第10話 一週間後。
マリカが目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
アルコールと塩素が強く臭う部屋で、薄いけれども妙に重たい布団がかけられている。息苦しい。
どこからかかすかに「
頭ははっきりしていた。そう認識できる程度に頭はだいじょうぶそうだった。指で後頭部に触れる。痛みはない。雑に触ってみる。形にも硬さにも異常はない。それなりに重傷だと思っていたが、勘違いをしていたのかもしれない。頭蓋骨を固定する器具どころか包帯すら巻かれていない。
横に視線をやる。ヘッドボードのナースコールやベッドを起こすためのリモコンなど、病室としての体裁はひととおり整っている。ドラマでよく見るような生命維持装置や心拍数を測る機械はなく、広い個室のまんなかにベッドがおかれているきりだ。
身体を起こした。
夢?
まさか、と思い直した。
それとも死後の世界?
「それはおまえの心の持ちよう次第である」
疑問に答える枯れた風のような声があった。
「まだ休んでおれ。思考が言葉に出ておる。混乱しておるのである」
マリカは、ベッドの隣にあるパイプ椅子にエスが座っているのに気づいた。病人の付き添い役然として、果物ナイフでリンゴの皮を剝いている。目の調子がおかしいのか、ナイフの刃が黄金色に輝いて見えた。不思議な速さでするする剥いている。エスには家庭的なことをするイメージがなかった。やはり夢なのかもしれない。
エスは皿の上にリンゴを切り分けると、ナイフを丁寧にハンカチで拭って皿に置いた。欠片のひとつをホークに刺してマリカの鼻先に突きだす。食欲はなかったが、せっかくなので齧ってみた。すると青臭くて吐きそうになった。エスが反対の手で棚にあるテッシュを抜いてくれる。マリカは口の中のものを取り出しながら、テッシュをわたしてくれたエスの手の指に指輪がはめられているのに気づいた。
なにもかもがよくわからなかった。あたりを見回す。ガランとした広すぎる部屋だ。エスのほかにも誰かのいた温度と匂いが残っている。男と女の混じった匂い──。嗅覚が妙に冴えている。
「飲め。クスリである」
エスから粉薬と水の満たされたコップをわたされた。飲むと、生薬の風味の強いもので、歯が溶けるかと思うくらいに甘い味がした。頭がぐらぐらし、清らかな光が見えてそちらに引っ張られそうになる。意識を凝らして踏みとどまる。
エスはマリカの様子を窺うようにしていたが、「やはり送ることはできぬか」とひとりごとを零した。
休むとおかしな感じも落ちついてきた。
あの夜のことを思いだす。真夜中の学園に忍びこんだこと。金髪女と戦ってやっつけたこと。そして、アンジェラと唇を重ねたこと。舌まで絡めたこと──。
顔が爆発しそうになった。ものの勢いとはいえ、この自分があんなことまでしてしまっていた。心臓がバクバク鳴る。この音は外に漏れないかと心配になる。
深呼吸をして気持ちを落ちつかせた後、コホンと咳払いをした。
すました声をつくろって宣言する。
「エス。あなたの予言外れたわ。わたし不条理と戦ったの。そして勝ったの。アンジェラを不条理から救うことができたの」
言葉が淀みなく出てくる。
「そうであるか」
エスはいつもの表情の乏しい顔をしていた。残念がる風でもなく、悔しがる風でもない。
それはかえってマリカを不安にさせた。
浮かんだ疑問を口にしてみる。
「アンジェラはどこ」
エスはマリカを見ている。
返事はない。
単に知らないということなのか。それとも──。
マリカの疑問に答えるように、エスはポケットを探って一片の鏡片を取り出した。五センチ四方くらいの大きさで、怪我をしないよう角が丸く削られている。これには見覚えがあった。あの金髪女がマリカを映し見ていたものだ。差し出されるままに受け取ると、裏表に鏡面が作られていて、鮮やかな色合いで病室が映った。
まだ目がおかしいのかもしれない。
マリカには最初、そこに自分の姿が映っていないように見えた。
ひっくり返したり角度を変えたりしているうちに、ようやく自分の姿を認めることができた。
エスが静かに告げる。
「おまえの言うとおりである。おまえはフユコを不条理から救ったのである」
救った──。
言い方が曖昧でよくわからない。
マリカは鏡片に映る自分を見つめた。指先で顔に触れる。目に触れる。鼻に触れる。そして、アンジェラと口づけを交わした、唇に触れる。それなりに見慣れた顔立ち。ただ、結膜炎にでもなったのか、両目が真っ赤に充血していた。心もち目鼻立ちがはっきりして、口端が横に広がり、鋭く尖った犬歯がのぞいている。
「【倦怠】の奇跡である。フユコの気風に当てられたのである」
「……アンジェラは、アンジェラはだいじょうぶなの?」
エスはそれには答えなかった。
「おまえはまだ混乱しておる。複雑な事情もある。折を見てゆっくり話して聞かせよう。アカリを呼んでくる。今、休憩室で専門医と話をしているはずだ。あれもずいぶん心配していた。おまえは一週間も意識を失っていたのである」
そう話を切りあげると、エスは皿のナイフを取って立ちあがった。彼女の白くて長い髪が揺れて風を起こす。彼女の体温とともに、誘うような甘い香りがマリカの鼻をくすぐる。散らばって戻る白い髪の隙間に滑らかな首筋がのぞく。
マリカは急に強い渇きを覚えた。
駄目──。
かすかに聞こえた光のような声を脇にのける。
右手をゆっくりとのばす。エスはすでに扉のところで、ベッドからは十歩ほども離れていた。普通に手をのばしてとどく距離ではないが、マリカにはなぜか、自分の腕であればそれができるように思った。いつだったかに見た桜の樹に群がるバンシーたちのように、腕をのばして、エスの首筋に触れることができると思った。
エスのうなじの白さが眩しい。
薄い皮膚の下に流れる赤い血の温もりを、その蕩けるような甘さを想った。
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