2話 もうすっかり常連さん
町の中心部に位置する巨大な屋敷。
その一室で、高貴な服装に身を包んだ男が、貧乏ゆすりをしながらペンを走らせていた。
「……くっ」
それは急遽舞い込んできた、急ぎで進めなければならない仕事であり、本来の彼の仕事終了時間を大きく押している憎き存在だった。
苛立ちを募らせながらも、決して手を抜くことなく丁寧に書類を処理していく。
男の名はオリヴァー・ルートマリア。
若くして全当主である父を亡くし、急遽ルートマリア伯爵家を継ぐことになった苦労人だ。
(あぁ……早くあの店に行きたい……癒しが欲しい……)
そんな彼には、最近密かな楽しみがあった。
それは町外れにある安眠堂という名の小さなお店だ。
疲れが一気に取れた気がする、と一部で噂されていたのを聞きつけ、ダメ元で訪れてみたところ、すっかりハマってしまったのだ。
そして今日もしっかりと事前に予約を取っていたのにも関わらず、この有様だ。
これでは閉店までに間に合わないかもしれない。
そう思うと余計に苛立ちが募るが、ここで適当にやると後が面倒なことになるのが分かっているので、泣く泣く気持ちを落ち着かせて仕事を進めていった。
そしてそれから1時間半ほどが経過し、ようやく仕事の全てが片付くと、
「――旦那様。お疲れ様でございます。よろしければお茶でも……」
「すまない。私は少し出かける。少々遅くなるが、気にするな」
「は、はぁ……承知いたしました」
仕事が終わったのを見計らって待機していた執事にそう言いつけると、オリヴァーは早足で屋敷から出ていってしまった。
「……旦那様は、また例のあのお店に行かれたのでしょうか。あそこの店主は年頃の少女だったはず……ご婚約に悪影響なければ良いのですが」
そんな言葉を漏らしながら、用意した茶を持ち帰る執事だった。
それから数十分後。
急足で向かったためやや息を切らしながらも、安眠堂に辿り着いたオリヴァーは、ゆっくりとドアを開けた。
時刻は間も無く日が落ちようとしている夕暮れ時。
幸いまだドアプレートは営業中の文字を示していた。
ほっと息をつきながら、彼は店の中へ進んでいく。
「――すまない。少々遅れた」
「あっ! いらっしゃいませ伯爵様。お待ちしておりましたよ! ささ、こちらへどうぞ!」
店主であるミリアは、ソファで寛ぎながら眼鏡をつけて読書をしていた。
あまり客は多くないというこのお店では、ミリアがのんびりと何かをしているのはそう珍しくない光景だ。
ただ、メガネ姿を見るのは初めてなので少々胸がざわつくオリヴァーだった。
「さて、今日は何をご希望ですか? 何もなければ私のおまかせにさせていただきますが……」
「……耳かきを頼む」
「はーい。了解しました! それではこちらへどうぞ」
本を畳み、改めてちゃんと座り直した彼女は、ぽんぽんと自身の細い膝を叩いた。
最初こそその意味を理解できなかった彼だが、今となってはもはや自然な動作で頭をその膝に乗せた。
「ふふっ……伯爵様は本当に耳かきがお好きですよね」
「あぁ、まぁな」
慣れてきたとは言え気恥ずかしさからか、やや口数が少なくなってしまうオリヴァー。
しかし、これから待ち受ける最上の癒しのためならばこの程度の事など気にするに値しない。
幼い頃に母親に甘えていたことを思い出すような、そんな懐かしさに包まれながら、今日も彼女に疲れをとってもらう。
(あぁ……やはり妻を娶るなら彼女のような……)
そんな貴族にあるまじき思考を走らせながら、オリヴァーはゆっくりと目を閉じた。
そして彼女が、普段の快活な声を潜めて囁くように問いかける。
「それでは伯爵様……お悩みなどがありましたら、お話しできる範囲でお聞かせください。私でよければ、相談に乗りますので……」
「……そうだな。実は今日――」
このように囁かれては、ついうっかり喋ってはいけないことまで喋ってしまいそうになる。
例えばこれからやや強制的に結ばされそうになる婚約についてなどの話だ。
だが、そこは己のプライドに賭けてグッと堪えて、仕事の愚痴から吐き出し始めた。
それと共に彼女の手に握られた細い耳かき棒が耳の中へ優しく侵入していき、敏感な肌に触れると体の奥底がゾワっとした感覚に襲われる。
しばらくすると、溜まっていた疲れのせいもあってか耐えきれず彼の瞼は闇へ落ちていった。
「……ふふっ、おやすみなさいませ。伯爵様。今日も1日お疲れ様でした」
屋敷では絶対に味わえない快感と共に眠りにつくオリヴァーに、ミリアは笑顔で囁いた。
町外れの噂の安眠屋さん〜お疲れな若き伯爵様は今日も癒しを求めてやってくる あかね @akanenovel1
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