬉しいわ」
──息子たちの時よりも夢中で選んでしまうわ、とジョゼフィーヌがささやくと、メイドたちも賛同の声をあげた。
「そうですとも! アンジェラ様は何をお召しになってもよくお似合いになりますもの!」
「お名前の通り、本当に天使のようにお可愛らしくていらっしゃいますわ!」
楽しそうに言い合う女性陣は、もはや止めようもないほど盛り上がっていた。
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