第13話 歪み
(
執務机で報告書を読みながらルシフェルはその
神の
その存在をシュエルから聞いた時には非常に驚いたものだ。
黒髪に黒目、真っ白な天使たちと違って肌質も少し固めで暗い色彩を持つ自分だが、その絶大な
天使にとっての名前とは実に重要なもので、皆、それなりの意味をもって神に祝福され、名前を贈られる。
だがしかし、今回のハサーシエンは
(
天使達の中にはネトーシュと呼ばれる神の祝福からこぼれ落ちた者たちがいる。
さらにごく稀に
神は生きとし生けるものの全てを平等に愛しておられるが、美しく清らかなものの前ではネトーシュさえも薄れてしまう。
光が強すぎると闇もその濃さを増してしまうように、神の楽園は人が思うより歪なものだった。
(金の
なんとも因果な対の姉妹だ。
一方が神の
(シュエル様には報告できまい)
短く息をついてルシフェルは片手でその報告書を燃やした。
(せめて自分のように
自分もそうだったかもしれないと思うと、何とも無慈悲な考えだなと一旦思考を片付け、ルシフェルは立ち上がった。
そろそろシュエルの食事の時間だ。
あの
若干の疲れと諦めを感じるが、不思議とそれを楽しんでいる自分がいるのもまた事実で、なんとも変な気分だった。
「――シュエル様?」
門の向こう側に確かに彼女の気配はするのに返事はない。
エデンの門は広いホールの階段を上った先の上部に存在している。
門番と言っても門の前で警備するわけではなく、このホール全体の守護をするのがルシフェルの仕事だった。
ホールは一城並みの広さを持つので、彼が寝起きする場所も、天使長としての仕事をこなす執務場もここにある。
(変だな……)
手にしたトレイを持ったまま、ルシフェルは鐘を鳴らしてもシュエルの返事がないことに訝しげに門を開けた。
いつも通り、エデンの内側にはシュエルが持ってきたであろうクッション類が散乱しており、そしてその中に小さな塊を見つけるとルシフェルは深くため息をつく。
寝息を立てて、胎児のように丸くうずくまるのはシュエルそのひとだ。
「……この方は……」
サッとトレイを消すとルシフェルはシュエルのそばに膝をついた。
「シュエル様。……シュエル様」
名を何度か呼んだが、シュエルから返事はない。
「……全く」
呆れを通り越して、もうある種の感心さえも覚えるほどだ。
これが深窓の天使と言われた
確かにこの見た目は至宝と言われても差し支えないほど美しいが、その中身といったら真逆もいいところだ。
なによりあの創生神さえこの見た目に騙されているとは思わなかった。神をも欺くとは恐ろしいにもほどがある。
とはいえ、彼女をこのままにしておくわけにもいかないのでルシフェルはその体をそっと抱き上げた。
(よくもこんな所で眠れたものだな)
シュエルが寝ていたのはほぼ地面だ。
クッションがあるとはいえ寝心地がいいとは決して思えない。
毎度恒例になっている地面に散らばった敷物類を片付けると自分もシュエルを抱えて館に移動した。
普段は、
彼女の館はエデンの中心部にあり、やはり純白の世界に相応しいものだった。
館とはいうが、そこの主は彼女一人だけなので広さはさほどなく、ルシフェルの足ならばすぐにベッドルームに辿りつく。
シュエルを抱いたルシフェルが寝室に足を踏み入れるとサラサラと天蓋がひとりでに開いた。
「……るし……ふぇる?」
シュエルを寝台に寝かせようとしたところで彼女の薄い瞼が震える。
美しい翡翠色の瞳がぼんやりとルシフェルを捉えたので、寝かせる手を一旦止めた。
「お目覚めですか、シュエル様」
「ん…………ごめんなさい、寝ちゃった」
支えられるままにシュエルは小さく身じろぎし、彼の胸に身を寄せる。
「……シュエル様」
「ふふ、ごめんなさい。もう少しこのままで」
触れている場所から彼の体温を感じて、シュエルは甘える様にルシフェルに笑いかけた。
蜜のような香りと共にふわりとした絹糸のような髪がルシフェルの顔をくすぐる。
(……駄目だ)
決して力をこめ過ぎないように、でも限りなく制するようにルシフェルはシュエルを自身から引き離した。
「むぅ……」
「お戯れが過ぎますよ、シュエル様。起きられたのならお食事はいかがされますか」
「ルシフェルが遊んでくれない」
「……お食べにならないのなら持ち帰りますが」
「たーべーまーすー」
ふくれっ面のシュエルが渋々と緩慢な様子で寝台から降りてきた。
(……彼女は、触れ合う天使がいないから自分に固執しているだけだ)
シュエルの温かさが残る己の両手をルシフェルは見つめる。
抱き上げていた感触は、この両手にも、触れた体にもまだ残っていた。
彼女は神の幸いであり
創生神の寵愛を受ける彼女は永久の時をこの
たった一人。その、神への
(もし、あの時、自分ではなく他の天使がこの任についていたら)
本来ならばエデンの門番は智天使である別の天使の仕事だった。
だがちょうど時期が悪く、より階級の高いルシフェルに白羽の矢が立ったのだ。
『ルシフェル』
あの笑顔の先にあるのは自分ではなかったかもしれない。
偶然に出会っただけなのに、そう考えるとどうにも複雑だった。
「ルシフェル~?ごはん~」
シュエルの声でルシフェルはハッと我に返る。
金の天使はそんな彼の葛藤など微塵も気づいていないかのようにまだ少し不満げだ。
ぐっと誰にも悟られないようこの忌まわしき想いを胸の奥底に封じてから、ルシフェルは今日も何事もなかったかのようにシュエルのそばに歩み寄った。
(……最後に”夜”を見たのはもう……いつのことだっけ……)
ある日の夜、シュエルは窓を開けて空を見上げていた。
彼女の住むこのエデンには外のような朝も夜も存在しない。
ぼんやりと空を眺めながらシュエルは思う。
朝と夜がある世界で生きていたあの頃よりも、この昼夜がなくなってしまった今の生活の方がずっとずっと、長くなってしまった。
シュエル達天使はこの天界で
世に生み出されてしばらくの間は名を持たない存在で、収穫された数か所の専用施設で育つのだ。
人の年齢で言えば5歳ほどで名づけが行われるが、その時に
幸か不幸か、シュエルはその時に”神の幸い”という名を、畏れ多いことに創生神から賜った。
そしてその瞬間から、シュエルはこの
最初は誰もいないこのエデンでの生活が寂しくて、哀しくて、辛くて。
そんな父から慰みにと与えられたのは美しい花々や愛らしい動物達。
幼いシュエルにとってそんな無情の白の世界は、諦めを覚えて静かに心を閉ざしていくのに十分なものだった。
そんな永い永い悠久の時を経て、シュエルは”彼”に出会う。
自身の対の天使と同じように黒をまといながらも
”黒”よりも尚深い”闇”の天使でありながら、
(……ルシフェル)
無表情ではあるが、きちんとシュエルの話を聞いて反応を返してくれる。
無償の優しさだけをくれる
しかしシュエルは気付いていた。
今、己が抱いている気持ちが禁忌の感情だという事を。
神への愛を捨て、他を愛することなど到底"天使"にあるまじき罪であり、神への冒涜である。
それは幼い時から聞かされ続けた天界における絶対
だからきっと……きっと。
今自分が抱えている想いは誰にも話せないし、話したところで決して赦されない。
シュエルは両膝をぎゅっと抱えた。
頭によぎるのは包み込むような夜色の後ろ姿。思い出すだけで胸がぽかぽかするような冷たくも温かい人。
「…………あぁどうしよう」
涙が溢れそうになって顔がくしゃりと歪んだ。彼を想うとあまりにも心が苦しい。
(言えない。……
「すきって…………こんなにも苦しいのね」
小さく呟いた言葉は白い世界に吸い込まれるように、淡く淡く、まるで空の
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