第13話 歪み


 (名もなき者ハサーシエン

 

 執務机で報告書を読みながらルシフェルはその怜悧れいりな双眸を細める。

 

 神の最愛いとしごの対となる”黒”の天使。

 その存在をシュエルから聞いた時には非常に驚いたものだ。

 

 黒髪に黒目、真っ白な天使たちと違って肌質も少し固めで暗い色彩を持つ自分だが、その絶大な六対十二翼ろくついじゅうによく聖力マナゆえに光り輝くものルシフェルの名を贈られた。

 

 天使にとっての名前とは実に重要なもので、皆、それなりの意味をもって神に祝福され、名前を贈られる。

 だがしかし、今回のハサーシエンはではなかった。

 

 (見放されし者ネトーシュ、か)

 

 天使達の中にはネトーシュと呼ばれる神の祝福からこぼれ落ちた者たちがいる。

 

 神の実ファー・エロヒムと呼ばれる果物から産まれ落ちる際に欠陥を抱えたり、”黒”やそれに近しい色合いで生まれたが故に聖力マナが少なく、最悪、枯渇した状態で生まれてきた者。

 さらにごく稀に使も交じっているというネトーシュは溢れんばかりの光の軍勢の影となり、静かにこの世界に淘汰されてきた。

 

 神は生きとし生けるものの全てを平等に愛しておられるが、美しく清らかなものの前ではネトーシュさえも薄れてしまう。

 光が強すぎると闇もその濃さを増してしまうように、神の楽園は人が思うより歪なものだった。

 

 (金の愛し子シュエル、黒の忌み子ハサーシエン……)

 

 なんとも因果な対の姉妹だ。

 一方が神の最愛いとしごとして寵愛を受け、もう一方が見放されし者ネトーシュとして生を受けたとは。

 

 (シュエル様には報告できまい)

 

 短く息をついてルシフェルは片手でその報告書を燃やした。

 彼女ハサーシエンが生き抜く世界はあまりにも厳しく、この燃えた灰のように脆いのだから。

 

 (せめて自分のように聖力マナでもあれば、また違った選択肢があったかもしれないが)

 

 自分もそうだったかもしれないと思うと、何とも無慈悲な考えだなと一旦思考を片付け、ルシフェルは立ち上がった。

 

 そろそろシュエルの食事の時間だ。

 あの最愛いとしごは今日もきっと自分が想像しえない行動をしてくるのだろう。

 

 若干の疲れと諦めを感じるが、不思議とそれを楽しんでいる自分がいるのもまた事実で、なんとも変な気分だった。


 

 

 「――シュエル様?」

 

 門の向こう側に確かに彼女の気配はするのに返事はない。

 

 エデンの門は広いホールの階段を上った先の上部に存在している。

 門番と言っても門の前で警備するわけではなく、このホール全体の守護をするのがルシフェルの仕事だった。

 ホールは一城並みの広さを持つので、彼が寝起きする場所も、天使長としての仕事をこなす執務場もここにある。

 

 (変だな……)

 

 手にしたトレイを持ったまま、ルシフェルは鐘を鳴らしてもシュエルの返事がないことに訝しげに門を開けた。

 

 いつも通り、エデンの内側にはシュエルが持ってきたであろうクッション類が散乱しており、そしてその中に小さな塊を見つけるとルシフェルは深くため息をつく。

 

 寝息を立てて、胎児のように丸くうずくまるのはシュエルそのひとだ。

 

 「……この方は……」

 

 サッとトレイを消すとルシフェルはシュエルのそばに膝をついた。

 

 「シュエル様。……シュエル様」

 

 名を何度か呼んだが、シュエルから返事はない。

 

 「……全く」

 

 呆れを通り越して、もうある種の感心さえも覚えるほどだ。

 これが深窓の天使と言われた最愛いとしごかと思うと、彼女を敬愛している他の天使達にはなんといえばいいのだろう。

 

 確かにこの見た目は至宝と言われても差し支えないほど美しいが、その中身といったら真逆もいいところだ。

 なによりあの創生神さえこの見た目に騙されているとは思わなかった。神をも欺くとは恐ろしいにもほどがある。

 

 とはいえ、彼女をこのままにしておくわけにもいかないのでルシフェルはその体をそっと抱き上げた。

 

 (よくもこんな所で眠れたものだな)

 

 シュエルが寝ていたのはほぼ地面だ。

 クッションがあるとはいえ寝心地がいいとは決して思えない。

 

 毎度恒例になっている地面に散らばった敷物類を片付けると自分もシュエルを抱えて館に移動した。

 普段は、聖力マナで移動したり翼で飛んでしまったらあっという間に一緒にいる時間が終わってつまらないという彼女シュエルにあわせて歩いて移動することが多いが、この状況下でなら聖力マナで移動してしまった方が断然に早い。

 

 彼女の館はエデンの中心部にあり、やはり純白の世界に相応しいものだった。

 

 館とはいうが、そこの主は彼女一人だけなので広さはさほどなく、ルシフェルの足ならばすぐにベッドルームに辿りつく。

 シュエルを抱いたルシフェルが寝室に足を踏み入れるとサラサラと天蓋がひとりでに開いた。

 

 「……るし……ふぇる?」

 

 シュエルを寝台に寝かせようとしたところで彼女の薄い瞼が震える。

 美しい翡翠色の瞳がぼんやりとルシフェルを捉えたので、寝かせる手を一旦止めた。

 

 「お目覚めですか、シュエル様」

 「ん…………ごめんなさい、寝ちゃった」

 

 支えられるままにシュエルは小さく身じろぎし、彼の胸に身を寄せる。

 

 「……シュエル様」

 「ふふ、ごめんなさい。もう少しこのままで」

 

 触れている場所から彼の体温を感じて、シュエルは甘える様にルシフェルに笑いかけた。

 蜜のような香りと共にふわりとした絹糸のような髪がルシフェルの顔をくすぐる。

 

 (……駄目だ)

 

 決して力をこめ過ぎないように、でも限りなく制するようにルシフェルはシュエルを自身から引き離した。

 

 「むぅ……」

 「お戯れが過ぎますよ、シュエル様。起きられたのならお食事はいかがされますか」

 「ルシフェルが遊んでくれない」

 「……お食べにならないのなら持ち帰りますが」

 「たーべーまーすー」

 

 ふくれっ面のシュエルが渋々と緩慢な様子で寝台から降りてきた。

 

 (……彼女は、触れ合う天使がいないから自分に固執しているだけだ)

 

 シュエルの温かさが残る己の両手をルシフェルは見つめる。

 抱き上げていた感触は、この両手にも、触れた体にもまだ残っていた。

 

 

 

 彼女は神の幸いであり最愛いとしごで、天使達の中で最も清き天使ひと

 創生神の寵愛を受ける彼女は永久の時をこの神の楽園エデンで過ごさねばならない至上の存在だ。

 

 たった一人。その、神への純潔あいのために。

 

 (もし、あの時、自分ではなく他の天使がこの任についていたら)

 

 本来ならばエデンの門番は智天使である別の天使の仕事だった。

 だがちょうど時期が悪く、より階級の高いルシフェルに白羽の矢が立ったのだ。

 

 『ルシフェル』

 

 あの笑顔の先にあるのは自分ではなかったかもしれない。

 偶然に出会っただけなのに、そう考えるとどうにも複雑だった。

 

 「ルシフェル~?ごはん~」

 

 シュエルの声でルシフェルはハッと我に返る。

 金の天使はそんな彼の葛藤など微塵も気づいていないかのようにまだ少し不満げだ。

 

 ぐっと誰にも悟られないようこの忌まわしき想いを胸の奥底に封じてから、ルシフェルは今日も何事もなかったかのようにシュエルのそばに歩み寄った。

 


 

 (……最後に”夜”を見たのはもう……いつのことだっけ……)


 ある日の夜、シュエルは窓を開けて空を見上げていた。

 彼女の住むこのエデンには外のような朝も夜も存在しない。

 もやめいた白い空が光を浴びて、まるで宝石のように小さなこの世界を覆っているだけだ。

 

 ぼんやりと空を眺めながらシュエルは思う。

 朝と夜がある世界で生きていたあの頃よりも、この昼夜がなくなってしまった今の生活の方がずっとずっと、長くなってしまった。

 

 シュエル達天使はこの天界で神の実ファー・エロヒムと呼ばれる果物から生を受ける。

 世に生み出されてしばらくの間は名を持たない存在で、収穫された数か所の専用施設で育つのだ。

 

 人の年齢で言えば5歳ほどで名づけが行われるが、その時に聖力マナの潜在能力や容姿の美しさなどによってそれぞれに名が与えられる。

 

 幸か不幸か、シュエルはその時に”神の幸い”という名を、畏れ多いことに創生神から賜った。

 

 そしてその瞬間から、シュエルはこの神の楽園エデンで生きることが決定し、対の天使……”黒”の名もなき者ハサーシエンとは二度と会うことが許されなくなったのだ。

 

 最初は誰もいないこのエデンでの生活が寂しくて、哀しくて、辛くて。

 創生神おとうさまに何度も直訴したが、彼は困った子供をみるように静かに笑ってシュエルを宥めるだけだった。

 

 そんな父から慰みにと与えられたのは美しい花々や愛らしい動物達。

 幼いシュエルにとってそんな無情の白の世界は、諦めを覚えて静かに心を閉ざしていくのに十分なものだった。

 

 そんな永い永い悠久の時を経て、シュエルは”彼”に出会う。

 

 自身の対の天使と同じように黒をまといながらも六対十二翼ろくついじゅうによくの至高天使。

 ”黒”よりも尚深い”闇”の天使でありながら、天使までのし上がり、天使長にまでなった黒色こくしょくのひと。

 

 (……ルシフェル)

 

 無表情ではあるが、きちんとシュエルの話を聞いて反応を返してくれる。

 無償の優しさだけをくれる創生神おとうさまでも、世間話を良しとしなかった世話係とも違う、生きた温かさ。

 

 しかしシュエルは気付いていた。

 今、己が抱いている気持ちが禁忌の感情だという事を。

 

 天使じぶんたちは神から愛された純真無垢な存在であり、神からの愛と神への愛のみで生きねばならない。

 神への愛を捨て、他を愛することなど到底"天使"にあるまじき罪であり、神への冒涜である。


 それは幼い時から聞かされ続けた天界における絶対の文言。

 

 だからきっと……きっと。

 今自分が抱えている想いは誰にも話せないし、話したところで決して赦されない。

 

 シュエルは両膝をぎゅっと抱えた。

 

 頭によぎるのは包み込むような夜色の後ろ姿。思い出すだけで胸がぽかぽかするような冷たくも温かい人。

 

 「…………あぁどうしよう」

 

 涙が溢れそうになって顔がくしゃりと歪んだ。彼を想うとあまりにも心が苦しい。

 

 (言えない。……ルシフェルあのひとには、言えない)

 

 「すきって…………こんなにも苦しいのね」

 

 小さく呟いた言葉は白い世界に吸い込まれるように、淡く淡く、まるで空のもやのようにそよ風に散っていった。


 


 


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