第8話 聖誕祭へ。


 泣きながらの告白の後、マリカはアンジェラとならんで給湯室の壁にもたれていた。


 右手は修道服の裾を握りしめたままだ。お茶をもう一杯いれようかと訊かれたが、鼻水を啜りつつ首を横に振った。アンジェラはあきらめ顔になってマリカの好きなようにさせてくれていた。


「辛くなかったの?」


 訊くと、アンジェラは柔らかな眼ざしをこちらに注いだ。


「もちろん辛かったわ。とても辛かった。一時はあなたを恨みもしたのよ。けれどもマリカさん、わたし思ったの。もしわたしではなくてマリカさんがあんな目にあっていたら、わたしはもっと辛い思いをしただろうって。その理由にはね、生徒と修道女という立場もある。未成年と成年という年齢もある。けれどもそれ以上にね、容姿のことがあるの。ほら、わたし醜いでしょう。狼みたい」

「そんな」

「マリカさん、聞いて。今はほんとうの話をしているの。わたし醜いでしょう、だから──」


 そんなことはない。


 マリカは言葉を遮って抗弁しようとした。


 アンジェラは他の誰よりも綺麗だ。それは心の美しさとか魂の正しさとかいった誤魔化しじゃない。光の加減でルビーのような輝きを放つ赤い眼も、割れた口からのぞく滑らかな牙も、しなやかな筋肉の編みこまれた身体も、長い手足も、尖った爪も、すべてがありのままで美しい。マリカは心の底からそう思った。けれども、アンジェラの真剣さの前でそれは浮ついたもののように思えた。


「だから、どんなに悪い人たちだって、わたしから奪うことのできるものはたかがしれている。けれども、マリカさんだともっとおおきなものを奪われてしまったかもしれない。それを考えるとね、あぁ、わたしでよかった、わたしが美人じゃなくてよかった、ってホッとしちゃったの。いわゆる試練というものだったのだと、今になって思うわ」


 そしてアンジェラは言い淀んだ。言いにくそうに口を開きかけて、閉じ、なにかを言うべきかどうか迷っているようだ。


「……でね、ここから先はもうしわけないのだけれども、誤解があるの。マリカさん。これなんだと思う」


 アンジェラは修道服の襟元からネックスレスをひきだして見せた。それはロザリオではなく、赤と青の輝石で中央に星をデザインした四つの矢じりを合わせた形の勲章だった。質素を旨とする修道女には似つかわしくない高価そうな代物だ。


「恩寵の騎士。刀剣十字騎士団第四階級騎士の証よ。山の修道院の母体がその修道騎士団でね、わたし、そこの運営している神学大学に留学していたの。専攻は典礼学。象徴を研究して古い儀礼を調べたり新しい儀礼を設計する学問よ」


 典礼学というものはよくわからなかったが、町から出たことのないマリカにとっては留学そのものが一大事だった。恩寵の騎士という肩書にも優雅で貴族的な響きがある。マリカはかねてよりアンジェラのことを白馬の騎士だと思っていた。しかし、まさか本物の騎士さまになっているとは思ってもいなかった。


「長い間学校を休んでいたのは、これを取るため。あのときのわたしは未熟だった。今のわたしならもうヤクザ如きにいいようにはされない。必修科目に西洋剣術があったの。若い先生にしごかれちゃった。まったくなっていないって。それこそ、死にたくなるくらいにまで。……だからね、マリカさんが想像しているようなものじゃなかったの。もちろん心は疲れていたわ。けれども正直、それどころじゃなかった。殺されるかと思った」


 マリカは目を瞬かせた。アンジェラは、あんなことになった原因が自分の剣の未熟さにあると考えているらしい。彼女の認識の誤りを指摘しようかと思ったが、やめておいた。男を選ぶ基準の三番目に武道をあげるアンジェラらしい考え方だった。そんな彼女に死を予感させるしごきというものはどのようなものだろう? マリカは想像して身震いをした。


 ──それにしても。


 なにかがおかしいと、マリカは思う。


 なぜ、わたしはこんなになごんでいるのだろう。なぜ、こんなに普通に話しているのだろう。そもそも三つの可能性があったはずだ。「なにかが始まる」のか、「すべてが終わる」のか「なにも変わらない」のか。これはきっと三番目の「なにも変わらない」結末のひとつだ。しかし告白は受け入れられた。それなのになぜ変わらない? 成功したのに、なぜ変わらない? 


 マリカは詐欺にかけられたように感じて、アッと告白違いなのだと気づいた。


 彼女がしたかったのは【罪】の告白ではない。


【愛】の告白だ。


 マリカは頭をかかえた。なんて馬鹿なのだろう。どこで間違ったのだろう。自問して、理解する。そうだ。あのとき自分はアンジェラをひきとめることに必死になりすぎて、啓示のように閃いてしまったのだ。【愛】ではなく【罪】の告白だったということにしてしまえば、この場はきっとしのげると。誤解だったのだと、言い訳ができると。しかしそれでは、決死の覚悟でこの場に臨んだ意味がないではないか──。


 絶望的な心もちになって見あげると、さすがにマリカの胸中は計りかねているらしく、アンジェラは複雑な表情ではにかんでいた。


「それで、マリカさんはどうだったの。最近、ずいぶん元気になったみたいだけれども」

「元気に?」

「ええ。明るくもなったわ。お友達ができたとか?」


「お友達」と言われて、すぐにエスとアカリの顔が思い浮かんだ。念のためふたりの名前は伏せて、バイトのことだけを話す。あらためて口にしてみると、自分にも友達ができたということがとても誇らしく思えた。


 昔、アンジェラは声をかけてくれた。


 友達ができるといいね。


 と。


 今こそ声をおおきくしてこたえたい。


 うん、友達ができたよ。


 と。


 しかし、アンジェラの反応は思いもかけないものだった。太歳会という名前が出ただけで表情が曇った。不思議に思いつつ話を進めると、相槌すらもらえなくなり、心細くなって尻すぼみで終わった。


 末を掴まれて訊かれた。


「もしかしてマリカさん、エスを知ってるの?」


 どう答えたものかと迷った。嘘をつくわけにもいかず、首を縦に振った。


「もしかしてマリカさん、エスと贖宥符の契約をしたの?」


 心臓が飛び出るかと思った。しかし逃げ道もなさそうで、アンジェラの顔色をうかがいながら首を縦に振った。


「もしかして、さっきの聖堂での騒動、マリカさんがやったの?」


 エゴ・ソルス・バレオのことだった。こうなるともう首を縦に振るしかなかった。


 アンジェラに強く肩を掴まれた。


「なぜっ!? なぜあなたが!? なんのために!?」


 アンジェラに問いつめられて、マリカは顔を背けた。嘘は言いたくなかった。かといって、アンジェラに告白をするためだとは言えなかった。だから貝のように口をつぐんだ。マリカはそういうのが得意だった。


 アンジェラの声がなだめるような調子に変わった。


「ねぇマリカさん。エスの贖宥符はどこにあるの。どこに記されているの。お願い、教えて」


 左手の甲を見せた。


「ここにあるの? 贖宥符が? ほんとうにここにあるの?」


 マリカはうなずいた。


「……あぁ、見えない。わたしには、もう見えなくなってしまった」


 アンジェラはショックを受けているようだったが、気を取りなおして諭すように言う。


「いい、マリカさん。この贖宥符はね、あなたのような子どもがかかわってよいものではないの。エスのような賢い人たちは昔からいるのだけれども、気が遠くなるほどの永い間、不条理というものを憎悪してきたの。この贖宥符はね、不条理の廃絶を目的として作られた魔術印形。人として背負うべき負債を踏み倒すイカサマよ。ちょっと待って。本物の贖宥符を見せてあげる」


 アンジェラはごそごそとポケットを漁って折りたたまれた一枚の紙片を取りだした。本物の贖宥符と言うわりにはぞんざいな扱いだったが、そこには、聖堂のかたわらに立つ騎士と啓示を与える天使の絵が描かれており、他はマリカにはわからない単語で埋められていた。


「これが本物の贖宥符。邪悪を滅ぼす聖戦において罪の贖いが免償されることの証明書よ。この世界には、正しさを世に顕すために犯さねばならない罪があるの。その罪の贖いを軽減するために、この贖宥符が与えられるの」

「邪悪を滅ぼす聖戦?」


 ずいぶん大仰な言葉だった。


「この世界には邪悪があるの? シスター・アンジェラはそれを滅ぼすの?」

「えぇ、そうよ。罪に堕ちた魂を主の御許に還すこと。それが、わたしの仕事なの」

「エスを? 不条理を失くそうとしている人たちを?」

「え……、ええ。きっと、それも含めての話になるわね」


 アンジェラは煮え切らない言い方をする。


「でも、この世界から不条理がなくなるのは、良いことじゃないの?」

「悪いことよ」


 これにはアンジェラは即答した。


「不条理はもちろん人を苦しめるものよ。でも、人では越えることのできない不条理があるからこそ、人は神なる主に縋ろうとするの。不条理がなくなれば人は主のことを忘れてしまう。あらゆるものが条理の内にあると高をくくって、人としての分限を越えてしまう。その先にあるものは、おおいなる破滅。ソドムやゴモラすら楽園と思えるような悲劇がこの世に落ちてくるわ。そのおおいなる破滅から逃れるために騎士団は戦ってるの」

「嘘」


 マリカの口からは修道女に向けるべきではない言葉が飛び出していた。


「だったら、どうしてシスター・アンジェラはわたしを助けてくれたの。どうしてわたしを信仰から遠ざけたの」


 不条理がこの世に形を成したような、四年前のあの日のこと。もし不条理が正しいものであるというのなら、マリカはトイレの中から救われるべきではなかったのだろうか。悪い人たちに食べられてしまうことこそが、主の思し召しだったというのだろうか。


「マリカさん。それは違うわ」


 マリカの悲痛な問いかけをアンジェラは否定する。


「人が困っていたら助けてあげたい、できることなら不条理をのり越えたい、それは人として自然なことよ。大切なのはね、マリカさん。人にはのり越えることのできない不条理が存在するのだということを、知ること、感じること、そして、受け入れること。命の限りある者としての分限を弁えて、謙虚になること。神なる主にすがり身をゆだねること。これが、信仰の核心よ」


 アンジェラの言うことはマリカにはよくわからなかった。しかし、このことをアンジェラが信じているということは感じることができた。だからマリカはまた沈黙を決めた。このままつづけると、アンジェラを傷つけるような言葉を吐いてしまう気がした。


 話に熱が入りすぎたのか、アンジェラは身体をマリカの方にのりだしていた。圧されてバランスを崩し、マリカは立てかけてあった竹刀袋に触れてしまう。壁を擦って倒れた。床のタイルを打って、ガチャリと、竹や木ではないものの音をたてる。マリカは竹刀袋に手をのばした。アンジェラもすぐ屈んで手をのばす。それでもマリカの方が早かった。そして、竹刀袋を掴みあげ──、られなかった。


 マリカは竹刀袋の重さの目算を間違えていた。にわかには持ちあげることができず、動きを止めてアンジェラを見る。アンジェラは強張った微笑みを返して、右手をマリカの手に重ねる。マリカの指を解いて竹刀袋を取りあげる。


「ほら。わたし修道騎士だから、帯剣が義務づけられているの。儀礼用のものよ」


 アンジェラは苦しい言い訳をする。彼女のあわてぶりは尋常ではなかった。儀礼用だけれども刃を潰していないから危ないとか、そういう理由だろうか。


「ねぇマリカさん。聞いて」


 アンジェラは竹刀袋を胸に抱いてつづける。


「エスの贖宥符は、あなたが思っているような便利な御守りではないの。とても強力で、火の毒で魂のありかたを変成させるものなの。しかも魂と溶け合っていて無理に剥がすと人としての形が壊れてしまう。けれども、逃れる方法はあるわ。印形に黒い組紐がついているでしょう。それは、どこ?」


 マリカは右手の指で左手首の黒い組紐をなぞった。


「それは魂と贖宥符の同化した境目を示すものなの。それを目印にして切り落とせば、魂の損傷を最低限に抑えることができる。幸い、利き手とは逆の手よ。生活への支障は最低限に抑えられるわ」

「手を切り落とす、の?」

「そう。もしあなたの手が罪に染まるなら、わたしはその手を切り落とさなければならない。お願い、マリカさん。聖堂で示した力からすると、あなたの魂は危ないほどに異形化が進んでいるわ。異形化が罪を生む悪循環に入る前に【罪堕ち】を止めないと。できるだけ早いほうがいい。今晩の夜十時に、もう一度学校に来て。中庭の桜の樹のところで待ってるから。後のことについては、わたしとしてもできる限りのことをさせてもらう。あなたの魂が救われるまでは、絶対に見捨てたりはしない」

「できる限りのこと……、魂が救われるまで」

「そう。できる限りのことをさせてもらう。あなたの魂が救われるまでは。必ず。だから、ね。お願い」


 アンジェラは今にも泣きそうな顔つきだった。


 マリカの胸は高鳴った。ふっと気が遠くなる。倒れて床で頭を打ってしまうところを、力強い腕に抱き支えられる。なんて素晴らしい夢のような出来事なのだろう。これがいわゆるキテるというやつだろうか。


 修道女のアンジェラは約束を守る。あらゆることに誠意を尽くす。


 そのアンジェラが言ったのだ。


 できる限りのことをさせてもらう。と。


 具体的にはどこまで?


 決まっている。どこまでも無限に──、だ。


 アンジェラはこうも言った。


 わたしの魂が救われるまで。と。


 具体的にはいつまで?


 決まっている。死んでも永遠に──、だ。


 マリカは右手で腰に回されたアンジェラの腕に触れる。先を辿って手の甲にくだり、指と指の谷間をなぞる。アンジェラはピクっと反応したが、不器用な作り笑いをして逃げることはなかった。


 いい。


 あぁ。これはいい。


「わかった。。わたし、アンジェラに左手をあげる。右手だってあげる。もし必要なら、この首だってあげる。だから、ね──」


 そう言葉を切って、マリカはすっとアンジェラのほほに顔を寄せた。軽く唇で触れ、跳びのくように立って距離をとる。


 アンジェラはなにが起きたのかわからない様子だった。


 マリカは脱兎のごとく出口へと駆けた。心の中で叫ぶ。やってしまった! やってしまった! そして、やってしまった以上は、逃げてしまうのが吉だった。


「それじゃあ。夜の、十時。またね」


 身を翻して出口を抜ける。


 廊下に人気はない。


 階段のところまで走ったとき、


「マリカさん!」


 大声で呼び止められた。


 振り返ると、アンジェラが竹刀袋を手にして廊下に出ている。


 彼女の顔は苦しそうに歪んでいた。


「ごめんなさい。わたし、あなたの気もちに気づいていたの。前から気づいていて、それでも気づかないふりをしていたの。そんなわたしにこんなことを訊く資格はないと思うのだけれども、できれば教えてほしい。お願いだから、教えてほしい」


 マリカは動揺した。気づいていた? え。え。ちょっと待って。あれ? あれれ? 今までのあんなことやこんなことを思い出して、顔から火を吹く思いをした。


 アンジェラは構わず言葉をつづける。


「もし──、もしわたしが、この世界を滅ぼすとしたら、あなたはわたしを赦してくれるだろうか」アンジェラは唾を呑みこみ、胸元のあたりを片手で絞るようにして訴えた。「あなたは、この世界を滅ぼしてしまうわたしを、赦してくれるだろうか」

「赦すよ」


 マリカはすぐに心の言葉を拾った。


 迷うまでもない。わたしがアンジェラのなにを赦さないというのだろう。


 そもそもマリカは世界というものが好きではなかった。


 右手も、左手も、首をすら、望まれればアンジェラに差しだす心づもりでいるのだ。世界の一個や二個を差しだすなんて朝飯前に決まっていた。


 そんなことより、逃げるなら今だった。おかしな流れのまま密会の約束が撤回されでもしたら、大変だった。呆然とするアンジェラを残して、マリカは手すりで身体を支えつつ、落ちるようにして階段をおりていった。他の先生とすれ違って注意されたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。


 そして、走りながら想った。


 今、この希望に満ちたはじまりの刻、もしほんとうに世界が終末を迎えるというのなら──、もしほんとうにアンジェラの手によって世界が滅ぼされるというのなら──、自分の人生はきっと、辛かったことも嫌だったこともすべて報われて、まんまるに満ち足りた幸せなものになるだろう。


 それこそ、最高だ。最高の終わり方だ。


 そう思ったのである。

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