第7話 白馬の騎士に不条理から救い出されたこと。(二)


「行きなさい。早く」


 修道女に背中を押されてマリカは転がるように玄関へと向かった。前のめりでこけそうになり、そのまま落ちていた自分の靴の片方を掴んでドアノブにすがりつく。鍵はかかっていなかった。体重をかけて扉を押し開く。開ききるのを待たず、隙間に体を滑りこませる。


 新鮮な外の空気を感じた。


 ようやく危険から逃れられたのだと、思った──、そのとたん、おおきな肉の壁に遮られてぶつかった。


 顔を上げると、あの大女だった。間近で見ると、遠近の狂ったような身体のおおきさが決して目の錯覚ではなかったことが知れる。マリカの顔がぶつかったのはへそのあたりだった。口に綿でも含んだかのような筋肉の発達した顔が見下ろしている。細く悲鳴のようなものが喉から洩れた。靴を大女の顔に投げつけ、掴みかかってきた腕の下をくぐり抜けて裸足で走る。


「お、おいてめぇ。どこ行くんだよ!」


 大女が追いかけてくるのがわかった。おおきいくせに驚くほどの俊敏さだ。マンションの敷地から出る前に、首根っこを掴まれ、地面に押さえつけられた。額をぶつけたが、そのようなことに構っている場合ではない。マリカは身を返して大女の腕に噛みついた。腕は大木のように太くて堅く、ジャンバーの布地を食い破ることもできない。


 大女は腕からマリカの口をひき剥がそうとはしなかった。


 痛がる素振りすら見せない。


「逃げんな。おめぇが逃げてどうすんだ。おい聞いてんのか、コラッ」


 それでもマリカは無我夢中で噛みつく顎に力をこめる。これがマリカのできるせいいっぱいの抵抗だった。


「やめねぇかバカやろうッ!」


 大女はマリカの耳元で怒鳴った。苛だたしさを強靭な意思の力で押し殺した、猛獣の咆哮──。頭の中が白くなった。口が緩んで腕から離れる。後頭部がコンクリートにぶつかり、下半身が温い血のようなもので濡れた。腹を爪でひき裂かれたのだと思ったが、鉄の臭いのかわりに軽いアンモニア臭がした。


「……おい。ちょっ、ちょっと勘弁しろよ。悪ぃ、悪かった。おれが悪かった。だからビビんな。頼むからビビらずに聞いてくれ」


 マリカは襟首をつかまれてひきあげられた。大女の顔が間近に迫る。サングラスでよくわからないが、大女の方がうろたえているようだ。


「いいか。おまえみてぇな子どもがいりゃあ、奴らぁにそう無茶はしねぇ。あぁ見えていい恰好しいだからよ。だから戻れ。あの部屋に戻れ。奴らぁ本職だから、おれにゃあどうこうできねぇんだ。このとおり、頼むから!」


 マリカはすっかり脱力していた。この大女はどうして修道女の俗名を知っているのだろうと、ぼんやり思う。


「あぁちくしょう! なんだこいつぁ。放っときゃよかった。しくじった。カンペキにしくじった。てめぇ立て! いいから立ってくれ!」


 立てと言われても宙ぶらりんで足が地面につかなかった。吊られたままマンションの入口に戻る。扉が開くと、背広の男のひとりが廊下脇のトイレから出てくるところだった。洗った手を几帳面にハンカチで拭っている。


 男は目を丸くし、そして舌打ちをした。


「ナツ。せっかく逃がした子どもを連れ戻してくんじゃねぇ」


 大女はナツという名前らしかった。男は閉めかけたドアをまた開いて、廊下に対して直角におく。


 トイレの扉が視界を遮る前に、マリカは、居間の入り口に麵打ちの棒のような木刀が落ちているのに気づいた。居間の扉は開けられたままで、ベッドの上でもみ合いをする人の姿がある。黒い布が見えた。べったりと血のついた手が見えた。その手は長い腕に天井へとのばされてゆらゆら花のように揺れている。


 照明器具がつけられていた。銀色のレフ板が立てられていた。ひとりのスタッフが高機能そうなカメラを肩に担いで回していた。部屋の見えないところからギャハハハと笑い転げる声が聞こえる。しっかり撮れやぁー。てめぇらプロだろぉー。しくじったら殺スぞぉー。


「お嬢ちゃん、もういいから帰んな。これで美味いもんでも食ってよ」


 男が背広のポケットから長財布を出し、一万円札を抜いてマリカに握らせた。


「こいつの靴はどこだ。まとめて放り出せ」

「……いやぁ、その」

「心配すんな。用がすめば女も無事に返す。常識で考えろ。木刀持ってカチこんできたバカをそのまま帰すわけにゃいかねぇだろ。それにおれぁ知ってるぞ。ありゃあ十人斬りだ。昔のことを蒸し返すわけじゃねぇが、うちの若ぇのもひとり病院送りになった。おれらぁこの町の番犬だ。じゃじゃ馬にお灸をすえるのも仕事の内ってもんだ」


 そう言い残して男も撮影部屋に入ってゆく。トイレの扉を直角に戻すのは忘れない。


 マリカは思った。この人の言う常識とはなんだろう。この人の言う無事とはなんだろう。手足がもげていないとか、死んでいないとか、そういう類のことだろうか。


 胸に片方の靴が押しけられた。大女だった。玄関のどこかに転がっていたのを見つけてくれたらしい。襟首を掴まれて扉の外に放り投げられた。マリカの身体は宙に浮き、地面に落ちて転がった。


「消えろッ。二度とおれの前にその面ァ見せるんじゃねぇ!」


 大女はマリカに向かって唾を吐くと、乱暴な音をたてて鉄の扉を閉めた。


 マリカは身体の痛みで地面にうずくまっていた。なぜ怒鳴られたのかわからなかった。自分は騙されてここに連れてこられたはずだった。そのように怒鳴られる憶えはなかったが、しかし、大女の怒りはしごくまっとうなことのように思えた。


 さきほどわたされた靴は近くに転がっていた。自分で投げたもう片方は道路脇の溝に落ちていた。薄く水が張っていて、苔とヘドロで中まで汚れていた。溝の縁で叩くと、いくらか綺麗になって、そのままはいた。


 マリカは歩いて大通りに出た。どうしようかと悩んで、また路地に戻って歩道の段に座った。修道女をおいて帰るわけにはいかない。かといって交番に駆けこむわけにもいかない。もしこんなことが表沙汰になったら、あの修道女は学園にいられなくなってしまうだろう。となると、マリカのできることはただひとつ──、待つことだった。男の生理はよくわからないが、たぶん三十分くらいだと思った。長くても一時間くらいだと思った。


 祈ってどうにかなるものでもなさそうだったが、マリカは今こそ祈るべきなのだと感じた。両手を組み合わせて天にます主に祈りを捧げた。自分を救ってくれた修道女の今受けている身体の苦しみがすこしでも和らぐように。これから生じる信仰の苦しみがすこしでも和らぐように。


 しばらく祈って目を開けると、道路を歩いてくる若いカップルがあった。化粧の濃い女が男の腕にしがみついて、マリカを指さしてゲラゲラ笑っている。よくは聞こえなかったが、頭がおかしいとか気が狂っているとか、そういうことのようだ。男もマリカを見て汚そうに顔をしかめている。


 マリカはようやく自分の有様に気づいた。制服はひどく土で汚れ、濡れたスカートが太腿に張りついている。足元には水たまりができていた。とても嫌な臭いがした。カップルが交差点を曲がって見えなくなると、マリカはショーツを脱いで溝に捨てた。スカートを手で払うが、濡れているせいで汚れは落ちない。下から入る風が肌を刺すように冷たい。


 見あげると、空はすでに暗くなっていた。


 太陽はない。


 月も見えない。


 濃くなった夜の闇から白いものがおりてきている。


 街灯に照らされて淡い光をおびる、汚れひとつない雪片の一群。


 マリカは空を仰いで両手を広げた。ゆっくり回転してみる。世界が廻る。雪片が巡る。プラネタリウムのようだと、マリカは思う。思ってからすぐ、ずいぶん早く回る、それに流れる星の数が多すぎる、と気づいた。星々が狂ったように輪舞ロンドを踊り、ひとつ残らず地に堕ちてしまうなら、それはまさしくこの世の終わりの光景だった。【黙示】で語られる審判の日というものが、これほど美しいものならば、わたしは世界の終わりを望む。ただそれだけを願って生きる。理不尽な運命に虐げられる弱く哀れな子羊たちのために、善いことを良いものとしてみなす人の人としての尊厳のために、この世界は滅びるべきだと、マリカは確信したのである。



 三時間ほども待っただろうか。


「あら。マリカさん。帰っててって言ったでしょう」


 声をかけられて見れば、修道女がマンションを出てくるところだった。灰皿で殴られたのか右目に青黒い痣があり、こめかみから頬にかけて厚くガーゼが貼ってある。


「だいじょうぶよ、安心して。それよりこれ忘れ物。ほら。きちんと持っておかないと、学校でチェックされるわよ」


 修道女は部屋に忘れていたマリカの鞄を差し出し、ポケットから生徒手帳を取りだしてみせた。受けとると、コートの打ち合いを開いてこちらを包みこむようにする。ジャスミンとムスクの混淆した香りの下に、清潔な石鹸の香りが匂う。マリカはあわてて制服が汚れていることを告げたが、修道女は白い歯を見せて、「だいじょうぶ。気にしない、気にしない」とはしゃぐように繰り返した。


 次第に強まる雪の中、マリカは修道女の体温に守られて寮に帰った。見あげる修道女の横顔は、透明な笑みをたたえていて、とても美しく見えた。


 そしてマリカは日常に戻されたのである。




          ◇          ◇




 学校では、荷物をあずけた少女が声をかけてくることはなかった。他に友達ができることもなかった。


 修道女は強い女だった。あの日の出来事について気にする素振りは見せなかったし、誰に対しても分け隔てなく陽気にふるまっていた。マリカも顔を合わせるたびに挨拶をされた。軽く頭をさげて返した。


 じきにマリカは一日の多くの時間をあの修道女を想ってすごすようになった。あの修道女は、なにをどのように感じ、なにをどのように信仰して生きてきたのだろう。いったいなにがどのように自分とは違うのだろう。それまでマリカの考えることといえば、今まで生きてきた自分の苦しみについてのことばかりだった。自分以外の人間について想いを馳せるのは初めてのことだった。


 そしていつしか、マリカはあの修道女に触れたいと思うようになった。


 自分が原因でつけられた、あの傷に──。


 彼女の美しさを際立たせている、あの傷に──。


 そして、その傷が癒えるまで。


 その傷が癒えた後も。


 永遠に。


 そばにいたいと、思ったのである。




 三学期がはじまると、この学園の修道女がいかがわしい動画に出ているらしいと生徒専用のネット掲示板でうわさされるようになった。その修道女が誰であるかの特定まではされなかったものの、うわさの出元はあの修道女をなにかと目の敵にしている国語教師であるとささやかれていた。


 ほどなくして、狼のような修道女は体調の不良を理由に学校から姿を消した。休職扱いとのことで、いつ復職するのかについては誰も知らなかった。修道女のファンたちはしきりに惜しがり、彼女の名残を求めるように「武道とは何ぞや」という設問を復活させた。「それは、シスター・アンジェラである」との応答が定着した。マリカにはなんとなくその意味がわかるような気がした。


 修道女を追うようにして、担任の国語教師も学校からいなくなった。


 こちらは妊活のためらしかった。

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