第5話 告白。

 学園の聖誕祭礼拝式はいつもどおり聖堂で行われた。


 ボランティア活動の後、予行演習を一日挟んですぐの日程だった。このような時に不謹慎ではないかと父兄からは自粛を求める声もあったが、礼拝式のなにが不謹慎であるかと信仰者たちに一喝されて大人しくなっていた。


 聖堂の中は、カーテンが閉められて、天蓋のステンドグラスからおりてくる厳かな光に満たされていた。撮影係のマリカは小走りに歩き、他の撮影係とアングルが重ならないよう気をつけながら自分のクラスメイトたちがよく映る位置を探す。聖堂の東壁には内装修理のために設けられた鉄パイプの梯子があり、教師に怒られない程度に足をかけて撮影するのがベストショット・ポジションだった。


 撮影データはサーバに同期させて、自動でアップロードするよう指示されていた。来るべき卒業のおりには、記念の動画として編集されて生徒たちに配られる予定だ。となると撮影係に選ばれるのは、うるわしい青春の一ページには記録されなくてもかまわない人物というのがこの学園の生徒たちの伝統になっていたが、マリカはそれに選ばれる常連のひとりだった。


 それでもマリカはこの仕事が気に入っていた。カメラのレンズを通すと、クラスメイトたちは清らかな乙女の顔つきになる。いつもの、マリカを見くだす意地悪な瞳はない。後ろ指をさして笑う声もない。とても美しい一粒一粒の真珠に変わる。ぼうっとして見惚れる。自分もその中にいるという夢を見る。幸せに満たされる──。


 神の子の聖誕をほとぐハンドベルの演奏からはじまって、受胎告知の演劇、燭火を受けわたすキャンドルサービス、司祭の滔々とした聖書朗読、プログラムはとどこおりなく進行してゆく。


 中で一番時間を取ったのは、太歳会の代表であるおほうさまの講演だった。施設で何回か見たことのあるアンジェラよりすこし年上くらいの女性で、艶のある黒髪をバレッタでまとめ、落ちついた色あいの和装で固めている。その語り口は優しく朗らかで、女性による信仰と自由の獲得について、生徒にもわかりやすいたとえを用いて論じていた。先日の災いにも触れたものの【罰】という言葉は用いず、人の世の幸不幸は主の深い御心によるものであり、死もまた人たる者の定めなのだから恐れてはならない。明日ふりかかるかもしれない苦しみに思い煩うのではなく、主のお教えに従って今このときを精一杯に生きることこそが大切なのだと説いた。講演は満場の感嘆と喝采で終わった。涙している生徒もいた。


 最後に一同でハレルヤの讃美歌を歌った。太歳会で作られた、学校の行事でもよく歌われるものだ。


 乙女たちの歌声が聖堂に響きわたる。


 マリカは梯子の二段目に片足をかけてこれを撮影していた。すると、冷たいものがひたりと足を濡らすのを感じた。携帯の画面から目を外して見ると、足先が水に浸っている。足元になぜか──、水面がある。


 マリカは驚いてあたりを見まわした。聖堂の床一面に水が張られていて、その嵩は立って歌う人たちの脛あたりまであった。どうしてか、それを気にする人はいない。まさかと思ってアプリの画面に目を戻すと、やはり。そこには水など映っていない。


 どういうことだろう。


 自分ひとりの肉眼に見える幻のようなものだろうか。


 慄然としたが、ハレルヤの斉唱は聖誕祭の最後を飾るもので、クラスのみんなからはベストショットが期待されていた。


 梯子を一段のぼった。すると、水面がゆっくり追ってくる。もう一段のぼった。やはりおなじように追ってくる。これ以上のぼると他から変に思われそうだった。教師から怒られておろされるかもしれない。


 水が膝のあたりまで来て、マリカは一か八かやってみることにした。とりあえずもう一段あがり、できるだけ揺らさないよう気をつけて携帯のストラップを梯子のボルトに回してかける。レンズの向きを調整して固定する。自分になにがあっても撮影だけは止めてはならない。そう思う。


 水面を睨みつけた。


 これはきっと、わたしひとりにしか見えない幽霊のようなものだ。幽霊のようなものなら、すでにやり合ったことがある。効きにくいかもしれないが、効かないわけでもない。売られた喧嘩は買ってやるより他はない。


 今のわたしは──、今までとは違うぞ。



 エゴ・ソルス・バレオ。



 パンと、それなりにおおきな音を立てて白い波紋が聖堂に広がった。一瞬の間をおいて、すさまじい勢いのエネルギーが身体の中に流れこんでくる。


 マリカは混乱した。


 原色の混じりあう豊かな香りと味わい。


 その数と量といったら!


 そして、マリカは大失敗したことに気づいた。


 確かに水の幽霊は消えていた。しかし、肝心のハレルヤの合唱まで消えていた。生徒たちは怯えて騒然とし、倒れて介抱されている者まであった。水の幽霊もろとも、聖堂に集まっている生徒たちの元気まで吸い取ってしまったのである。


 斉唱中断のアナウンスが流れた。十五分の休憩をはさんでやりなおすとのことで、貧血を起こした生徒が保健室へと運ばれてゆく。


 その様子を眺めながら、マリカはなんとなく思いついてしまった。


 会場のパニックが自分のせいだとは、誰も気づいていない。自分は放課後に、アンジェラへの告白という人生の一大イベントを控えている。


 だから。


 こっそり、もう一度だけ。


 みんなから元気を分けてもらったら──、どうだろう?


 だいじょうぶ。死人までは出やしない。きっと、保健室が満員になるくらいのこと。救急車で運ばれるくらいのこと。


 マリカはゴクリと唾を呑んだ。


 そっと左手を前に出す。


 エゴ・ソルス・バレオ、と、心の中で唱えようとして、教師から大声で呼ばれた。どこまで梯子にのぼっているのかと怒られてしまう。



 すこし残念。


 すこし、ホッとした。



 再開されたハレルヤの合唱は何事もなく終わった。マリカも教師から監視されながら梯子に一段だけ足をかけて撮影を終えた。危ないことをしてはならないとさらに絞られた。


 教師たちとならんで立つアンジェラがこちらを見ていた。恥ずかしくもあり、嬉しくもあり、ちいさく手を振ってこたえた。




          ◇          ◇




 礼拝式は午前中で終わった。


 長めのホームルームの後、マリカは荷物をまとめて給湯室に向かった。


 会ってやることは決まっていた。そのための元気は十分にあった。給湯室には鍵がかかっていて、落ちつかずに廊下をうろうろしていると、じきにアンジェラがやってきた。


 アンジェラが鍵を開けて入り、マリカもそれにつづく。後ろ手にドアを閉めた。怪訝そうに見られたので、その視線を真っ向から受け止める。


 アンジェラは戸惑っているようだった。


「寒いかもしれないけど扉は開けておいて。規則なの」


 マリカは答えない。


 給湯室にはふたりだけ。廊下にも人はない。


 チャンスだった。


 アンジェラをさらに強く見つめて、一言。たった一言を口にすれば──、なにかが始まるのか、すべてが終わるのか、それともなにも変わらないのか、その答えが、胸にかかえる想いの結末が、あきらかになるはずだ。


 分の悪い賭けだとは思っている。しかし行わなければ、行わずにすぎ去ってしまうだけのこと。この胸が張り裂けそうな想いを、切望を、幸せの想い出として隠し持ち、終わりの時まで眺めて懐かしむなんて、そんな惨めな生き方は嫌だった。死に方は嫌だった。


 だから一秒でいい。


 この一瞬だけ。


 崖から飛びおりる勇気が欲しい。


 そのために自分を騙す仕掛けを作る。


 告白をしてなにも始まらなかったとしても、アンジェラは大人である。「そう、ありがとう」とでも優しく微笑んで、思春期にありがちな一過性の熱病のようなものとして見逃してくれるに違いない。


 だから結末は二通りだ。


 なにかが始まるのか。なにも変わらないのか。それだけ。


 だいじょうぶ。


 わたしはきちんと飛びおりることができる。


 そしてうつむき、勢いよく顔を上げたとき──、マリカが目にしたものは、今までに見たことのないアンジェラの表情だった。


 アンジェラの顔からは一切の感情が消えていた。怒りもない。悲しみもない。そこにはただ、この世の深淵にひそむ恐ろしいものと対峙する、信仰者の空漠とした覚悟があった。


 マリカはアンジェラを侮っていたことに気づいた。アンジェラが修道女であるという事実に、あらためて気づいたのだ。


 教義では、同性間の恋愛は自然ではなく背徳的なものだと考えられている。信仰に人生を捧げる修道女なら、なおさらかたくなにそう考えるだろう。今のアンジェラの目に自分は、神の道を踏み外した汚らわしい商売女のように映っているのだろうか。聖者を試し堕落へと誘う蛇のように映っているのだろうか。


 マリカは大声で叫びたい衝動にかられた。清く正しい魂を持つアンジェラに、そこまでの覚悟をさせてしまった原因のことごとくが、勘違いであり、誤解であること、そしてマリカ自身もまた完全に清く正しいままなのだと、両腕を広げて弁明したかった。しかし、それは勘違いでも誤解でもなかった。悪魔と契約した者の魂が、たとえその欠片ですら清く正しいものであるはずはなかったのである。


「マリカさん、開けて。規則なの」


 アンジェラはそう繰り返して歩いてくる。マリカがよろけて脇にどくと、給湯室の扉は開かれてストッパーで止められてしまった。


 アンジェラは無言のまま、ポットに水を入れて電気コンロで沸かしはじめる。


 マリカは糸が切れたように感じて、後ろにあった丸椅子に腰をおろした。しくじってしまったのだった。しかし、まだ希望もあった。それは、まだ告白をしていないという事実そのものである。アンジェラもすこし落ちつきさえすれば、なんでもなかったかのように繕い、ハーブティのセットの中から「これでいい?」と、ティーパックをひとつ取りだして訊くに違いない。そのときにはわたしも「うん。それで」と答えよう。間違いをしかけたけれどもギリギリのところで踏みとどまり、胸が潰れそうな恥ずかしさをこらえてはにかむ乙女のように、愛らしく、可憐に、ふっと蝋燭のあかりを吹き消すように、そう答えるのだ。


 しかし、アンジェラはぞんざいにティーパックを選ぶと、マグカップに入れてお湯を注いだ。どれを飲みたいかについてマリカに訊くことはなかった。


 そうなるとマリカは、アンジェラの顔を見る勇気もなくなってしまう。取り返しがつかないことをしてしまったのだと、心が沈んでゆく。


 マグカップがわたされた。


 アンジェラがハーブティを啜る音が聞こえる。マリカはなにかを話さなければならないと思ったが、なにを話せばいいのかわからなかった。


「もう飲んだ? 行こうか」


 しばらくして、アンジェラはマリカの方を見もせずに言った。マリカのマグカップには、まだ二口ほども残っていたのに。


 ふたりはそれぞれのマグカップを洗った。


 これで終わりのようだった。


 後悔がマリカの胸をしめあげてゆく。いったい、どうすればこの罪を贖えるのだろう。いったい、どうすればアンジェラはわたしを赦してくれるのだろう。


 扉からストッパーを外すアンジェラの背中を見る。


 息ができなくなる。


「どうしたの。行きましょう」


 マリカは恐怖した。嫌だった。いったん給湯室から出てしまったら、いつもの「またね」という言葉はかけられないに違いない。もう会えないかもしれない。会ってもらえないかもしれない。だから、マリカは給湯室から出るわけにはいかなかった。アンジェラを給湯室から出すわけにはいかなかった。


 マリカは右手をのばして、修道服の裾を握った。アンジェラは身を固くして振り払おうとする素振りさえ見せた。手に力をこめてとどめる。


「ごめんなさい」


 声が震えるのを感じた。


 顔を上げるが、視界に水が揺らいで、アンジェラがどのような表情をしているのかわからない。


 マリカは嗚咽した。


 額を修道服につけて、謝った。


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 マリカは泣きながら繰り返した。


 穢されてしまったアンジェラの身体が、その魂とおなじく清く正しいものに還るように、祈りながら。ふたたび修道女としてふさわしい道に戻れるように、祈りながら。




 じきに、おおきな手のひらが頭に添えられるのを感じた。


 傷つけることを恐れるように、そっと、


 徐々に、しっかりと。


 その手のひらはゆっくりとした動きで、いつまでも、いつまでも、マリカの頭を撫でつづけたのである。




 四年の歳月を経てようやく、マリカは、アンジェラへの告白ができたことを知った。

 そして赦されたのだということを、知ったのである。

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