第9話 白馬の騎士を不条理から救いだしたこと。

 

 寮の自室に戻ってもマリカの興奮は冷めなかった。


 数時間前まで告白できるかどうかで悩んでいたことが、どこか遠い町に住む夢見がちで世間知らずな小娘の話のような気がした。


 なにしろ、自分はもうキスをしてしまったのである。


 キス!


 しかも相手は、鏡に映る自分ではなく、両膝に挟んだ丸めた布団でもない、ちゃんと生きていて体温があり、人として動く想い人、アンジェラなのだった。


 唇の感触を確かめる。化粧気のない滑らかな肌の質感が残っている。これを保存しようと上下に絆創膏を貼った。鏡を見ると売れない芸人のようになっていた。有頂天になってベッドにダイビングをする。枕を抱きしめて足をバタバタさせる。幸せだった。夜になるのが待ち遠しかった。


 あ。いけない。エスに知らせないと──と、マリカはSNSでメッセージを入れようとした。連絡が取れなくなってからずいぶんたっていたが、形だけでも報告をしておくのが義務のように思えた。そして、うむむと唸って腕組みをした。どう書けばよいのだろう。これはいったい、どういう状況なのだろう。


 まず、恋の告白はしていない。にもかかわらず、キスはした。アンジェラと会って左手を切り落とされる予定だ。この世界は滅ぼされるらしい。


 脈絡がなさすぎて自分でも意味がわからなかった。


 なので、大切な結論だけを書いた。


「夜の十時学校。アンジェラと会います。勝算あり」


 嘘でも間違いでもなかった。ややこしい説明は省くことができたし、口にするのは憚れる企みも隠すことができた。


 念のため財布の中身を確認しておく。バイトで稼いだそれなりの枚数の一万円札がおさまっている。洒落たホテルのスイートルームに二泊くらいはできそうだ。キスの次に望むべきことなど決まっている。ふたりが混じり合ってひとつになること──。マリカは、バスローブを着てワイングラスを揺らす自分とその足元にしなだれかかるアンジェラの姿を想像し、また枕を抱きしめて足をバタバタさせた。


 そして、枕に顔を埋めたまま動きを止める。


 考える。


 望外のツキに恵まれてはいるものの、手放しで喜べる状況でないことは承知している。キスで触れたのがアンジェラの頬だったことだけではない。もっと根本的な部分が残っている。自分はまだ【愛】の告白をしていない。


 これでは駄目だった。


 今までとたいして変わっていなかった。


 だからマリカは、今夜会ったらすぐに告白しようと思った。アンジェラに愛していると伝えようと思った。


 それにしても、やはりエスからの返信はなかった。携帯を確認すると既読にもなっておらず、エスのアカウントにはログインのランプもついていない。「まぁいいか」と考えなおす。ここまで来てしまえば誰かのアドバイスが必要とも思えない。


 マリカは狙って一番風呂に入り、綺麗な湯につかって身体を隅々まで洗った。廊下ですれ違う寮生たちを会釈でやりすごし、ガランとした食堂で早すぎる夕食をすませる。時間まで余計なことはせず、部屋にこもって待つことにする。


 消灯の時間がすぎ、約束の時間が近くなって、前にそうしたように調理場を通って外に出ようとすると、ポケットにある携帯が震えた。エスからの返信だった。急いで確認する。てっきり、頑張れとか、おめでとうとか、そういうはなむけの言葉が送られているのだと思った。


 しかし違った。



 心せよ。

 今夜、フユコは不条理によって命を落とすであろう。



 マリカは文字を見つめた。


 すぐに電話をかけた。しかし、「電源が入っていないか電波のとどかない場所にある」との自動メッセージが流れて、何度かけなおしてもつながらなかった。SNSのログインランプも消えている。


 マリカは歯噛みして携帯を額に押しつけた。


 これはよほどのことに違いなかった。


 アンジェラとエスの関係が気にかかるが、アンジェラの微妙な言い方からして敵同士というわけでもなさそうだ。もしエスがアンジェラの命を狙っているのだとしたら、マリカにそれを教えるはずもない。


 マリカは調理場で武器になりそうなものを探した。包丁は棚に片づけられて厳重に鍵がかけられていたので、右手に剣として擂粉木を持った。左手に盾として鍋の蓋を持った。頭に兜として大鍋をかぶると、前が見えなくなったので、スチールのボウルに代えた。ラップを巻いてあご紐にすると固定されて具合がよかった。


 約束の時間が迫っていた。


 マリカは調理場の裏口から出た。柵の破れた穴をくぐり、城址跡地公園の近道へと向かう。堀の暗い水面がマリカを誘うが、無視して走り、そのまま聖誕祭の電飾の施された大通りに入る。静かで人通りはない。


 雲間に見える月は真円に近い。穴づまりのなおされた融雪装置がくるぶしほどの高さに揃えて温水を吹いている。車道にも歩道にも硫黄の臭いのする靄があふれてゆるやかな坂を流れている。


 靄を踏んで先を急ぐ。


 パシャパシャと靴が水音を立てる。


 住宅地の路地には入らない。警察官に声をかけられたら、エゴ・ソルス・バレオで昏倒させてやるつもりだ。


 マリカは心の中で叫んだ。


 不条理。

 不条理!

 不条理!!


 またこいつが現れた。


 いつだってこいつが現れる。


 わたしの人生を台無しにしてきたもの。わたしがこの世界を憎むそもそもの原因。しかも今度はアンジェラの命を奪うのだという。善良な信仰者の魂をすら踏みにじるのだという。その顔は悪意に満ちている。人が苦しむ姿を眺めて嗤っている。許さない。許せない。許すべきではない──。やはりこの点について、アンジェラは間違っている。


 マリカは一ミリの譲歩の余地もなく断言できた。


 受け入れるとか、無理。あきらめるとか、無理。もうなんていうか、ぜんぶがぜんぶ、無理、無理、無理!


 マリカは憤怒に燃えた。


 なにがなんでもやってやる。命を棄ててでも。今度はわたしがアンジェラを救いだすのだ。あの恐ろしくて逃げ場のないトイレからアンジェラが自分を救いだしてくれたように。罪に苛まれる心の暗闇から自分を掬いあげてくれたように──。





 バンシーと戦った時とおなじように、マリカは片引きの門をのぼって学園の敷地に入った。中庭や校庭を速足でうろつき、目を凝らして仇を探す。


 不条理はどこだ。


 アンジェラを殺す奴はどこだ。


 おまえかッ? 最初に見つけたのは、円形の煉瓦花壇の中心で優しく微笑んでいる聖母子像だった。これではなかった。おまえかッ? 次に見つけたのは、校舎脇に建てられた飼育小屋で養われている可愛らしい兎たちだった。これでもなかった。おまえかッ? そして最後に見つけたのは、中庭に設えられた防犯灯の下に立つ、おとぎ話に出てくる騎士のような白い外套を身にまとう金髪の女だった。


 それは異国の人だった。


 アンジェラほどではないにしても背が高く、二振りの刀を両足の太ももに革帯で吊っている。いつだったか、マリカは一度、この人がおほうさまに連れられて視察のような形で施設をおとずれているのを見たことがあった。どうしてか、外套からのぞく左手がおかしな質感で黄ばんでいる。連想してしまう。雷害に蹂躙された焼け野原で、幼女がアンジェラに差しだしていたもの。切断された腕の──、死体の色。


 怪しい上に不気味だった。アンジェラは世界を滅ぼすと言っていたから、それを邪魔する正義のミカタというやつなのかもしれない。金髪女の右の手元がチカチカ光る。目を凝らすと、指の間に鏡片を挟んでこちらを映し見ている。


 駆け寄って、ここでなにをしているのかと訊いた。言葉が通じないようなので、学校で習っている外国語を使う。


「デゥー・ユー・ノウ・フユコ?(フユコを知っていますか?)」


 すると金髪女はマリカの知らない言葉で返してきた。舌を巻くような発音でフユコという単語が混じっている。やはり目的はアンジェラのようだ。マリカはアンジェラとこの中庭で待ちあわせをしているから、とにかく金髪女をここからひき離さねばならない。


 ジェスチャー混じりでフユコのところに案内すると伝えると、金髪女は表情をやわらげて素直について来た。


 マリカは先導して歩く。


 吐く息が白い。


 ずいぶん気温が下がっているようだ。


 空を見ると、月が雲に隠れて雪までチラホラしていた。明日には積もるのだろうか。もし積もるのであれば、それは美しくて幸いなことだと思う。


 体育館脇の小径に着いた。以前、マリカがアンジェラに挨拶を試みた場所だ。ふたりの足音を感知して駐輪場の青白いライトがつく。


 金髪女はあたりを見回していた。


「ヘイ・ユー」


 マリカは呼んで両腕でバツを作った。


 確実に意思が伝わるよう簡単な単語を選んで伝える。


「ユー・ドント・キル・フユコ!(フユコを殺さないで!)」


 すると金髪女の顔に険が浮かんだ。右手がすっと左腿の刀の柄に添えられる。マリカは身構えたが、金髪女は思案した後、刀は抜かずに柄から手を放した。人差し指でこちらを示して、外に払う。消えろ、と言っているようだ。


 こうなるともう疑いの余地はなかった。


 この金髪女こそがアンジェラの敵なのだった。


 マリカは右拳を前に突きだして親指を立てた。前にアカリが示した、グッドジョブのサイン。もちろん金髪女にエールを送るつもりはない。立てた親指をくるりと下に向ける。


「アイ・キル・ユー!(わたしがあんたを殺してやる!)」


 金髪女は言葉を失ったようだった。舌打ちをして恫喝する。さっさと消えろ。たぶん、そんなことを言っている。


 フン。消えてたまるものか。


 あんたなんかたいしたことない。


 いつだったかの大女の方が、百倍は怖かった。


 とりあえず殴ってやろうとして擂粉木を振りかぶると、パンと音がして擂粉木が夜空を飛んだ。いきなり金髪女が目の前にいて、右足で蹴り飛ばされたのだった。その右足が地に着くと、次は左足。パンと心地よい音がして、今度は左手の鍋の蓋が飛んだ。よほど芯を捉えたらしい。手が痺れる。


 金髪女はステップを踏んで距離をとると、またこちらを指さしてうるさくした。


 マリカは新しく武器になるものを探した。こうなれば本気を見せてやるしかなかった。小径の脇に捨てられていたコンクリートのブロックを両手で持ちあげ、横に振りかぶり、勢いそのまま走って金髪女にぶつけてやる。


「うわぁぁあっ!」


 叫びながら振りぬいたが、よけられてしまった。倒れぬよう踏ん張り、しっかり持ちなおして、今度は逆の横殴りで当てようとする。


 金髪女はまた後ろに跳んでかわした。刀を抜かないあたり、マリカ相手に武器はいらないと踏んでいるようだ。両の手のひらを見せてなだめようとすらしている。


 しかし、マリカになだめられるつもりはなかった。ブロックを持つ手が疲れて下がる。ふーっと息を吸って、今度は頭上に持ちあげる。できるだけ相手の逃げ場所がないよう工夫して、小走りに距離をつめて右斜め上から振り下ろす。


 すると、金髪女の姿が消えて、マリカは前につんのめった。ブロックが地面を穿って転がる。横から腕を掴まれて、振り回された。あごに地面がぶつかる。右腕を後ろに捻られて押さえつけられていた。怪我をしないよう気遣われているらしく、圧しかかってくる体重はない。


 マリカはこれを待っていた。全身のバネを使ってしゃくるように立ちあがる。右の肘と肩が鳴ったが、それでも構わず、身体を返して左腕で金髪女の腕にしがみつく。口を開けて噛みついてやった。金髪女がひき剥がそうとするので、逃がさぬよう歯を布地に埋める。


 そして全力で──、



 エゴ・ソルス・バレオ。



 破裂音がして白い波紋が広がった。


 金髪女の身体から霧が噴きだしてマリカの身体に流れこんでくる。手加減などしない。残らず元気を吸いだしてミイラにしてやるつもりだ。


 ザマァミロ!


 と、気持ちよく感じてすぐ、


 あれ?


 と、疑問に思ってしまった。


 金髪女から出ていた霧が収まっている。


 なにがどうなったのか、マリカの足は地面についていなかった。目の筋肉がひきつる。視界が上を向きそうになる。腕に噛みついた状態のまま、マリカは持ちあげられて、体育館のコンクリートの壁に後頭部を打ちつけられていた。


 目の前に金髪女の顔が迫る。うっすらと笑って短い言葉を口にする。「放せ」と言ったのかもしれない。「殺すぞ」と言ったのかもしれない。


 マリカは殺されても放すつもりはなかった。


 もう一度エゴ・ソルス・バレオを発動させようとすると、持ちあげられている高さから勢いをつけて、後頭部を地面に叩きつけられてしまった。ボウルにはどれほどの緩衝効果があるのだろう。痛い、というより、痺れた。身体に力が入らない。自分のものではないようだ。


 それでも頭だけは違った。口だけは違った。犬歯が布地を食い破って金髪女の肉を捕えている。練乳のように甘い液体が喉を潤す。それがまたマリカに力を与える。


 やっぱりわたし、今日はキテる。


 マリカは思わずニヤけてしまう。負けつづけてきた人生の中で、ほとんど初めてといっていい、大金星。


 心の中で嚙みしめるように呟く。



 エゴ・ソルス・バレオ。



 金髪女は苦悶の呻きをあげた。


 執拗にマリカの後頭部を地面に叩きつける。


 大変そうだな、と他人事のように思う。マリカとしてはもう気楽なものだ。痛みはない。苦しさもない。後はこのまま、歯が肉を放さないよう力を保つだけ。歯が肉を噛み千切らないよう、心を砕くだけ──。

 ──。





 いつからか、マリカは意識を取り戻していた。


 どのくらい気を失っていたのだろう。かたわらに金髪女が倒れていた。右手で刀を抜きかけたまま、こちらに背を向けてうずくまっている。生きているのか死んでいるのか、ピクリともしない。


 マリカは右手に力を入れた。動かなかった。左手に力を入れた。こちらは動いた。両足も動き、よろけながらも立ちあがることができた。


 マリカにはアンジェラとの約束があった。


 行かなくてはならない。


 ぼんやりした頭で目的地までのルートを苦労して組み立てる。駐輪場から体育館の渡り廊下を横切り、校舎沿いにまわって中庭に入る。ちいさな髑髏の埋められていた桜の樹のところで、アンジェラが待っているはずだ。わたしは愛の告白をしなければならない。


 マリカは歩きながら、後頭部のことを思いだした。痛みは無いものの、おかしな圧迫感がある。触ろうとして、止めた。どのようなことになっているのか自信がなかった。ボウルは今もきちんとかぶっているのだろうか? 一度触れてしまうと、知らないほうが幸せだった現実に放りこまれてしまう、そんな恐ろしさがある。


「マリカさん?」


 中庭に入るところで声をかけられた。


「マリカさん。マリカさんなの?」


 懐かしい声だ。


 一万年ぶりのような気がする。


「なにがあったの。どうしたのその傷は──」


 アンジェラが桜の樹のところで立ちすくんでいた。


 もうしわけないな、と思う。きっと自分の傷はひどいのだろう。もしかするとゾンビのようになっているのかもしれない。ゾンビに告白されるなんてどんな罰ゲームだろう。マリカはクスリとしてしまう。アンジェラも負け組だね。わたしと、おなじ。


「救急車を」

「アンジェラ。好き」


 あっさり発音できた。淀みはなかった。力みもなかった。それは自分でも不思議に思うほどで、脳がどこか欠損したためなのかもしれなかった。


 ついでに素晴らしい閃きがあった。


 マリカは石のようなものにつまづいた、ふりをした。


 狙ったとおり、近づいてきたアンジェラの胸の中に倒れこむ。


 うしっ! 


 心の中でガッツポーズをした。


 どさくさに紛れろ! このまま押し倒せ!


 戦闘開始のラッパが鳴った。心の中の悪魔が百人に増殖して全弾発射のボタンを押しまくった。ふんっと、相撲をとる勢いで前のめりに力を込める。アンジェラの身体は鉄芯を通したようにびくともしない。ふんっ、ふんっ、と、マリカはメゲずに力を込めたが、武道で鍛えられたアンジェラはどうにも手強かった。


 そんなマリカの奮闘をよそに、アンジェラはマリカを抱いたまま腰をかがめて、膝を折って座った。マリカを上向きに寝かして、後頭部を膝におく。それでもマリカは興奮して、ふんっ、ふんっと、力を入れつづけた。ようやくおかしなことに気づく。勢いがあるのは気もちだけ。肝心の身体が動いていない。


 アンジェラの慈しむような顔が寄せられた。マリカは恥ずかしくて消えてしまいたかった。弁解しようとした。自分は悪くない。魔がさしただけ。あるいは、頭がすこし壊れただけ。


 マリカは、温度のある液体が自分の顔に触れるのを感じた。見ると、それはアンジェラの目から落ちてくるもので、目の色とは違う、透明な色をしていた。マリカは意味がわからず、アンジェラが涙を零すのを見つめていた。


「アンジェラ。わたし、あなたのことが好き」


 自然とまた言葉が出た。


「アンジェラ。あなたは、わたしのことが好き?」

「ええ、好きですよ」


 アンジェラは優しく笑う。


「わたし、アンジェラのことが好き。世界で一番好き。宇宙で一番好き。大好きなの」

「ええ。わかっているわ」

「だから切っていいよ」


 アンジェラの身体が強張るのがわかった。


「切っていいよ。左手を切っていい。右手も切っていい。首をね、切ってもらっても構わない。でも、その前でも後でもいいから、ね。アンジェラ──」


 今の心にある一番の望みを告げる。


「キスして」


 自分でも驚くほど清明に発音できた。


「わたし、キスしたいの。アンジェラとキスしたい」


 霞んできた眼を凝らしてアンジェラの表情をうかがう。


 しかし陰になってよく見えなかった。答えが返ってくる様子もない。怖くなった。給湯室で告白しようとしたときに見た、あの空漠とした昏い表情──。


 とっさに言葉を取り消そうとしたマリカの口の動きは、かぶさってきたものに止められた。アンジェラの顔が零距離にあった。唇に唇が重ねられている。心もち強く押しつけられて、それは離れた。


 目の端から熱いものが零れた。


 胸にある気もちがいっぱいになる。


 それは、満たされた欲望による悦びではなかった。かねてよりの目的を果たした歓びでもなかった。それは、罪を犯してすら自分の気もちにこたえてくれた、敬虔な修道女へのひたすらの感謝だった。


 マリカはこの気もちをアンジェラに伝えようとしたが、言葉にすることはできなかった。それでも目で伝わるものがあったのだろう。アンジェラの唇が近づいてきて、またマリカの唇に押しつけられた。なにかが口の中に割って入ってくる。それは滑らかに動く肉の塊で、糖蜜のような甘さと溶岩のような熱さに驚きを覚えた。


 そしてマリカは気づいた。アンジェラの舌が熱いのではない。自分の体温が下がっているのだ──、と。


 全身が凍えていた。


 手の指先。足の指先。身体の末端から暗闇が這いあがってくる。


 マリカは腹をたてた。


 なんて間の悪いやつ。余計なことをするな。後で死んでやる、何度だって死んでやる。だから、あと一秒、あと十秒、あと一分だけ──、お願いだから、待ってくれ。今のこの瞬間を、いくらかでもひきのばせるのなら、わたしは地獄にだって堕ちてやる。だから今は駄目だ。死んでいる暇なんかない。わたしはそんな暇人じゃない。


 怒れるマリカに、また素晴らしい閃きがおとずれた。


 今、アンジェラと自分の口は重ねられている。


 舌だって絡み合っている。


 ここで、エゴ・ソルス・バレオ。


 どうだろう?


 もしかするとこのキスを、魂にさえ根を張るような深い口づけを、一瞬だけ。一瞬を寸刻に換えて。寸刻を永遠に換えて、つづけることができるのではないか?


 アンジェラは約束してくれた。


 できる限りのことをさせてもらう。と。


 わたしの魂が救われるまで。と。


 もちろん今となってはそこまでの高望みはしない。


 ほんのすこしだけ。


 ほんのすこし、元気をもらうだけ。


 だから。



 エゴ・ソルス──。



 マリカは最後の単語を認識することはできなかった。


 それきりになった。

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