第6話 白馬の騎士に不条理から救い出されたこと。(一)

 ── 四年前。




 幼いころから、まわりからやることなすこと極端だと言われていた。なにが極端なのかわからなかった。しかしなにかが問題であるなら他の人の真似をすればいいと思った。


 成長するにしたがって、まわりから口さえ開かなければ良い子なのにと言われるようになった。自分の話すことのなにが問題なのかわからなかった。しかしなにかが問題であるなら話さなければいいと思った。


 良いことも悪いことも他人の真似をして、なにを言われても話さなくなった。そしてようやくまわりからは受け入れられるのだと期待していたのだけれども、結果として、まわりには誰もいなくなった。ただ、喋ることのできないひとりの女の子が残された。


 マリカは思った。であるなら、自分はなにもするべきではないのか。動かず、話さず、息さえせずに、じっと縮こまっていれば、いつかまわりから赦されて受け入れられる日が来るのだろうか。


 この考えはマリカにとって冷たく重たい足かせになった。


 はるか上の水面には、鱗のように煌めく光の群れが見える。そこには美しい人たちが歓びの世界に生きていて、マリカはその仲間に入りたくて、手をのばす。指をのばす。しかし、手も指も水に触れるばかりで、身体は重たくて浮かぶことはない。沈んでゆく。沈んでゆく。果てもなく深い暗闇へと沈んでゆく。光が遠ざかってゆく──。


 マリカはこの世界に生きながら生まれながらの異物だった。このままでは生きている意味がないと思った。このままでは生きていないのとおなじだと思った。生きているのも生きていないのもおなじなら、最初から生まれてこなければよかったと思った。途中で止めてしまえばいいと思った。


 夜中に城址跡地公園の水堀を何度も訪れた。


 黒い水の底にある静かな世界だけが自分を受け入れてくれるように思えた。


 そんな絶望のただ中に、入学当初から声をかけてくれる人がいた。


 聖書の時間を担当している、背が高くて若い修道女だった。修練期間を終えてすぐ母校である聖マリア学園に着任したのだと聞いていた。


 しかしマリカは、その修道女とは距離をとるようにしていた。修道女の容姿が、他とは違っていたからである。彼女は、目が赤く、口がおおきく、童話に出てくる悪い狼のような顔をしていた。このような変な人と仲良くしていたら自分も変な風に見られてしまうかもしれなかった。まわりから受け入れてもらえる望みがなくなってしまうと恐怖すらした。実際、その修道女は職員たちの中でも浮いているようで、担任である女の国語教師などは「修道女のくせに悪鬼みたい」などと言いふらしていた。


 しかしどうしたことだろう。その修道女は案外、生徒たちからは慕われていた。人生や信仰の相談なども受けているようだった。


 これには、その修道女が学園の在学中にうちたてた十人斬りの武勇伝によるところがおおきいようだった。高等部一年のとき、繁華街のたまり場にひとりでのりこみ、十人のチンピラを木刀で打ちのめしたのだという。友人の仇を討ったのだという。


 そんな型破りの修道女の存在は、なにかと生徒たちの好奇心をそそるようだった。入学から日もたってクラスの雰囲気が落ちついてきたころ、修道女の受けもつ聖書の時間に、どのような基準で男を選ぶべきかという質問がひとりの生徒から投げられた。それは幼い悪戯の類だったが、修道女は大真面目に考えた後、黒板に、「一、愛。二、信仰。三、武道」と太く書いてその回答とした。教室は静まって茶化す者はなかった。次の日から、その修道女は処女に違いないとささやかれた。「武道とはなんぞや」と問答する声も聞こえた。


 それからというものの、日に増して修道女のまわりには生徒たちが集まるようになった。マリカには意味がわからなかった。なぜあの狼女が? 頭がおかしくなるほどの努力をしているにもかかわらず、マリカはやはりひとりだった。自分はあれよりも醜い姿をしているのかとトイレの鏡をのぞきこんでみたが、そこには平凡な目鼻立ちをした女子中学生の姿が映っているだけだった。




「お茶でもどう?」


 ある日の放課後、マリカは修道女に誘われた。マリカが孤立していることを見かねたらしい。そのころにはもう修道女は人気者としての立場を確立していたから、マリカがそのもうしでを断る理由はなくなっていた。


 給湯室でふたりお茶を飲んだ。とくになにも話さなかった。中庭に面した窓はいっぱいに開かれて、そばにおおきな桜の樹があった。季節は夏の初めで、花はないものの、窓に触れるほどの距離で枝葉が繁っていた。茜色の小粒のサクランボが飴玉を撒いたように実り、幾羽かの小鳥がそれをついばんでいた。修道女は窓から手をのばしてひとつをむしると、思案するように眺めてから口に放りこんだ。咀嚼して顔を歪めた。視線が合うと、「食べてみる?」と、もうひとつをむしってこちらに差しだしてくる。


 マリカは首を横に振った。


 修道女はクスリと笑う。


「正解。ひどく渋いの」


 そんなことは見てわかっていた。




「お友達ができるといいね」


 廊下で別れ際に、修道女は風のように言った。


 ──あぁそう。お友達ができるといいな。


 マリカは背の高い修道女を見あげて誘われるように思った。




 お友達ができる。


 そのチャンスがやってきたのは、修道女とお茶を飲んで半年ほどたってからのことだった。


 クラスメイトのひとりから、ちょっとした荷物を繁華街の友人にとどけてほしいと頼まれたのである。素行は悪いが性格は明るく、クラスでは人気者のひとりだった。二学期末の試験の結果がかんばしくなく、補習が入ってこれをサボルと成績に1がつけられるのだという。


「ホント頼むし。あんたにも今度分けたげるし」


 その子は紙に書いた地図と携帯番号をわたすと、両手を合わせて「神さまよろしく」と言った。マリカは嬉しかった。この仕事をやり遂げれば、自分はまわりから受け入れられるのだと思った。友達ができるのだと思った。


 ホームルームが終わると、その子から紙袋を受けとって鞄に入れた。制服のまま寮への道を外れて繁華街に向かう。待ちあわせの場所には誰もおらず、携帯の番号にショートメールを送ると、路地裏で待っていると返信がきた。


 指示に従って歩く。アジア風の古着屋の前に金髪の青年が座っていた。喧嘩でもしたのか顔にひどく殴られた跡がある。鞄から荷物を取りだしてわたし、帰ろうとすると、ちょっと待ってくれとひき止められた。ホームページで販売する商品のモデルをしてくれないかとのことだった。マリカに荷物をあずけたあの子に、土壇場でキャンセルされて困っているらしい。金髪の青年は両手を合わせて「神さまよろしく」と言った。この仕草が若い人たちの間で流行っているようだ。マリカはこころよくひき受けた。他人から頼られるのは嬉しく、名誉なことに思えた。


 撮影のスタジオは、古着屋から五分ほど歩いたマンションの一階にあった。中ではスタッフたちが働いていて、手狭らしく廊下には照明やら背景スタンドやらがおかれていた。金髪の青年から、これらは撮影に使うのだと説明された。玄関から廊下をつきあたって扉を開けると、居間があって、少女趣味のおおきなピンク色のベッドがおかれていた。シーツはきれいに整えられて、枕元には未開封の玩具の箱があった。これも撮影に使うのだと説明された。


 青年はマリカを居間に残してさらに奥の部屋へと向かった。そこには三人の黒い背広を着た男たちがいて、煙草を吸っていた。撮影のスタッフたちとはあきらかに違うタイプで、一様に体格がたくましく、空気が震えるような険しい雰囲気をまとっている。青年は彼らにマリカから受け取った袋をわたすと、弁解のようなことをしていた。


 マリカは状況が呑みこめず彼らのやりとりを眺めていた。そして、腰が抜けるほどに驚いてしまった。男のひとりがクリスタルの灰皿を取りあげると、青年の側頭部を力いっぱい殴りつけたのである。倒れたところを、頭といわず腹といわず手あたり次第に蹴りつけている。三人の男たちでも中心にいる小太りの男はギャハハハと壊れたように笑っていた。


「あっち見ちゃだめ。仕事しよう、仕事」


 怯えたスタッフのひとりから声をかけられた。鞄を取られて、かわりに、どこを隠すのかわからない紐のような下着をわたされる。奥の部屋は使えないから、もうしわけないけれどもトイレで着替えてきてほしいと言われた。メイクがあるから時間をかけないように、と注意もされる。


 マリカが下着を手にして立ちすくんでいると、軽薄な笑いを顔にはりつけた青年が血の染みたタオルで頭を押さえながらやってきた。ほら。約束したでしょ。モデルしてくれるって。これだけの人が動いているんだから、ヤメとかナシね。後でなんでもするからさ。神さまよろしく──、と、彼はもう一度、タオルを持ったまま両手を合わせた。


 あわただしく動き回る撮影スタッフや煙草を吸いつづける背広の男たちとは別に、ひとつ異質な存在があった。男たちすべてが子どもに見えるほどの、おそろしく大柄で体格のよい女である。首も、肩も、腕も、体全体が筋肉でふくらみ、ゆったりしたデザインの服の生地を破らんばかりにひきのばしている。大女は椅子に座ってファッション雑誌を眺めていたが、マリカの視線に気づくと、サングラスを傾けて、顔のサイズからするとずいぶんちいさな丸い目で睨みつけてきた。おれを巻きこむんじゃねぇ──、そう言っている。


 それでもこの場では唯一の同性だった。マリカは救いを求めて大女を見つめた。大女は「知るか」という風に肩をすくめて雑誌に目を戻す。それでもあきらめずに見つめていると、根負けしたらしく、大女は立ちあがってチンピラ特有の歩き方で近づいてきた。助けてくれるのかと期待したが、違った。あっと言う間もなく、太い指がのばされて胸のポケットから生徒手帳を抜き取られてしまう。大女は手帳をパラパラめくると、ジャンバーのポケットにつっこみ、煙草を取りだして部屋から出ていった。


 そうこうしているうちに、また金髪の青年からせかされた。今度は優しくは扱われなかった。乱暴な言葉を浴びせられて、髪を掴まれて、トイレへと押しこまれた。


 狭い個室でマリカは下着を握りしめた。


 壁に手をついて立ちあがり、洋式トイレの座面に座る。


 どうしてわたしはこんなことになってしまったのだろう。そもそもを言えば、よかれと思ってした人助けである。実際、わたしは何度「神さま」と呼ばれたことだろう。他人には優しく接し、他人が困っていればそれを助けるのが、善き信仰者としてのありかただと教えられてきた。もしかしてこれが、大人たちがよく口にする社会の厳しさというものだろうか。倫理や道徳というものは耳に聞こえのよいだけの建て前で、この世界では価値あるものとして認められていないのだろうか。だとしたら、わたしはなんのために信仰を教えられてきたのだろう。他人の言いなりにされるためだろうか。貪欲な狼の群れに生餌として投げこまれるためだろうか。


 マリカは顔を両手でおおった。


 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ──。心の中で連呼する。


 こんなのありえないと思った。あまりにも理不尽だと思った。なぜ自分はこんな目に遭わねばならないのだろう。自分はいったいどんな悪いことをしたというのだろう。マリカはなにもかもが嫌になった。とんだトイレの神さまだった。


 もう着替えたかと訊かれて、マリカはドアノブの鍵をしめた。脇にある閂もかける。「おいてめぇなにしやがるこのやろう!」青年の怒鳴り声がしたが、マリカは答えなかった。ガチャガチャと壊すような勢いでドアノブが回される。両手でしがみついて押さえた。怒鳴り声がヒステリックに変わってゆく。


 やかましい──。


 そんな呟きの後に、鈍器で殴りつける音がした。黙々と暴力をふるう音。泣いて許しを請う悲鳴。青年は、背広の男のひとりに奥の部屋へと連れ戻されていったようだ。恐ろしい声たちが恐ろしいことをささやくのが聞こえる。マリカは両耳を手のひらで押さえた。もうなにも聞きたくなかった。聞こえなくなればいいと思った。自分がこんな場所にいるのは、どう考えてもなにかの間違いだった。


 それからどのくらいの時間がたったのだろう。


 ひとつ。


 玄関のチャイムの鳴る音がした。


 スタッフたちに応対する余裕はないらしい。誰も出ずにいると、チャイムがけたたましく連打された。「なんだあんたは──」玄関の扉の開けられる音がして、騒ぎはさらにおおきくなった。女の怒号が響く。「わたしは聖マリアの者だ! うちの生徒を返せ!」土足であがりこむ音がする。それをスタッフが遮ろうとして、機材が倒れたり、乱暴な言葉の応酬をしたり──、激しい物音はいったんトイレの前を過ぎると、居間の方に出てからまたひき返してきた。奥からギャハハハと怪獣のような笑い声がする。きばれやぁーっ、殴れやぁーっ、ぶっ殺せぇえーっ。乱入者を冷やかして応援している。かえってスタジオは静かになった。


 コンコンコン。


 扉がノックされて、マリカはいっそう強くドアノブを押さえた。


「もうだいじょうぶ」


 扉越しに声がかけられる。


「あなた、聖マリアの生徒ね。わたし、修道女でアンジェラといいます。迎えに来ました。ここを開けてください」


 震える手で閂をひき、鍵を開けると、ドアノブは向こうから回されて扉が開かれた。そこには、給湯室でいっしょにお茶を飲んだあの修道女の顔がある。


「あぁ、やっぱりマリカさんね。無事でよかった」


 修道女は歯を見せて快活に笑う。


 彼女は修道服の上に薄手の黒いロングコートを着ていた。右手には一メートル半ほどの太い棒を握っている。木刀というよりはうどん打ちの麺棒を長くしたようなもので、いかにも重たくて頑丈そうだ。逆の腕でマリカは抱きよせられた。なんのためもなく持ちあげられる。


 廊下に出たところで、



 狼ちゃん。こっちこっち。

 お茶でもしようや。



 居間に背広の男たちが三人。人懐っこい笑顔で手を振っていた。


 修道女の身体が緊張するのがわかった。マリカを無理やり自分で立たせる。


「先に帰りなさい。わたしが話をつけておくから。ここはあなたのような子どもがいる場所ではないわ」


「ここはあなたのような子どもがいる場所ではないわぁ」


 卑猥に真似て笑う声。


「早よ来いやぁなにしとんのや殺すゾ」


 上り調子にせかす声。


「待っちゃりゃええやろすこしくらい」


 しかたなさそうになだめる声。それに即応した、他のふたりの怒声と威嚇。獰猛な男たちは殺気立ち、仲間内でも揉めつつあった。

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