第二章 贖宥符【傲慢】 大人になりかけた少年が悪魔に求愛して町を救うはなし。
第1話 明星の夢。
―― 聖誕祭より十九日前。
夏というのに肌寒く、天は暗い雲におおわれている。
木は葉を繁らさず、花は実を結ぶまでに萎びれ落ちる。
王宮の広場には身分の区別なく多くの人が集まっていた。一様に望みを失った顔つきで王の言葉を待っている。
おれは王笏で背後にそびえる城塔を示して叫んだ。
「さぁ、みなのもの。土を焼け。炭を捏ねよ。石のかわりに煉瓦を。漆喰のかわりに
人々の顔があかるくなり、勇壮な歓声が湧く。神に国の窮状を訴えるのだという者もいた。父祖の被った水の災いに復讐するのだという者もいた。おれは両手をあげて人とおなじ数の声にこたえる。いつものとおりだ。おれは巧く彼らを騙すことができる。
玉座の近くにボロをまとう巫女がいた。
目が合うと焼けた喉で叫ぶ。
「神に赦しを求めよ。神は求められ、そして与えるのである」
面白いのでそばにおいておいた。
城塔の着工から四十三年目のある日、暗雲のさらに高みにある天空が光った。巨大な雷光が束ねられて雲をひき裂き、風が樹木を折り、民家を崩し、そして、じきに雨がふりはじめた。
いつもそうするように、人々は王宮の広場に集まっていた。富貴の者。貧賤の者。それらの者たちが風に吹きあげられて四方ちりぢりに飛ばされるのを見た。彼らはしきりに叫んでいたが、獣たちの唸りのようでその意味はわからなかった。
ついに終りがおとずれたのだと悟った。おれは門を開けて蒸気のたちこめる城塔をのぼった。壁に塗り固めた瀝青が溶け、次々と煉瓦が崩れ落ちていった。最上階について見わたすと、楽園と謳われた王国は闇と光と混沌とに包まれていた。
おれは王笏で天を示してこの日のために作らせていた詩を詠んだ。破滅に瀕した絶望の声が正しく神の御座にまでとどくように。我らの挑んだ偉大な事業が正しく記憶の石板に刻みこまれるように。
ひときわ強い風に吹かれて、おれの身体は塔から投げ出されようとした。
何者かが腕にしがみついて金切り声をあげる。
「神に赦しを求めよ。神は求められ、そして与えるのである」
「王を愚弄するものではない」
おれは手をひき剥がすと吹きすさぶ風に身を任せた。
風の音に紛れて巫女の悲鳴が聞こえた。
――。
◇ ◇
この夢を見た後は、いつも高揚感が残っている。
恐ろしい夢だった。
しかし怖い夢ではなかった。
最後には破滅してしまうものの、己の力で屹立し、神からの赦しを拒絶する誇り高い王の姿――、それは、社会的な立ち位置が平凡よりかなり下であると自覚するアカリにとっては、おとぎ話の英雄のような、憧れてやまない理想的な生き方だった。
見ると窓から朝陽がさしこんでいた。
壁の時計は七時半を示している。
六畳一間を縦に仕切るカーテンは半分ほどが開かれ、その向こうではエスが枕に顔をうめて寝息をたてている。枕元には聖書が開かれたままだ。昨夜、アカリは遅くまで音読の練習をしていた。エスもそれにつきあっていたが、ふたりとも寝落ちしてしまったようだ。
アカリはカーテンをひいて閉じると、自分の布団をあげてちゃぶ台を組み立てた。動きやすい服に着替えて朝食の支度にとりかかる。ひさしぶりに王の夢を見て浮かれていた。ちょっと贅沢に、味噌汁のダシに粉末調味料ではなく本物のイリコを使う。主菜に魚肉ソーセージではなく夕食用にとっておいたアジの干物を焼く。タクアンにもひと手間かけて千切りにしてかつお節と胡麻油で和える。
料理ができてもエスは起きてこなかった。おおきな音をたててカーテンを開き、両手で身体を布団ごと揺らす。エスは寝ぼけ眼でごにょごにょと言い、起きる正当な代価として歌をひとつ要求した。無理やり身を起こさせた後、目覚めにふさわしい朝風の讃歌を歌ってやる。歌いながらお膳立てをしていると、エスは前に倒れてまた寝てしまっていた。
けっきょく、アカリはひとりで食事をして、ひとりで片づけた。エスの分にはラップをかけておく。今日はスープラの集金日で二件の訪問の約束があった。遅れるわけにはいかない。
出かける前にひとつ、やっつけねばならない仕事があった。
戸棚の陰に隠していたちいさな箱を取りだして中にある指輪を確認する。純銀製で石のない、細身で平打ちのものだ。寝ているエスの手を取って指にはめてみる。サイズはぴったりだ。すぐに抜いて箱にしまう。エスに見つかると厄介なのでポケットに入れて持ち歩くことにした。
◇ ◇
訪問先のひとつめ。
おほうの屋敷は、この町でも名の知れた武家屋敷通りにある。煉瓦造りの道に沿った水路の流れる一角で、敷地を囲む板塀の向こうに木造二階建ての年季の入った家屋がある。
呼び鈴を鳴らすと門は自動で外に開いた。砂利に敷かれた踏み石をわたる。屋敷の扉はガラス張りの引き戸で、内に広い玄関があり、衝立と白菊を主枝にした生け花がおかれている。入口にも呼び鈴があるが、それは鳴らさずに入る。
「アカリっス。おじゃましまーす」
間延びした声をかけて返事を待たずにあがる。
おほうは座敷の窓辺に正座をしていた。
「アカリさん。いらっしゃい」
細く切れた目を緩めて穏やかな微笑みで迎える。
彼女の前には盆があって茶入れの道具が揃えられていた。縁側の障子は開けられてガラス窓の向こうに剪定された庭木が見える。
アカリは頭をさげた後、敷居や畳の縁を踏まないよう気をつけながら中腰で向いに行った。座布団の上に身を縮めるようにして正座をする。ペコリと頭を下げる。
「うちにはあまり顔を見せてくれないのね。寂しいわ」
おほうは茶を入れながら恨み言を零した。菓子と汲み出しをアカリに出した後、二通の封筒を差しだす。
一通はスープラへの納付分、もう一通はアカリのバイト代である。
アカリは封筒を取りあげると、おほうの前で中を確認した。スープラ宛ての封筒はいつも通り薄っぺらで、一万円札が一枚入っているきりだ。収入の十二分の一をスープラにおさめる約束だから、太歳会の先月の収入は十二万円ということらしい。
「ごめんなさいね。最近は景気が悪くて。寄付が減っていてうちも苦しいの」
おほうは困り顔で白々しく言う。
アカリはチラリと床柱にかけられているカレンダーに目をやる。遠くてよく見えないが、それはおほうが寄付金を集めて回るスケジュールで、太歳会とつながりのある企業の略号と息を呑むほどの金額がメモされているはずだった。
一方、アカリへのバイト代は厚みがあった。出して数えるといつもより多い。同封されていた明細は読まずに戻す。
「先月はがんばってくれましたからね。お礼もふくみ」
「ありゃース」
アカリはおどけて封筒を額に掲げる仕草をする。
おほうもアカリとおなじ贖宥符持ちだった。相は【貪食】というが、どのような経緯でエスから与えられたのかアカリは知らない。彼女の喉元には八芒の印形があり、その下には首吊り縄のように黒い組紐文様が描かれている。
その後、アカリはおほうと世間話をした。最近、町に終末の噂が流れて騒がしくなっているが、おほうは「あら。そうですか」とまったく気にする様子がない。どこで見られたのか、聖マリア学園に忍び込んでいたことをからかわれた。「エス姉ぇに言われてやってるだけです」そう言い訳をすると、「とても可愛らしくてお似合いでしたよ」おほうは楽しげに笑う。
おほうの機嫌がよかったので、会話の間を見計らってかねてより考えていたお願いをした。
おほうさま、おれを太歳会に正職員として雇ってもらえませんか。おれ、誰とでも話ができます。聖歌も歌えます。料理も得意です。一生懸命働きます。お願いします。
おほうは豆鉄砲を食らったようだった。「あなたの言葉は特別ですからねぇ」と思案した後、「読み書きはどう。すこしはできるようになったかしら」と核心をついてくる。
「はい。だいじょうぶです。毎日練習しています。かなりできるようになりました」
「でもあなた、さっきお給金の明細を確認しなかったでしょう」
「はい。帰ったら確認しようと思って」
「今していただけるかしら」
アカリはしかたなく封筒から給与明細を取り出した。一番おおきな横書きの文字の並びに目をやる。最初、『糸合五支糸合日月糸田■』と見えて怯んだが、指でひとつひとつ文字の区切りを確認して『給与支給明細書』と意味のある形に見てとることができた。
「明細の名目を読んで」
おほうは容赦のない指示をくだす。
ちいさな文字はさらに厄介だった。縦や横の線が入り乱れて全体が黒くなると、形を把握するどころか目の焦点を合わすことすらできない。それでも強く瞬きをして視界をリセットしつつ、一文字一文字発音していった。たいていは合っていたと思う。いくつかは間違えたかもしれない。交通費と雑費という名目でおほうがバイト代を水増ししてくれていたことはわかった。
「アカリさん」
「……はい」
「うちは役場とのおつき合いが多くてね、けっこうな書類仕事があるの。町の外とのやりとりも書簡が中心。読み書きがむずかしいとなると、どうしても一段下の扱いになってしまうわ。それでもよろしければ太歳会はあなたを歓迎します。入職の季節になったらまたいらっしゃい。でも、まだ時間はありますし、他のところも考えてみてはいかがかしら。うちがアカリさんにとってベストな働き口とは限らないわ」
他は考えていません、一段下でだいじょうぶです、ありがとうございます。そうアカリが答えようとすると、ぶしつけな質問が飛んできた。
「というかアカリさん。あなた、まだこの町にいらっしゃるおつもり?」
アカリは試されているのだと思った。前のめりになって意気込みを示す。
「えぇ。おれ、この町にずっと住むつもりです。エス姉ぇといっしょに暮らすつもりです。そのために安定した収入が欲しんです。お願いします!」
するとおほうは目を瞬かせた。「あら。いえ、ごめんなさい。そういうお話ではなくて、ですね」と言いかけて、「あ、えと。まぁ、そういうお話でもあるのですけれども」やや頬を赤らめてコホンと咳払いをする。
姿勢を正してアカリを見た。
「あなた、刀剣十字騎士団というものをご存じかしら」
「もちろん。キヨエさんのところですよね。山の修道院の」
「その騎士団さんが、この町に本格的な拠点を作ることになっております。そのための露払いをするそうです。太歳会は中立で黙認することになっていますが、なにかと騒々しいことになりそうですよ」
「そうですか。エス姉ぇにも伝えておきます」
「エスはすでに知っています」
「……そうですか」
「あなた、なにも知らされていないのですね」
「……はぁ」
「他人事ではありませんよ」おほうはぴしゃりと手で膝を打った。「露払いの対象には、エスも含まれています。刀剣十字騎士団は、この町を根城とする贖宥符の悪魔、エスを討伐すると仰っているのです」
アカリは流れのまま「はぁ」とこたえてしまうところだった。間をあけてから理解し、息をのんでおほうを見る。
おほうの顔つきに冗談の向きはない。
「でも、キヨエさんはどうなんですか。あの人、お偉いさんなんですよね。山の修道院を創った人ですし。修道騎士とか」
「キヨエは殺されました。二週間ほど前のことです。騎士団資産横領の疑い――、粛清だそうです。修道院には他にふたりの騎士がつめているのですが、その内のひとりの手にかかりました。背任の罪を犯した者の遺体は騎士団では扱えないというので、うちがひき取りました」
「……マジすか」
「マジです。葬儀も埋葬もうちで対応いたしました。わたくしも個人的にキヨエとは浅からぬ縁がございましたから」
そのときジーンズのポケットに入れていた携帯が振動した。
取りだして見ると、次の訪問先であるナツからだった。どうしようかと迷ったが、待たせても面倒なので、おほうをチラ見しながら電話に出て要件を訊いた。今日は倉庫にいるから港まで出てこいとのこと。
おほうは黙ってアカリの電話が終わるのを待っていた。気分を悪くした様子もなく、「訪問先で電話を受ける際には席をたつのがマナーですよ」と気のない調子で注意をする。
「騎士団の資産はナツさんのところに流れていました。ナツさんも討伐対象とのことですから、まずはあそこに火がつくことでしょう。できるだけかかわらないようになさい」
「……はぁ」
知らないうちにとんでもない話が持ちあがっているようだった。人死にまで出たとなると穏やかではないが、風が吹けば飛ばされそうな自分の立場でなにができるものかとも思う。
最後に、おほうからの求めでハレルヤの讃美歌を歌った。幼いころ太歳会の施設で教えてもらったものだ。おほうは目を閉じて耳をかたむけていた。
帰りしなの玄関口で、エスに肩入れしないのかと訊いてみた。
「わたくしは必ずしもエスの味方というわけではございません。大人には立場というものがございますし、今まで生きてきて譲れない部分というものも、やはりあるものです。いたしかたないところにいたるのであれば、それもまたいたしかたないものであると考えております」
そしておほうは喉元の贖宥符に触れた。
「この奇跡を与えてくれたことについては、確かにわたしくしはエスに感謝しております。ですが、どのような奇跡も人としての道を外れる理由にしてよいものではありません。あなたの前で言うべきことではないのかもしれませんが――」
と、一呼吸おいて、
「とどのつまり、わたくしはエスのことが大嫌いなのです」
言いにくいことをはっきり言いきってしまう。
おほうとエスの間でまたなにかひと悶着あったようだった。一週間ほど前、エスがおほうの屋敷から傷だらけになって帰ってきたことを思いだす。
「でもアカリさん。あなたは別です。もともとうちの施設の子なんですから、いつでも戻っていらっしゃい。あの賢しらな女といっしょにいてもロクなことになりませんよ。この屋敷には空き部屋がいくつもありますから」
アカリは苦笑いをする。
「ありがとうございます。だいじょうぶス。なんとかします」
念のため、あらためて太歳会に就職したい旨を伝えておく。おほうは「そうですか」とこだわらない様子で、「それでは来年の四月から。よろしくお願いします」と丁寧に頭をさげた。
アカリも一礼して屋敷を辞した。
――無駄だ。
どこからか人の声を聞いたような気がした。
振り返ったが、おほうが複雑な表情で見送っているだけだった。
◇ ◇
おほうの屋敷を出た後、大通りで港行きのバスに乗った。後輪の振動を真下に感じながら、エスにボイスメッセージで報告を入れておく。
――キヨエさん殺されたって。
エスはもう起きているようだった。すぐ既読になったが、返信はない。
――エス姉ぇも騎士団に討伐されるんだって。
既読にはなったが、やはり返信はなかった。
「なんでこのタイミングかなぁ。やっぱおれツイてねぇよなぁ」
冷たい窓ガラスに額をあてて外を眺めた。
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