第2話 祈り働くこと。
エスの用意した聖務とは、ありていに言えばバイトだった。
とある宗教法人の運営する施設で、アカリといっしょに子どもたちの世話をする手伝いをしろというのである。
その宗教法人の名を太歳会という。
昔からある独立正統教会で、この町で知らない者はいない。「揺りかごから墓場まで」をモットーに、冠婚葬祭はもとより結婚の相談から就職の斡旋まで町の生活をトータルで支援するおおきな教会組織である。
その代表を、おほうさまと呼ばれる若い女性がつとめていた。
女性であり司祭ではないものの、町の運営に力を尽くす人物であり、信仰の面でも、政治の面でも、他の追随を許さないこの町の第一人者だった。「町民の半分が教会員として太歳会に従うが、町民のすべてが下僕としておほうさまに従う」そう冗談にささやかれるほどの人望と権勢を誇っていた。
学園では風紀の乱れのもとになるとしてバイトは禁止されていた。担任におそるおそる相談すると、職員会議にかけるから事情を紙に書いて出すようにと言われる。どうしたものかと悩んでいると、エスから一枚の書類をわたされた。おほうさまの署名のついた、太歳会発行のインターンシップ認可書だった。
これを出した即日でバイトの許可がおりた。必要があれば早退の融通も利かせてくれるという。
「聖マリア学園の経営母体は太歳会なのである」
エスは大人の事情を種明かしした。
ただ詳しく聞いてみると、アンジェラのような学園で働く修道女たちは太歳会の所属ではないようだ。山の修道院は公認された正統派で、教会の格としてはずいぶん上らしい。太歳会からの依頼で学生の教導役として修道女を派遣しているとのことだ。
施設は寮から歩いて一時間ほどの距離にあった。
病院や学校を思わせる鉄筋コンクリートの建屋で、広い庭があって滑り台やブランコなどの遊具も充実している。警備はとても厳重で、敷地全体が有刺鉄線つきの柵で囲まれ、門にはIDカードをチェックする機械と守衛所まで備えられていた。
バイトに入るのは小学校に通う子どもたちが戻ってくる時間帯で、施設はおもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎだった。職員たちが夕食の支度に専念できるよう、子どもたちの混乱をあの手この手でおさめるのがマリカたちの仕事だった。
アカリは二年ほど前からここで働いているようだ。何回か通っているうちに、マリカはアカリとよいパートナーになった。
出勤するとまず、仕事用の白い上衣を制服の上に羽織る。子どもたちの相手はアカリに任せて、マリカは玄関やら庭やらの掃除をする。アカリは例の目つきの悪いカラスを呼んで、曲芸のようものを披露したり、聖歌を歌ったり歌わせたりしているが、それらの手札が尽きるころには夕暮れもすぎていて、子どもたちを建屋に追いこんでゆく。そして次はマリカの出番である。子ども用の本を一冊選んで大部屋のまんなかに座り、できるだけおおきな声で、しかし実際には消え入るような声で、朗読をはじめる。
初めのうちは、本を読むマリカに耳を貸す子どもなどいない。アカリの髪を引っ張ったり、蹴っては逃げたりの大暴れである。それがじきに、子どもたちは息を切らしてマリカのまわりに集まってくる。声がちいさくて聞き取りにくいもので、よけいに近づいて、寝ころび、耳をかたむけるようになる。
そうこうしているうちに、食事の支度ができて職員から声がかかる。子どもたちは一様に気だるげで、マリカの指示に従っておとなしく食堂へと向かう。職員たちは首をかしげながらも、マリカの子どもたちのあしらい方が上手だと感心していた。
もちろんこれには、種も仕掛けもある。ひそかにエゴ・ソルス・バレオを連発して、子どもたちから余っている【元気】をお裾分けしてもらっていたのである。
この【倦怠】の奇跡は、考えてみればありふれた現象だった。
たとえば森林浴。なぜ人は森林浴で元気になるのか。それは樹木よりも人のほうが元気をひきよせる力が強いからである。
たとえば繁華街の雑踏。なぜ人は雑踏で元気になる者と疲れる者とに分かれるのか。それは、人の中には元気をひきよせる力の強い者と弱い者とがいて、弱い者は強い者に元気を吸い取られてしまうからである。
【倦怠】の奇跡を用いると、その元気をひきよせる力を爆発的に強めることができた。身体をおおう半透明の膜をイメージで吹き飛ばしてやると吸いやすくなることにも気づいた。
慣れないころには失敗して、子どもたちがゲンナリするくらいに元気を奪ってしまったこともあった。そんなときには、子どもたちはなにもやる気を起こさず、食事を終えてからの自由時間を大部屋のテレビの前でゴロゴロしてすごしていた。マリカはあわてていろいろ試したが、吸い取った元気をふたたび分け与えることはできないようだった。
こうしたあわただしい日々が一か月もつづくと、マリカは職員たちから「しっかりしてきたね」と褒められるようになった。仕事の必要に迫られて職員たちと話をするようになっていたし、自分なりにおおきな声を出して子どもたちを叱るようにもなっていた。
マリカは今までバイトというものをしたことがなかった。七転八倒しながらも、とにかくつづけているうちに、仕事とはどういうものなのかがぼんやりわかってくる。
人の後ろを歩いているだけでは、けっして事は進まない。子どもたちの言い分を真に受けていては、子どもたちの世話をするという役目からは百億光年ほども遠ざかってしまう。自分に与えられた責任を果たし、自分の望む結果を手に入れるためには、自分から動いて主導権を握り、他人を押しのけてでも我を通さなければならない──、ときがある。
エゴ・ソルス・バレオ。
いっそのこと自分ひとりだけ元気であればいい。
清々しいまでに思いきりのよい言葉だった。他人への気遣いこそが人として大切な美徳だと教えられ、他人の顔色をうかがって生きてきたマリカにとっては、思いもよらない考え方だった。
このようなマリカの変化をアカリも喜んでくれた。告白ができるようになるのも時間の問題だと言った。
しかしエスはどこか浮かない様子だった。
彼女はときおり施設に顔をだすものの、仕事着に着がえもせず、いつもぼんやり考え事をしている。子どもたちの中でとくにやんちゃな双子にスカートをめくられても、興味なさそうに視線をやるだけで怒ろうともしない。かわりにアカリが拳骨を振りかざして追い回していた。
「マリカ。この子らをどう思う」
一度、エスにそう訊ねられたことがある。
どう思うと訊かれても──、
正直困った。
楽しげに遊ぶ子どもたちを見回す。エスの言わんとすることはわかる。
親がいないとか、なにかの事情で、とか、一般的な意味合いも、もちろんある。しかしそれ以上に、子どもたちはみな一様にさまざまな意味で個性的だった。それはたとえば、体格であり、容姿であり、性格であり、趣味嗜好であったりしたが、それらの個性が原因で子どもらの半数は小学校に通うこともできずにいるという。確かにマリカも、当初はそのような子どもたちに戸惑っていたものの、他人の特徴をあげつらえるほど自分のマトモさに自信は持っていなかったし、いくら珍しいとはいえ、これだけの数を集められて、しかも世話をする立場で、いつまでも戸惑いつづけろと言われるほうが無理な話だった。
マリカはどう答えればよいのかわからないので黙っていた。
「近い内に、余はこの子らをどうにかせねばならぬかもしれん。限りのある時間だとしても、面倒をよくみてやってくれ。【倦怠】の奇跡を持つおまえにしか頼めぬことである」
マリカはエスを見た。自分に贖宥符が与えられたのは偶然ではなく、なにか必要があってのことのようだ。
エスは子どもたちを眺めてまたぼんやりしている。
マリカもその視線を追う。
子どもたちはただ今目の前にある遊びに夢中になっていた。
◇ ◇
月末〆の翌月十五日払いで、バイト代として十二万円の入った封筒を職員からわたされた。
明細によると時給は二千円で、高校生のバイト代としては考えられないくらいによいものだった。理外審問機関【スープラ】の会費として、その十二分の一──、一万円をアカリに徴収された。
【スープラ】とは、エスを中心とした贖宥符持ちの組織らしかった。マリカはこれについて聞かされたことはなかったし、会費のことも初耳だった。さすがに頭にきて、そういうことは最初に言ってほしいと文句をつけると、アカリは身をちいさくして「悪ぃ。エス姉ぇから聞いてると思ってた」と片手を立てて謝ってくる。「やっぱ、マリカ変わったな。しっかりしてきた」ご機嫌取りのお世辞も言われた。得意な気分になったので、手作りのお弁当一週間分で許してあげた。
アカリとエスはアパートで暮らしていて、一度は夕食に招かれもした。アカリの手料理でメインデッシュは牡蠣フライだった。サクサクしてとても美味しかった。
施設でのバイトをはじめて、今まで寮と学校を結ぶ直線だった生活圏が三点に囲まれる平面に広がった。その平面に繁華街が含まれたことで、マリカの世界は白黒のモノトーンから色鮮やかなモザイク模様に変わった。
クラクションの連打される交差点の渋滞。
ゲームセンターにたむろするガラの悪い他校の生徒たち。
香水の匂いを後ろにひいて仕事場へと急ぐ、美しく着飾った夜の女たち。
他人から言われるままに、言われたことしかしてこなかったマリカの目には、この喧騒はとても華やかで煌びやかなものに映った。
マリカには時々、繁華街のアスファルトの道路にうっすらと水の膜が張っているのが見えることがあった。それは雨の日の雨水のように、街のネオンを映しながら道路の傾斜を流れてゆき、意識して目を凝らすと幻のように消えた。
なんなのだろうと思いつつ、気にしないことにした。
マリカはただ、目の前の道を踏みしめて歩く。
ずっと以前から憧れていたもの。
ようやく指先に触れたもの。
世界の華やかさ煌びやかさを目に焼きつける。
心に焼きつける──。
繁華街の大通りに面した教会に、エスの姿を見かけることもあった。
たいていは教会から出てくるところで、中では葬儀が執り行われていた。エスは見送りの遺族たちに頭を下げると、大型本を胸にかかえて小走りに去っていった。
エスとはいったい何者なのだろう。ほんとうに悪魔なのだろうか。そんなことを考えていると、職員からあっさり教えられた。
あの見た目でもいちおう社会人で、【供儀の巫女】という肩書で葬儀関連の仕事をしているのだという。死者の魂を火で清めて約束の地へと送りだす、代祷の儀式を有料でひき受けているらしい。このオプションが遺族に示されるのは太歳会が必要と認めた場合に限られるようだが、それなりに需要はあるようで、葬儀の増える冬場になるとどのようなトリックを使っているのか、離れた別の教会で同時にエスの姿が見られることもあるそうだ。ひどいときにはスケジュールが混乱して、おなじ教会に何人かのエスが鉢合わせしてしまうこともあるそうだが──、さすがに、それは冗談だと笑われてしまった。
ある時一度だけ、夕暮れのアーケード街で他の修道女たちといるアンジェラの姿を見かけたこともある。修道女たちはスーパーを出入りする人たちに手製のチラシを配っていた。修道院で開かれるチャリティーバザーの案内のようだ。
アンジェラも通行人に声をかけてチラシをわたしていたが、学園でのような背筋をピンとのばしたところはなく、マフラーに深く首をうずめて膝を折り気味にしていた。自分の顔だちと身長を気にして目立たなくしようとしているようだ。同僚たちにも気を使って、なにかと頭を下げては不器用な愛想笑いをふりまいていた。
マリカはしばらく見ていたが、路地に入り、駆けて寮に戻った。胸が高鳴る。身体が火照る。就寝の時間になっても、アンジェラの自信なさげな姿が頭から離れなかった。
アンジェラもわたしとおなじで完璧ではないのかもしれない。アンジェラもわたしとおなじで弱いところがあるのかもしれない。
マリカはいつまでもそんな夢想にふけっていた。
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