第3話 戦うこと。

「聖務である。顔を出せ」


 贖宥符をもらって二か月くらいたった、十一月も半ばをすぎた寒い夜。


 エスから電話で連絡があった。


 マリカは寮の自室で毛布をかぶり、携帯で動画を撮影するためのアプリをいじっていた。学期末に催される聖誕祭の礼拝式で、マリカはクラスのみんなから撮影係に選ばれていた。学校から指定されたアプリをインストールして、それなりに機能を使えるようになっておかねばならなかった。


 エスの要件は緊急らしかった。代祷をしなければならないのだが【倦怠】の奇跡が必要なのだという。マリカの力が必要なのだという。


 自分のことが必要だと連呼されて、マリカは舞いあがるほどに嬉しくなった。集合時間は夜中の二時とのことだから告別式ではなく通夜の集いのようだ。


「うん。うん。だいじょうぶ」


 詳細も聞かずに安請け合いする。


「よろしく頼む。町の滅びにかかわる大事である」

「え?」


 聞きなおす間もなく、通話は切れた。


 寮の正面玄関は電子ロックがかかっていて、消灯時間をすぎるとマスターキーがなければ内からも外からも開かない。そこで、寮生であれば誰もが知ってはいるがあまり褒められるべきではない抜け口を選ぶ。マリカは他の寮生たちを起こさぬよう、非常灯に照らされる廊下を忍び足で歩いた。一階にある食堂を通って、調理場の裏口から鍵を開けて外に出る。菜園を囲むブロックの下から合鍵を取りだして鍵を閉め、また元に戻しておく。敷地を囲むフェンスの穴をくぐり、雑草の繁る斜面を靴の裏で滑って、跳んで道路におりる。


 そこからは姿を隠すものがなかった。


 とりあえず走った。


 真夜中の町は昼間と勝手が違う。城址跡地公園の脇にある遊歩道が近道だが、黒々とした堀の水面に引きこまれそうになるので通らない。大通りはパトカーが巡回していて見つかると補導されるので住宅の並ぶ路地に入る。


 たよりない街灯が行く道を照らす。町は冬支度の最中で、道の中央に敷かれた融雪装置が背丈ほどの高さにまで水を噴きあげている。地下水を使うため、融雪装置の噴く水からも、側溝の蓋の隙間からも、白い靄が湧いて川のように流れている。硫黄の匂いがする。


 待ちあわせ場所は聖マリア学園の門の前だった。


 エスはダッフルコートとマフラーというふくらんだ恰好で、例の大型本【赦しのために】を胸にかかえていた。アカリは薄手のパーカーに軍手という作業用の出で立ちで、スコップやらバケツやらをガチャガチャ両手に下げている。


 そのふたりといっしょに、ひとりの老いた修道女がいた。肩幅が広くて体格のよい、鷹のように吊りあがった目の持主である。彼女はアンジェラとおなじデザインの竹刀袋を肩にかけていた。顔色が悪く土色に見える。


「キヨエ、感謝する。これで赤子の魂をアカシャに還すことができる」

「嫌味のつもりか。礼を言われる立場ではない」

「余では余計なものが寄ってくるのを防げなかった。それなりに感謝しておる」

「おれも行くか」

「いや。おまえがいると話がややこしくなる。余らだけで行く」


 エスはマリカに気づきはしたものの、目で挨拶をしただけで、声を落してさらに修道女と話しこんでいる。火の毒の拡散を防ぐ──、【罪堕ち】の聖絶──、断片的に聞こえる会話には穏やかではない言葉が紛れている。


「とにかくおほうを説得しろ。それが、この町が戦火を免れるための唯一の方法だ」


 老修道女は節くれだった指でエスの胸元をつくと、重たい足取りで暗闇へと消えていった。


「余が言うてあれが聞く耳を持つと思うか。喧嘩になるだけである」


 エスは肩を落としてぼやく。


 アカリがマリカにささやいた。


「あの人が七不思議のひとつ、学園を徘徊する老修道女の幽霊──、その正体さ。あぁ見えても、山の修道院を創った人で、お偉いさんなんだぜ。でも、もう出ることはない。墓守の仕事が終わったからな」

「はかもり?」

「そう。墓守さ。変なのが近づかないよう仕掛けを作ってもらってたんだ。今からうちらがその墓を暴きにいく。マリカがひき寄せられた、バンシーの依り所にね」


 バンシー。


 マリカはその名前を本で読んで知っていた。


 人の死を予言して泣き叫ぶという、女の姿をした妖精である。確か、血のついた鎖帷子を川で洗って戦争におもむいた人の死を告げたり、口づけを交わした者の願いをかなえるという話もあった。


 しかしなぜ、それがこんなところに?


「バンシーは悲しみを司るアカシャの一族である。彼我の区別が曖昧で、親しい者には強い執着を示す。注意せよ。奴らはただ哭いておるばかりの非力な存在ではないぞ。その腕は強く、長いのである」


 エスはマリカを先に促す。このまま学園の敷地に入れということらしいが、なんだか思っていたのと違う。


 おろおろしていると、せかされてお尻を叩かれてしまった。


 三人で片引きの門をのり越え、あたりに注意しながら中庭まで歩く。防犯灯の近くに、マリカがいつも弁当を食べている桜の老木があった。


「ここを掘れ」


 エスは太く盛りあがった根のあたりを示した。根が座りやすい形に曲がっていて、マリカが椅子がわりにしていたお気に入りの場所だ。


「ここなの?」

「ここである」

「ほんとうに?」

「ほんとうである。そこに印があるであろう」


 見ると、今まで気づかなかったが、確かに、樹皮に十字が刻まれていた。ぐるりと回ってみるが他にそれらしいものは見あたらない。


 アカリが根のあたりをショベルで掘りはじめた。


 マリカも自棄になって負けじと掘った。


 エスはおよそ監督役で、掘り方が雑だとか、根を傷つけるなとか、ふたりの仕事に細かく注文をつけていた。


 ふと、エスは闇夜にのびる桜の枝ぶりを見あげた。


 マリカもつられて見あげる。どこからか水の匂いがして空気が冷たくなった。うっすら霧がかり、ちいさな光たちが樹のまわりを飛びはじめる。


 そして。


 最初は幽かに──。


 次第にはっきりと──。


 女たちの嘆く声がどこからか聞こえてくる。


「アカリ」

 と、エスが呼んで、

「へいへい」

 アカリが気だるげに応じる。


 アカリはショベルをおいて光の密集するあたりに入った。


 手のひらを上に向けて形のよい唇を開く。細く、朧げに、この世のものとは思えない歌うような声が彼女の喉から発せられる。


 その言葉の半分ほどは、マリカにも理解できる言葉だった。しかし残りの半分は、マリカには理解できない概念をのせた言葉だった。


 アカリの声に呼応して、光の群れは色調を変えて静かな寒色に落ちついてゆく。空間が渦巻き、中心から幾本もの白い腕がのびでてきた。頭が現れ、全身が現れる。陽炎のようにとりとめのない背の高い女たちだ。彫りの深い面長の顔に真っ赤な目を輝かせている。口は耳まで裂けている。


 マリカにはそれが、よく知っている人の姿と似ているように思えた。


「やつらはなんと言っておる。なにを怒っておるのだ」

「『塵捨ての谷に住まう盗賊どもよ。かどわかされた同胞の魂は我らが故郷に連れ還る。無駄話などしておらず、とっと掘り出せ。この罪穢れた薄ノロどもめ』だって」

「アカリ。以下を伝えよ。『余は皇帝勅書【赦しのために】の理外審問官エスである。高貴なるバンシーの一族に申す。不幸なる取り換えっ子の始末、ご足労いたみいる。古き精霊の働きによって贖宥符の縁は朽ち落とされた。汝らは同胞の魂を回収せよ。我らは贖宥符【悲嘆】を回収する。正式な謝辞はあらためて伝える。では作業に戻るゆえ、失礼』とな」


 そしてエスはマリカに顔を寄せる。


「マリカ。剣呑である。余が合図したら、バンシーどもの元気を全力で吸い取ってやれ。アカシャの田舎女どもの、のぼせた頭を瀉血治療してやる。ひるんだ隙に──、逃げるぞ」

「え?」

「返事は」

「……わ、わかった」

「うむ。それでよい」


 そのとき、カツンと、ショベルの歯が硬いものに触れた。ぞぞぞぞと冷たい感じが腕に伝わる。なに? なに? 頭の中で疑問を連呼したが、それがなにであるかなどわかりきっていた。桜の樹の下に埋まっているものなど相場が決まっている。マリカは気が遠くなりかけながら、卒業生の恥ずかしいタイムカプセルだったらいいのにと、脈絡のない希望を想っていた。


 気づいたアカリがこちらに戻り、

「ほい出てきた」

 屈んで穴から丸いものを取りだす。


 マリカは凍りついた。もちろんそれはタイムカプセルなどではなかった。「まさか」というべきか、「やはり」というべきか、泥のこびりついた人間の頭蓋骨である。両の拳を合わせたくらいのおおきさで、赤ちゃんのもののようだ。その額には、マリカとおなじ、正方形をふたつ重ねた八芒の印形が燃えている。


 頭蓋骨にある穴からちいさな虫たちが出てきて、アカリの手や腕を這った。アカリは気にすることなく頭蓋骨を頭の上に掲げている。


 エスは皇帝勅書【赦しのために】を開き、


「神はまさに生きておられる」


 と、以前とおなじ枕詞を言った。


「神よ。この者は洗礼を受けず、原罪から免れる前にその生を終えた。しかしながらこの者には全免の贖宥が与えられ、あらゆる罪の贖いから免れる者となった。理外審問官エスがその証人である。贖宥の聖別によるこの者の救済をこいねがう。重荷に潰された子どもらを弾劾する恥知らずな律法学者どもを退けたまえ。この子羊を憐れみ狭き天国の門へと導きたまえ」


 髏の贖宥符が真っ赤な火を噴き出した。火はたちまち頭蓋骨を侵食すると、炭の粉に変えて夜空へと高く巻きあげてゆく。その流れを導くようにバンシーたちがつきまとった。印形はほどけて火の紐となり、皇帝勅書のページに吸いこまれて消えた。


 エスは本を閉じる。


 アカリは空になった両手を掲げたままだ。


 赤と黒のつむじ風が上空に消えてしまうと、バンシーたちはまた騒ぎはじめた。白く長い腕がこちらにのばされてくる。


 アカリはうろたえていた。


「エス姉ぇ。悪ぃ。しくじった」

「どうした」

「かどわかされた魂の数は、ふたつだって。かわりに誰かを連れてゆくって。……どうしよう」

「マリカ。やれ」


 マリカはうなずいた。そして、一歩前に踏みだそうと、思った。しかし、身体はまるで自分のものではないように動かなかった。


 不思議に思ってもう一度試す。


 やはりおなじだ。


 動かない。


 目の前にいくつもの手が迫っていた。その指はなにかを掴もうと開かれている。離れていても感じるほどの、冷たく湿った指先。それが、触れる。自分に触れる。マリカの中から大切なものを掴みだし、どこか知らない世界へと持ち去ろうとしている。


 マリカは自分が恐怖していることを知った。


「マリカァッ、やれエッ!」


 エスが大声を発した。


 前が拓けたような気がした。瞬発で動き、エゴ・ソルス・バレオと、息を止めて鮮烈なイメージを叩きつける。パンッと乾いた音がして白い波が広がり、マリカたちに触れようとしていた腕を弾き飛ばした。


 しかし、バンシーたちが怯んだのは一瞬だった。すぐに倍を越える数の腕がこちらにのばされてくる。


「うわあああああっ!」


 マリカは叫んで心の中で呪句を連発した。


 エゴ・ソルス・バレオ。

 エゴ・ソルス・バレオ。


 こいつらの中身を空にしてやろうと思った。こいつらのすべてを奪ってやろうと思った。さきほどの恐怖を、死の直感を、数十倍、数百倍の痛みに換えて、思い知らせてやろうと思った。


 それでもマリカの意気込みほどには効いていないようだった。バンシーの群れは戸惑うように動きをとめるだけで、萎びて消えるわけではなく、力尽きて落ちるわけでもない。揺れながら、伸び縮みしながら、こちらをどう料理しようかと思案しているようだ。


 マリカとしても手ごたえのおかしなことは感じていた。施設の子どもたちとは違って、香りや味というものがない。空気を呑んだようだ。


 袖をエスに引っ張られた。


「もう十分である! 逃げるが勝ちである! 逃げよ、逃げよ、門まで走れっ!」


 三人は走った。とたんに背後が騒がしくなる。無数の女たちの、悲鳴と、嗚咽と、慟哭と、この世のあらゆる悲しみが怒涛となって響きわたる。振り返ると、長い腕が増殖してミミズのように絡まり合いながら追ってきていた。


 しんがりのつもりなのか、エスは後ろを走っていた。おおきな本をかかえて走りにくそうだ。マリカが心配していると、距離が離れ、ふらつき、パタリと倒れてしまった。


「アカリさん、エスがっ!」

「ええええええぇーっ!?」


 マリカとアカリは泡をくって戻った。エスは本をかばって亀のように身体を丸めている。


 アカリが下から腕を回してエスを肩に担ぎ、マリカはその前に出た。


 エゴ・ソルス・バレオと心の中で呟いて、


「たぁぁっ!」


 高らかな気合を発して【倦怠】の奇跡を顕す。白い波紋がバンシーたちの動きを止める。しかし、やはり効果は一瞬だけのことだ。


 マリカはくるりと向きを変えて走った。


 アカリもおなじように走る。人ひとり担いで軸のぶれない足取り。横顔はりりしく少年のようだ。


「マ、マリカさ」


 息を切らしながらアカリが叫んだ。


「さっきの気合、すげぇ可愛かったっ!」

「……」


 マリカは耳たぶまで赤くなるのを感じた。


 アカリの肩ではエスが口を横一文字に結んでいた。


 バンシーたちは桜の樹から五十メートルほどが行動範囲のようで、中庭の外までは追ってこなかった。空中で腕を絡ませながら悲嘆の合唱を響かせている。


「マリカ。人がこの世で生きてゆくためには、他人を踏みにじってでも我を通さねばならぬ──、ときがある。おまえはついに闘争というものを経験した。もう、よい頃合いであろう」


 校門で地面におろされたエスは、威厳を取り戻そうとするかのように横柄な口ぶりで言った。


「告白である。聖誕祭が近いゆえ、それに合わせるのがよい。こたびのことで、余とおまえは死線を越えた戦友となった。戦友への責務は正しく果たすべきものである。戦友からの信頼には正しくこたえるべきものである。そうであろう、マリカ」

「……う、うん」


 思わぬ言いように押されて、マリカは相槌を打った。


 おおきく呼吸して、目を閉じる。心の声に耳を傾けて、また目を開く。


 そのとおりだ。


 贖宥符をもらってから、二か月以上がたつ。


 自分の変わりようは自覚している。


 もう、今までのような、世界の隅っこで途方に暮れているだけのわたしじゃない。この世界に価値があるというのなら、わたしにだって価値がある。この世界がわたしを否定するなら、わたしだってこの世界を否定しかえしてやる──、その気構えがある。


 マリカは決めた。


 よい頃合い、だった。


「うん。わたし、告白してみる。わたし、やってみる」


 アカリは喜んで手を打った。


「あはっ、すげぇ! マリカ、すげぇよ。やろうぜ。いっしょにやろう! できるさ、おれたちならきっとでき」と、言いかけて、「痛ぇ!」と屈みこむ。


 エスがつま先でアカリの脛を蹴りあげたのだった。


「『いっしょ』とか『おれたち』とか、アホウか。他人の告白にぞろぞろ後ろをついてゆくつもりか。気もち悪い」


「いや、だって心配だろ。おれだってまだ役にたてるし。弁当を作ったり、元気を吸われたり、……なんつーか、マリカの乾電池役みてぇな?」


 エスにもう一度脛を蹴られて、アカリはケンケンしていた。


 マリカはすこし噴き出してしまう。


 エスはフンと鼻を鳴らした。


「アカリ。マリカを侮ることは許さん。マリカはもうだいじょうぶである。ひとりで立てるようなら放っておく、それが対等な人としての礼儀である。おまえにはおまえの責務がある。それを正しく果たせ」

「ふへーい」


 アカリはきまり悪そうな顔をこちらに向けた。


 エスは三日月型に口を曲げて嗤う。


「マリカ。おまえなら必ずやりとげると余は信じておる。が四の五の言うようなら、唇でも奪って黙らせてやれ。今やおまえはエゴ・ソルス・バレオの使い手である。押し倒して想いを遂げることすら思いのままなのである」


 マリカもまた笑みでこたえる。過激なけしかけ方をする悪魔だが、唇を奪うというのはとても素晴らしい提案に思える。


 空に輝く月を見あげる。


 胸の中には元気だけではなく、ちいさな勇気が明るく燃えているようだった。

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