第9話 告白
その日の夜。
朱里から経緯を聞いたメイド達は、念のためにバルコニーの鍵を開けておいて下さいとニコニコしながら朱里に言ってきた。
「どうしてバルコニー?」
朱里の部屋は南側の二階だ。
しかも一部屋一部屋の天井が高いから、普通の二階建てより尚のこと高所にある。
何故、零が来るのにバルコニーを開ける必要があるのだろうと朱里は首を傾げた。
「侵入経路になるか逃走経路になるかは分かりませんが、念のためです」
「?」
音葉の答えに朱里はさらに首を傾げる。
どういうこと?と悩んでいたら、いいからいいからと小春と美海にまで笑顔で押し切られてしまった。
よくは分からなかったけれど、しょうがないのでバルコニーの鍵を開けて朱里は零を待つことにする。
(物語じゃないんだから、いくらなんでもバルコニーから来るなんて……)
一体、地上からこの部屋まで何メートルあると思ってるんだろう。落ちたら絶対に怪我じゃ済まない。
しかも今は12月の終わり。山の夜は寒いを通り越して
そんな状況下で外からなんて……と思っていたら窓ガラスがコンっと軽くノックされた。
(嘘!?)
びっくりして振り向けば、そこには零の姿がある。相も変わらず、いつも通りの無表情だ。
「零!?」
慌てて朱里がバルコニーに続くドアを開ければ、ひゅうと冷たい冬の風が舞い込んできて思わず身震いした。
まるで猫の様に部屋に滑り込んできた零を横目に急いでドアを閉める。
ほんの数秒なのにあっという間に体が冷えてしまった。でも朱里にはそんなことよりも聞きたい事の方が勝って零に詰め寄る。
「え?えぇ?なんで?なんでバルコニー?どうやって!?」
「落ち着け」
「なんで零、バルコニーから来るの!?羽でもあるの!?」
「ない。落ち着け」
「だってここ二階よ!?しかも外は寒いし、冷たいし、危な……ひぁ!」
ぴとっと零の手がおでこに当てられて思わず飛び上がった。
尋常じゃないくらい、冷たい。
「……落ち着け」
「~~~~!!」
なんて男だ。
触られた場所からは一気に熱がなくなったのに、顔の温度は一気に急上昇してしまった。
なんて男なんだ!
すっかり朱里が黙ったのを確認してから、零はそっと手を離す。
「堂珍の目があるからな。さっきまで一階の見回りをしていたからここしかなかった」
メイド達に鍵を開けて待っていろと言われただろう?と平然と言ってのける目の前の男に恨めし気な視線を送る。
「言われたけど!侵入経路だか逃走経路だか言ってたけど!」
「じゃあ何が問題なんだ?」
「普通は上がってこれないでしょ!?こんな高いところまで!」
「そうか?メイド達も普通に出来るとは思うが」
「どうして!?」
この屋敷のメイドには一般業務に加えて外側から二階までのぼる"普通"でもあるのだろうか。
すでに理解の範疇を超えていた。さすがの朱里も疲れを覚えたほどに。
「……もう!とりあえず零はこっち!」
腕を引っ張るように零を暖炉の前まで連れて行く。
部屋には普通に暖房もあるのだが、やっぱり暖炉の方が暖かい。
いつもは火を消している時間だが、今日は零が来るからとまだメイド達が残していってくれたものだった。
なされるがままに零は朱里に引っ張られる。
細い腕が自身に絡む感覚は何とも言い難いものだ。
(本当に……なんなんだ)
感情を殺すのは得意だと思っていたが、朱里の前だとどうにも狂う。
強制的に零を暖炉そばのソファーに座らせると朱里もその真横に座ってきた。
「ほんとにもう……風邪ひいたり怪我したりしたらどうするの」
「仕事に支障ない程度なら問題はない」
「そうじゃなくて!」
「…………朱里」
「~~~~~っ!」
本当にひどい男だ。
さっきから一体何度、人の情緒を狂わせれば気が済むのだろう。
あわあわと波打つように感情が震える。
なんだかよく分からないけど、その澄ました顔面に思いっきり枕を叩きつけてやりたい気分だ。
スーハ―スーハ―と自分を落ち着かせるように深呼吸してから朱里は零を見上げた。
ほんのちょっと恨めしさがでたが、それはもう許してほしい。
「それで……こんな夜にどうしたの?」
少し考えるような間があって、零は口を開いた。
「美海が、お前と出かけたらどうだと言ってきた」
「…………え?」
予想だにしない零の言葉に思わず朱里は固まる。
(……おでかけ?)
そんな朱里の様子に気付かなかったのか、零は言葉を続けた。
「とは言っても、さすがに敷地内からお前を出すにはリスクが高い。だが、年末年始は堂珍も自宅に帰省するし、屋敷全体の監視も外れやすいからその機会にどうか、との事だ」
まぁ期待するほどの事じゃ……と言いかけて、朱里に目線を下した零の言葉が止まる。
翡翠色の真ん丸な瞳が呆然とした様子でこちらを見つめていた。
「朱里?」
「……おでかけって、零と一緒?」
「そうだな」
「音葉達は?」
「メイド達には屋敷のことを任せるつもりだ」
「つまり……ふたりきり?」
「まぁ、そうだな」
朱里にしては珍しく静かな物言いだな、と些か失礼なことを考えていた矢先、勢いよく零の頬に柔らかい塊がぶつかってきた。
ぎゅっと自分に抱き着いてくる、温かい感触。
「!」
「嬉しいっ!」
一瞬たじろいだ零の首に抱き着いてきた朱里からはなんとも甘い香りが漂う。
(距離が、近い)
「あのね!私、屋敷の周りと湖の方しか行ったことないの!」
いつもよりも何倍も近い距離で、朱里が嬉しそうに笑った。
女性特有のしなやかで柔らかい感触に自分の腕に収まってしまうほどの小さな体。
ふわふわした少し猫っ毛な黒髪に神秘的で美しい翡翠色の瞳。
腕の中の朱里を見つめながら、零は頭のすみで鳴っていた警鐘を諦めたようにかき消した。
(……そうか)
宙に浮いていたままの両手を朱里の背に回すと、ぎゅっとその小さな体を抱きしめる。
「……零?」
抱きしめ返してくれるとは思わなかった。
不思議そうに聞き返せば、朱里の肩に顔を埋めたまま、零は抱きしめる腕にほんの少しだけ力を込めて、少々自虐めいた声で呟く。
「お前は……本当に変な女だな」
「む!なにそれ!大体私はお前でも変な女でも……!」
「……朱里……」
「!」
囁くような吐息交じりの声。
いつもよりも低いその声に思わず朱里の息が止まる。
頭の中に直接響くような
くしゃりと朱里の髪を抱きしめる様に零はその手に力を込めた。
駄目だと、理解していた。
この気持ちに気付くことも、この気持ちを受け入れることも。
逃げ場など、恐らくきっとこの世界中の何処にもないだろう。
例え追っ手を殲滅させたところで、あの男は零を殺すまで容赦なく追い続けてくる。
そうなれば朱里も無事では済まないかもしれない。
(だが……あの男が朱里に触れるのを耐えられるか?)
想像しただけで無理だ、と全身が即答する。
このぬくもりを知ってしまったら、きっともう、自分は後戻りできない。
例え相手があの史上最悪の
だが、どんなに心に言葉を並べたところで、二人の未来には破滅しか待っていない事を誰よりも
だから想いのたった一言さえも、零は朱里に告げられずにいた。
「……ねぇ、零」
すり、と子猫のように朱里が零に顔を寄せる。
その声はいつもよりもずっと優しくて凪いたように穏やかだ。
「私ね…………零が好き」
零の目が見開かれる。それは零が朱里に言えなかった、禁忌の一言だ。
残念ながらその顔は朱里からは見えないので零の動揺は朱里には伝わらない。
「もちろん、お
最後は消え入りそうな声だった。
そのままお互いが手を離すことなく、抱きしめあったまま時が過ぎる。
ぐっと、零が震えた気がした。
「……お前を
「ふふふ、それは知ってる。そうじゃなきゃ嫌」
「……本当に意味を分かってるのか?」
「ひどいなぁもう。……ちゃんと、分かってる」
少しの沈黙ののちに、零はぽつりと呟いた。
「…………覚悟は、あるか」
「?」
「俺と逃げる、覚悟が」
そっと体を離し、真っ直ぐに朱里をみつめる。
戸惑いか不安か、その漆黒の瞳が僅かに揺れているようにも見えたので、朱里は安心させるように零の手の平を自分の頬に寄せて微笑む。
「うん、覚悟してる。――ねぇ零。私と一緒に逃げてくれる?」
「……っ」
返事の代わりに、零はかき乱すように朱里を抱きしめた。
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