第2話 一段上の幸せを望むこと。
冬の港は寒い寒いと聞いていたが、まさにうわさに違わぬもので、怒涛の寒気が海から吹きよせ、岩礁で弾ける波の飛沫まで凍りつくようだった。アカリはバスの降車口から外に出たが、思わず怯み、後ろの乗車口から入ってそのまま帰ってしまうところだった。
気合を入れて埠頭まで歩く。
「うっスアニキ」
「アニキとかいうな。おりゃあ女だ」
埠頭にならぶ倉庫の前でナツが待っていた。
アウトローたちを率いてこの町の裏社会を仕切る人物である。相貌はそれとしてふさわしいもので、顔の表面には弾痕が散らばり、右目が潰れて赤黒い肉が盛っている。縦にも高く横にも広い猛牛のような身体つきで、分厚い筋肉に守られてこの寒さもこたえているようには見えない。なにかの間違いでなければ、前回会ったときよりもさらにおおきくなっているようだ。
彼女も贖宥符持ちで、左手の甲にアカリとおなじ印形があった。近ごろひどくなってきた前屈みの姿勢で倉庫のシャッターを開けて招く。幅が十センチほどの厚いビニール布が二重に吊られており、それを割って入ると、機械的に調整された乾いた空気が頬をあおる。
倉庫の中は改装されたばかりで精密機械の工場のような清潔さだった。クリーム色の壁にはずらりと棚がならび、リボルバーからライフルまでさまざまな銃器がかけられている。まともではない風体の男たちが長テーブルに座り、銃の部品を丁寧にバラして整備をしていた。銃弾は自前で作っているようで、テーブル毎に異なる印のつけられたガンパウダーの箱と薬莢の盛られたザルがおかれ、ハンドローディングの機械が気でも違ったかのような速さで操作されている。
忙しく働く男たちの中を、ダンプカーが工事現場に進入するときの注意深さでナツの巨体が押し入っていった。奥にある革張りのソファーに案内され、ひとりの男から封筒を渡される。スープラへの納付金で、中はおほうとおなじ一万円だった。礼を言って懐にしまう。
以前に事務所で夕食を作るバイトをさせてもらっていたこともあって、アカリにとってナツは昔からの馴染みだった。雑談に紛れてキヨエが殺された件を投げてみると、ナツはすでに知っていた。知人の死には慣れているようで感傷のようなものは示されなかったが、ビジネスとしては珍しいほどの愚痴を聞かされた。
「今まで銃器の調達はキヨエ頼みだったからよ、正直かなり参ってる。余所者との諍いは増えてるし、早いうちにかわりの方法を考えないといけねぇ。それにしても、騎士団ってのはヤベーな。もちろんおれもいろんな悪さしてきたけどよ、他人さまのものを頂戴するときにゃそれなりの筋を通すのがアウトローってもんだ。それが騎士さまときたら『キヨエから流れた銃器を供出せよ。拒むなら実力を行使する』だってよ。こちとら銭を出して買ったつーの。それを全部吐きだせ、でなけりゃ殺すって、てめぇら追いはぎかっつーの。おれぁ思わず交番に駆けこみたくなったゼ。こいつら最高にイカしてる。ヤッパ騎士さまってのはやることが違うゼ!」
そう言ってナツは爆笑した後、ポケットを探って紙煙草を抜いた。男の差しだしたライターに顔を寄せ、火薬類の積まれた倉庫で平然と煙草をふかす。一息にフィルターまで燃やして、クリスタルガラスの灰皿で潰した。
「アカリ。エスはなにか言ってたか」
アカリは首を横に振る。
「そうか。ならうちは勝手にやらせてもらう。カツアゲされてピョンピョン跳ねてるようじゃあ商売あがったりだ。……しっかし、おめえぇもツイてねぇなぁ。せっかくここまで準備したのによ」
「なんのことっスか」
「なんのことって、指輪だよ、指輪。純銀。石なし。サイズは五号。バンド幅二ミリ。平打ちのストレートライン――、例のやつだ。五号っていやぁよほど小柄な女だ。贈る相手はエスしかいねぇ。しかも、おまぇの稼ぎでこの値段ってのはずいぶん気合が入ってるじゃねぇか。だからおれぁ言うわけだ。『おめぇもツイてねぇなぁ』ってよ」
ナツは他人の不幸が楽しくてしょうがないという顔つきをする。
アカリは開いた口がふさがらなかった。サイズとかバンド幅とか情報が細かすぎる。ナツとしてもそう引っぱるつもりはないらしく、宝石店の伝票のコピーをポケットから取りだして「商店街の網にひっかかったんだよ」と種明かしをした。
「あの女のどこが気に入ったってんだ。確かに見た目は珍しいし、他の女にゃぁできねぇことができるかもしんねぇ。けど話し方は偉そうだし、性格は悪ぃし、他の女とおなじことがとんとできねぇじゃねぇか。そういうの、ポンコツ、ってんだ、ポンコツ。しかもひでぇ癇癪持ちときた」
「……まぁ、そうスけど」
「で、どこが気に入ったってんだ。あのポンコツ悪魔のよ」
ナツはズイズイくる。
誤魔化したかったが逃げ道はなさそうだった。
「確かにエス姉ぇ、朝は起きれねぇし、飯は作れねぇし、掃除も洗濯もできねぇス。仕事がなけりゃ、いつも部屋でゴロゴロして菓子食ってるし。ホント駄目なんスけど」
「なんだぁ。ポンコツの上にロクデナシかよ。欠点ばかりじゃねぇか」
「なんつーかそういうところも含めて、おれがいねぇと死んじまうっていうか、放っておけねぇっていうか、その、可愛いらしいっていう感じで――」
「可愛いらしい? あれが?」
ナツはひとつしかない目を瞬きさせると、噴き出してギャハハと笑った。あの悪魔が可愛らしい? マジか。冗談だろ。と、内臓が引っくり返るくらいに大受けしている。
アカリは黙ってナツが笑い終わるのを待った。
「まぁ、なんつーか、おめぇの趣味はおめぇの趣味だ。他人がとやかく言うことでもねぇ。で、うまくやれそうなのか」ナツはひとしきり笑った後、優しい口調になって訊いた。考えて、「エスとの生活は守れそうなのか」と言いなおす。
「うス。だいじょうぶス、なんとかするス」
「おいおい心細ぇなぁ。なんとかしますじゃなくて、なんとかなったのか、ってぇことだ。おほうのところはどうだった。雇ってくれるってか」
「うス。来年の四月から来ていいって言われたス」
「おぅそうか。そりゃあよかった。なら、うちで下働きってのはナシだ。堅ぇ仕事に越したことはねぇし、これから修羅場なもんでな」と間を開けて、「おれらぁこの町の番犬だ。近ぇうちに騎士団とドンパチすることになる。うちが生き残ればよし。そうでなけりゃぁ、次はおめぇらの番だ。町を出る準備だけはしとけ。働く場所はべつにこの町だけとは限らねぇぞ」
「そうっスか」
アカリは短く相槌をした。とくに意味を込めたわけではなかったが、ピクと、ナツが眉根を寄せたのに気づいた。なにかが癇に障ったとアピールするときの仕草だった。
ナツは分厚い手のひらを振りあげて机に叩きつけた。
「『そうっスか』だぁ? 他人事みてぇにスカしてんじゃねぇぞ。おい、アカリ。こちとら命を賭けてこの町を守ってやろうてんだ。そこは嘘でも『わかりました。ありがとうございます』の一択だろうがぁ。それが人としての気遣いってもんだろうがぁ!」
「あー、すんません。すんません。以後気をつけます。アニキ」
「アニキとかいうな。おれァ女だ。てめぇおれを舐めてんのか? おれぁ他人を舐めるのは大好きだが、自分が舐められるのはでぇ嫌ぇなんだ。てめぇが舐めるのはエスのあそこだけにしとけッ! って、てめぇ笑ってねぇでワビ入れろワビ。誠意を込めてワビサビ入れろってんだ、おい聞いてんのかコラァ!?」
いかにも怒ったという風にナツは顔を寄せてくる。もちろん、それが本気ではないことはわかっている。よくよく聞いてみると「一曲歌え」ということだった。「迷える子羊を救うのもスーダラの役目だ」とかよくわからないことを言う。しかも間違っている。スープラ。
「それじゃあ。まぁひとつ」
アカリが立ちあがると、ナツは制止した。なにやら男たちに指示をする。男たちは倉庫の奥にぞろぞろ向かい、スタンド付マイクやらオーディオインターフェースといった本格的な録音機材を運んできた。
「マジっスかっ!?」
「マジだ」
ナツはニィと歯を見せる。
親しい人たちの間でアカリの歌は人気があった。ナツの商売気からすると音声をどこかに売るつもりなのかもしれない。呆れたが、しかたがないので、マイクのテストをして無伴奏で歌った。最初は一曲という話だったが、なんやかんやと理由をつけられて、二時間近くもかけて手持ちのレパートリーをひとつ残らず歌わされた。
男たちが作業の手を止めてこちらに集まってきた。
ナツも腕組みをして聴いている。
歌い終わった後、出前でカツカレーを奢ってもらった。千切りのキャベツ付きでソースのかけられたものだった。喉がヒリヒリした。
ナツたちはこれから射撃の訓練をしに船で沖合に出るという。おまえも来るかと誘われたが、エスの耳に入ると大変なことになるので断った。実弾を用いた射撃訓練には心惹かれるものがあった。一度やってみたかった。
◇ ◇
帰りのバスに揺られながら、アカリは天然水のペットボトルをあおって喉を潤した。
スープラとしての今月の収入はマリカからの分もあわせると三万円になる。基本的な生活費はアカリのバイト代とエスの代祷料で賄えるから、貯蓄に回せることを考えるとずいぶんありがたい。なにかエスの好きな料理を作ってやろうと思う。
コートのポケットに手を入れると箱が触れた。
取りだして開くと、純銀製のちいさな指輪がおさまっている。
シンプルなデザインは気に入っているものの、一般の社会人が贈るものに比べるとやはり金額的に劣る。指輪にかけられていた値札が自分の価値のように思えてしまう。
エスから与えられた【傲慢】の予言が思い出される。
黎明の子たるシナルの王よ。
明星を目指す塔城は神の雷に砕かれ、ひとつの民は万の数に分かたれた。
今こそ万族の言葉を巡らし辺境の軍団を虐殺の丘に召集せよ。
城壁に囚われた小羊の妻なる花嫁を奪回す。
神は生きて在り。火と硫黄の池こそ我らが故郷なり。
アカリはこれを太歳会の施設にいたころ聞かされた。
町を出て見知らぬ土地を旅し、言葉を異にする仲間たちとの冒険の末、エスを悪の城から救い出して結ばれるのだと、幼心に夢想した。
「了解した。では余の面倒はよろしく頼むのである」
エスも三日月型に口を曲げて嗤い、快く同意してくれた。調子にのって頼むと一度だけ、右頬へのキスも許してもらえた。その後、アカリはどんなに辛い時でも、苦しい時でも、いつかエスと結ばれるのだという未来を心の支えにして生きてきた。その夢を、その想いを、この安物の指輪ひとつに託さねばならないというのは、どうにもやりきれないものがあった。
アカリは深くため息をついた。とりあえず、ナツの一党が騎士団と衝突するらしいことをボイスメッセージで入れておく。大事に際しては、こまめな報告を欠かさないことがアカリにできる唯一の仕事だ。
――無駄だ。おまえにはできない。
空耳だか幻聴だか、朝とおなじ嫌らしい声が聞こえた。
「あぁそうですよ。おれにゃぁできませんよ、悪ぅござんしたね」
アカリは腐ってちいさく返事をしてやった。
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